慶長年中禁裡に散樂の有りし時、貴賤群參しけり。吉岡建法と言ふ染物屋、劍術の妙手にて有りしが、無禮の事有りしを雜色咎めければ、建法外に出で、羽織の下に脇差を隱し元の所に入り、先の雜色をたゞ一打に切つて、夫より縱橫に駈廻る。元より飽まで手利なり。手負數を知らず。板倉伊賀守勝重日の御門に有りしが、眉尖刀の鞘を外し向はれしを、太田忠兵衞、何條手下させ給ふ事や有る、とて駈行くを、勝重、此長刀にて、とて與へられしかば、太田吉岡に向ひ、惡逆無禮の男子首を延べよ、と走り懸れば、吉岡は紫宸殿の階に息次居しが、我に太刀打せん者汝ならでは、と言ひて、階を下りて立向ふ。太田、己に眉尖刀は無益なり、と言ふ儘に刀を拔く。吉岡走り懸り樣に倒れけり。太田大音あげ、倒れたるを切るは士の恥なり。立ちて勝負せよ、といふ。吉岡立上る所を飛懸り、一太刀に切殺しけり。勝重悅びて太田に祿を增し盃を與へて後、吉岡が倒れたるを切らざるは勇餘り有りと雖も、氣に驕の失有るに似たり。吉岡商買賤しき身なれども、劍術は如何なる人も及び難し。倒れしは天の與へなり。然るを切らざるは虛を打つの理に暗しとも言ふべきにや、と云はれしに、太田、仰せ誠に辱く候。此處に一つ存ずる故の候。多く敵の倒れ候を起しも立てず打たんとする故に、身を忘れ脚を切られて倒れたる者の勝になり候。倒れ候に虛實の二つ有り。吉岡が倒れ候は虛にて候。吉岡假令實に倒れ候とも容易く斬らるゝ男にあらず。倒れし時は身を防ぐ事虛に似て候へども、近附くならば切らんと存ずるは實にて候。虛にも實にも、倒れ候者の立上らぬと言ふ事は無く候。その立上る時は躬を防ぎ、敵を切り拂はんと存ずる心虛になり候。其處を打つて容易く切り止め候ひき。誠に斯る小き業匹夫の事にて、殿の知し召す理にても候まじ。されども陣を分ち軍する道にも相叶ひ候事もやと、憚を省みずして申すにて候、と言へば、勝重大に感ぜらる。