松平讚岐守殿の具足屋、南都岩井孫四郞の咄に曰く、南都知足院に塙團右衞門の甥植村藤左衞門と云ふ者の所持せし頰當あり。是則ち塙團右衞門所用の頰當なり。其製面頰に涎掛を不㆓仕附㆒、惣地を薄赤く人の面の色の如くに塗り、頤に鬚を生したるなり。是甲冑を著し喉輪をかけ、只行軍の行裝に、喉輪の上に此面頰をかけんが爲に、如㆑此製したるならんかとなり。右の面頰は塗物に紀州の雜賀孫一の作の由なり。團右衞門と舊友にて造與へしとなり。其頃孫一は武功の士にて、慶長五年伏見の城にて、鳥井彥右衞門殿を打取りたる名士なり。細工の名人にて、殊に頰當の製方無類にて、函人の家にて名作と稱するとなり。右の植村藤左衞門は極貧の浪士にて、南都知足院に緣有りて、知足院の住持二三代にも係り居て、則ち知足院にて病死せしとなり、死後屍を沐浴せしむるとて、裸體になして見るに、右の方腰に下帶に金子十兩附けてあり。此金子數年附置きたりと見えて、腰に此金子の當りたる處朽ちて居たるとなり。右の藤左衞門至極貧窮なりと雖も、具足一領鎗一本を放さずして所持せりとなり。則ち右の具足の中に件の頰當も具し置きけるとなり。