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○板倉重昌肥前國島原の賊追討の事竝周防守重宗先見の事

卷之十九 第7話 · 段落 1 · NDL 1078984 303コマ L

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島原にて寬永十四年切支丹一揆の時、討手に石川主殿頭忠綱、板倉內膳正重昌なるべし、と云ひけるを、石川聞きて、我年老いたり。板倉其器に當れり、と言はれしが、重昌仰を奉り、肥前に赴き、城落ちざりしかば、又討手の大將を下さるべし、と言ふを、石川聞きて、我始は其撰に合はん事をさのみ悅ばざりき。今思ふに、泰平の世に徒に死なんも志に非ず。天晴仰を奉りて西國に赴かばや、とぞ言はれける。重昌筑紫に向ふ時、京都にて所司代板倉周防守重宗に對面有りて、今度の仰せを承る事辱き由語られけり。重昌旣に京都を立ちて後、重宗、重昌が思ふ所を察するに必ず討死すべし。再會是迄なり、と言はれけり。松平伊豆守信綱肥前に進發せらると聞きて、信昌1城を攻めて討死せられたり。人重宗に其謂を問ふ。重宗、城に籠る者は百姓の身なる故に、內膳正忽ち攻落すべしと思へる色顯れたり。假令此城を攻落すとも、一揆の奴原、さのみ功名とも言ふべからず。只今四方無事の時、一揆賴無き城に籠りて降參するとも、悉く打殺さん事を知つて其心一和すべし。容易く落つべからず。日數を經ば又他の大將を指向られんに、內膳何ぞ生きて歸るべき。吾是を以て討死せん事を知りぬ、と言はれけり。
  1. 誤植 — 底本「信昌」。文脈(板倉重昌の島原での討死)から「重昌」の誤植か。