關ヶ原の軍の前日、伊藤長門守至孝が大藪の陣所に、石田使を以て、疾く大垣に入りて一所になられよ、と言ひ送りしかば、至孝大垣に行く所を、德永左馬助壽昌、市橋下總守正舒慕ひけるに、伊藤金左衞門紫母衣に蛇の目の紋附きたるを懸け、三宅平大夫と唯二騎殿しけるが、十四五騎許追駈けたり。伊藤大音上げ、大事の殿よ勝負なせそ、と言ひて引退く。三宅は馬より下立ちしが、閧の聲に駭きて、馬は口に附きたる下人を踏倒して駈け出しぬ。步立に成りて靜に退くに日は暮れたり。斯る處に正舒の兵、市橋勘左衞門追ついて詞をかけ、鎗を合せんとせしに、三宅とは昔より親深かりければ、互に其聲を聞き知りて、夜中誰も知らざる處に行會ひぬるこそ幸なれ。爰にて戰ふとも何の功名か有るべき。いざ、とて立別れけり。至孝大垣に入りて、三宅は討たれしならん、と惜む處に、歸り來りて云々なりといへば、至孝悅んで、鹿毛なる馬によき鞍置きて與へ、三成は黃金三十兩引出物にぞしたりける。伊藤は十六七の頃より功名ありて、赤き手拭を鉢卷としければ、敵、例の赤手拭又出でたり、と世に言はれし者なり。或時軍破れて川岸を只一人引退く時、餓疲れけるに、敵一人腰なる兵粮を遣ふを見、走り寄つて斬伏せ、腹を裂いて飯を取出し、川水に浸し洗ひて打喰ひ、陣所に歸りけるとなり。