大內義隆は、周防長門豐前不㆑殘領國にて、安藝石見も領地なり。太宰大貳を兼たる故筑前も下知に隨へり。周防の山口に居城して、其比並なき大名なりければ、漸武備に怠り、遊山を樂み、茶の會に日を暮し、家中國中の難義を露も知らず。仕置は家老の陶尾張守晴賢に任せられしかば、尾張守二心を持つきざし有り。毛利元就是を察し、或夜密に義隆の前に出て、古より國を奪ひ候事皆その家の家老にて候。それ故明君はよく家來を引廻し、威を家老に奪はれず候。威を家老に奪はれ候ては、役義を云附け知行をやり候ても、其主君よりの下知と不㆑存、家老より取計ひ申すと心得候故、其主君は有れども無きが如くに候。家老役人の勢次第に强くなつて、後には其主君を殺し國をも奪ひ候。今の樣子危く候間、御心を附けられ候へ、と申給ひしかども、義隆合點なく、遂に尾張守に殺され給ひけり。案ずるに是は亂國の世の事にて、太平の時は君を殺し奉る事はなけれども、主君をだまして其威を奪ひ取るは、家老用人の常の事なり。されば熊澤助右衞門後に了介と號す新太郞樣の御時執政たりしが、常に人に語りて、やがて今の大名は家老用人にだまされ、我國は皆家老用人の物と成るを知らず。下の敬ふを能事として、だますといふ事少しも知らず。下の情露ばかりも心附なく、何十萬石の身上にても、國を持ちたるにては有るべからず、と語られし由、智者の詞何かは違ふべき。思ひ當れる世と成りぬるぞ悲しき。