細川忠興豐前に在りし時、同州龍王の城に飯河豐前宗祐祿三千石、岩石の城に長岡肥後宗信祿六千石、宗祐の子寵せられて長岡の姓を與へられしに、父子とも罪有りて、慶長十一年七月二十一日二人とも誅せらる。宗祐は河北石見、逸見治左衞門を討手とし、宗信は增田藏人を討手とせらる。宗祐散々に戰ひて死傷多し。宗信が妻は米田助右衞門是政が女なり。宗信と睦しからず。對面せざる事三年に及べり。忠興、是政が後室の尼雲仙院と言へるを呼びて、豐前、肥後罪有りて誅すと雖も、汝が女と孫の女に罪無し。密に告知せて命を助けよ、となり。後室の尼聞きて、肥後が妻常に中よからず。然れども、夫を捨てて斯かる時に遁れんとは得こそ存ずまじけれど、仰せの忝きをば告げ申さん、とて文して告げ遣りければ、誠に仰せは忝けれど、今はの際に夫を捨てて遁れん事人道にあらず。女子は東西を辨へざる者なれば、養育して給はれ、とて使に附けて尼の許へ送りけり。宗信是を聞きて大に悔み、我過を謝し、終に共に自害したりけり。