東照宮、金の七本骨の扇に日丸附けたる馬印は、參河の設樂郡牛窪の牧野半右衞門が印なりしを、永祿六年に乞ひ得させられて馬印となし給ふ。夫より前の御印は厭離穢土欣求淨土の八字を書きたるにて、大樹寺の登譽が筆なり。其印明曆丁酉の火災にかゝれりと言へり。然れども扇の御印は其前よりの事にや。天文十四年、公矢矧川にて織田家と軍有りし時、利無くて危かりしに、本多吉右衞門忠豐、疾く岡崎に入らせ給へ。御馬印を賜はり討死すべし、と申せ共許されず。扇の御馬印を取て淸田畷にて討死しける。其隙に危きを遁れ給へり。御印は忠豐が嫡子平八郞忠高が家に相傳へ、忠高も又戰死しける。其子忠勝が時に至りて、永祿二年東照宮乞ひ返させ給ひたりと云へり。