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○柳生宗矩劍術御師範の事竝宗矩先見の事

卷之十九 第6話 · 段落 1 · NDL 1078984 302コマ R

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柳生但馬守宗矩は、大和國にて世々柳生の庄の地頭なり。關ヶ原の戰の後德川家に仕へ奉りて、父より劍術を受傳へ無雙の妙手と聞えてけり。大猷院殿御年若かりしより此技を好ませ給ひ、宗矩御師範に參りて御心を盡させ給ひ、頗る其妙を得させ給ひけり。只此藝に依りて其人を信じ敬せさせ給ふと人々思ひけるに、實に其技に依つて治平の政事を喩し申しけるにや、常に御側の人々に、天下の治めは但馬守に學びてこそ其大體を得たれ、と仰せられしとぞ聞えける。宗矩年老病重かりし日も、辱くも家に入らせ給ひき。正保三年三月終に空しくなりけるに、其比例無き贈位の事を執し仰せられ、從四位下に上げさせ給ふとかや。宗矩死せし後事に觸れて、生きて世に在らば尋問ふべきものを、と深く慕はせ仰せられしは、誠に有難き事なりし。其中一事相傳ふるは、島原凶徒の亂江戶に聞えし頃は十一月十日なり。宗矩、有馬玄蕃頭豐氏の家に散樂有りて行向ひしに、家隷尋ね來て但馬守を呼出し、肥前國島原に土民相集りて楯籠り候ひぬ。是切支丹宗門の者にて、松倉に叛き候ての事なり、と早馬來り、板倉內膳正追討の御使を承り、早や御發向候、とぞ申しける。宗矩さらぬ體にて元の所に歸り坐し、用人に向ひ、急ぎて宿所に歸るべき事出來ぬ。良き御馬を貸し給へ、と言へば、心得たりとて馬に鞍置きて牽立つ。宗矩打乘りて品川に馳著き、板倉は如何に、と問へば、遙に過ぎさせたりと答ふ。川崎に馳著きて問へば、今は二三里も隔りたり、と申す。日已に暮に及べば引返して御城に上り、近侍の人々を以つて、申すべき旨有りて伺候し候ひぬ、と申せば、軈て御前に召して、何事にや、と仰有り。宗矩畏り、只今承り候へば、九州に切支丹宗門の逆徒發起し、內膳正重昌追討の御使を承り馳向ふ由、仰せと稱し、押止むべきと存じ追駈け候へども、追附かず候。此由申さん爲なり、と申す。何故に押止めんとは思ふぞ、と御尋あり。さん候。君は只管の土民儕立籠り候と思召して、追討の御使輕くこそ候へ。宗門に附きて起る軍は大事のものにて候。重昌一定討死仕り申すべし。如何にも計つて止めばやと存じ候ひし、と申す。以ての外御氣色損じ御座を立たせ給ふ。宗矩猶夜更くるまでも退出せず。此由聞召し、又御前に召して、重昌討死すべき子細は如何、と御尋有り。宗矩、さればこそ兵の道は勇を先とす。勇士は死を悲まず。三軍皆恐れざる事は今の名將の專一とする事にて候に、凡愚の輩宗門を深く信じ、其法を固く守りて死を以て身の悅とす。百千の人死を恐れざるの勇士となり候事は宗門の故にてこそ候へ。織田家の武威を以て一向門徒に勝つ事能はず。天子の命を假りて和平になり候ひぬ。三河國の一揆も近き御家の事にてこそ候へ。大坂の時、重昌年若く候へども敷十1萬人に撰ばれ、唯一人大事の御使承りたる者なれば、是等の土民打亡すべきに何事か有るべき。誰かは其下知を背くべきと思召したらんは、事の違ひにて候べし。重昌位高く祿も有りて、年頃重き職を司つて、常に人の敬ひ候はんには然るべく候。今の重昌が身にて城を攻候ひなんに、西國の諸侯如何は下知に從ふべき。思ふにも似ず攻厭みて候ひなんには、又御一門の人々か、さあらずば宿老の內重ねて追討の御使下され候べし。然らば重昌何の面目有りて生きて再び關東に歸るべき。可惜人を土人等に打たせ候ひなん事、誠に口惜くこそ候へ。是は御家の恥辱とも申すべきをや。御許を蒙りて候はば、追附け參りて兎角押へ止めて具して歸るべき物を、と憚る所なく申しければ、御後悔の色顯れさせ給ひしが、夫も叶ひ難くや思召しけん、夜も更けたり、とて入らせ給ひしかば、宗矩も退出し、密に人に斯くと語りけるとかや。誠に宗矩が計りし事掌を指すが如くなりしかば、尤も深計遠慮有りとぞ申すべき。
  1. 誤植 — 底本「敷」。「數」の誤植か(同じ紙型の別刷も「敷」)。