細川忠利の士川北九大夫と言ふ者有り。川尻の代官を勤めよ、となりしに、出陣の時供に連られなば代官の職勤むべし、と言ひければ、尤とて、出陣の時供すべし、と定めらる。天草は稍もすれば一揆をなす所と西國の人の言ひける事なれば、心に掛けて、川尻は海邊、船の著く處にて細川家の米藏有り。天草へ海上七里と聞ゆ。川北兼ねて地鐵炮の數を調べ置けり。地鐵炮とは獵師の事也天草の一揆起ると聞きて、川尻の海岸に一間に一本宛竹を立てさせ、一本每に火繩を結ひ附け、五本に一人の地鐵炮を配りけり。後に天草にて生捕られし者の言ひけるは、其夜川尻の米を取らん爲に船を押出して見しに、川尻に幾何とも無く鐵炮を備へて見えたる故、偖は熊本より軍兵の早川尻に來れり、とて船を戾しけるとなり。川北無かりせば川尻の米を取られ、天草の粮容易く破れまじかりしに、川北が謀にて天草の粮早く盡きてけり。