大坂の役に、木村長門守を井伊家へ擊取る首尾は、木村若江の村屋へ入りて割合の晝飯を食したるを、井伊家の斥候般若內膳見て歸り、先手の將菴原助右衞門へ告ぐ。菴原鎗を取つて懸ると木村も走出でて鎗を合せ、二間一尺五寸の直鎗、其頃北國流と云ひて流行たるに、木村も免許を得たる功手なる故、此鎗を以て菴原が內冑を二三ヶ所も突きたれども、鎗の穗短く切突にてちよつ〱と突きたる故、頰の邊にかすり手なる故、突拔いて突倒すこと能はず。菴原は一間半程に身の七八寸程ある鎗をべつたりとはりのけて、木村を鎗附けて突仆したるに、後より井伊家の若士安藤長三郞來つて、此首を揚げんか、といふ。菴原、揚げ候へ、というて、安藤に首を揚げさせ、木村が腰に指したる白熊の旆を引千切りて、菴原が腰に附けて引取りたるとなり。此首誰が首とも其時は知れざれども、白旆故に大將分と見えたる故に、後證の爲に菴原取りて腰に附けたるとなり。後に木村が首と知れたる故、安藤も元來菴原氏鎗附けたれば、首を揚げたるまで、と斷りたれども、菴原は井伊家の老臣年七十有餘にて、常に肱に珠數を掛けて念佛のみ唱へたるに、向ひ來る敵故に止むことを得ず、念佛を唱へながら敵の鎗をはねて鎗附たる故、己が功とせず。若輩の士は斯樣に名高き士の首を取りたるは功名も顯す故に、强て安藤に讓りたり。故に首帳には安藤が姓名を記し出して安藤が武功とし、今に至つて木村をば安藤が討取りたると天下に稱するは、菴原武功にて大人しき仕方故となり。右上泉義鄕の直談なり。詳此合戰のこと三所戰記に見えたり。木村勇士なりと雖も、若將故晝食の喰時分期を遲れたる故、晝食を喰懸りたる時敵に見附けられたる故、破子の飯を二三箸程食したると見えて少し喰ひかけたる迄なりしと。討死の後晝食を食したる村屋へ入りて見しに、右の如くなりしとなり。是亦義鄕の咄なり。