家索引 › 伊東氏
伊東氏
本文表記 伊東・伊藤
井伊 第四上 · 1
- p001…る由、系圖に見ゆ、井伊介は、武智麿の後遠江權守爲憲が末葉にて、工藤遠藤、伊藤抔と同し流にて、南家の藤氏なり、此系圖の記せる如くなれは、北家の藤氏にて…伊藤表記
立花 第八下 · 1
- p006…ぞ殘りける、光種が七代の孫長種、死して嗣なし、高橋が家の子、屋山北原福田伊東の者共、大友に一族乞て主の家繼がせんとす、左衞門督義鎭、此由を聞て、一族…
伊東 第九下 · 13
- p001…しに依て、工藤とは名乘けり、其孫駿河守時信、伊豆國伊東の庄に住して、初て伊東と名乘る、時信が六代の孫工藤左衞門祐經が男大和守祐時、童名犬房丸右…
- p003…守氏祐、又將軍の諱字賜ふと云ふこと不審、尊氏將軍の治世、二十五年の間に、伊東の家四代を經し事、いかゞあるべき、其子大和守祐武、肥前國進庄西浦宇良村田…
- p003…る、其子大和守祐堯に當て、日向薩摩大隅の國人等、嶋津澁谷を除くの外、悉く伊東が家人たるべき由、寛正三年三月十四日の御下文の旨に任せ、違命の輩を打隨へ…
- p010…にもして、父祖の仇を報はばやと思て、天文十年十月、薩摩國に發向す、是より伊東島津が軍起りて、戰更に止むことなし、鬼が城陽野の城を始として、日井新山の…
- p010…き廿年の九月、島津終に中直りして、互ひの軍、暫く止む、弘治三年の頃より、伊東島津、又大隅の地を爭ひ、永祿六年の夏に至て、兩家再ひ軍起り、三位入道卒し…
- p010…四歲と云ふ元龜三年の夏、島津兵庫頭忠平、後に義弘日向の國に向ふ、伊東が軍勢、飯野の邊に出て迎ひて戰ひ、宗徒の兵五百餘騎討死す、家人福永丹波守…
- p010…、島津が軍勢、野尻の城に入り、明れば八日、修理大夫義久、野尻に陣を取る、伊東の兵たまりかねて、戶崎の城を落去りぬ、城內に殘り留る所の軍兵、多くは、皆…
- p010…二日、耳川の邊にて、島津兄弟と戰ひ、一戰に利を失ひ、散々になつて引返す、伊東も今は賴む方なくして、明る七年の四月、豐後の國を去て伊豫の國に渡り、此處…
- p011…按ずるに、伊東が家の事、島津家譜に記する所、殊に詳なり、故に其說を取て記す、但し大友記…
- p011…を取て記す、但し大友記龍造寺記、并に九州の事、記せる諸記等を、合せ考ふに伊東が日向を失ひしは、三位入道が時の事とす、中にも大友記に記する處、詳なるに…
- p011…樂書の事も、三位が子孫を嘲りても、三位殿とは、よむべきものなり、某が見し伊東が系圖に、三位が卒せし年月、見えざれば、如何にも說き難き事なり、…
- p012…なればとて、大和大納言秀長卿の御手に附けられ、先陣を承て、日向國に向ふ、伊東累代の家人等、此所彼所より馳せ集りて、程なく軍勢數千人に及ぶ、島津兵庫頭…
- p014…引返す、斯て關が原の戰、事終て後、高橋旣に降人に成て、本領を賜りし程に、伊東が攻取りし所の宮崎の城を、右近將監に返し與ふべき由を、仰せ下さる、又島津…
相良 第十上 · 5
- p001…良等の祖也按ずるに維兼が兄駿河守時信と云ふ、此人伊豆國伊東の庄に住し、伊東と名のる伊東工藤等の祖なり、然るに相良伊東兩家系圖を幷せ見るに、少く異な…
- p001…按ずるに維兼が兄駿河守時信と云ふ、此人伊豆國伊東の庄に住し、伊東と名のる伊東工藤等の祖なり、然るに相良伊東兩家系圖を幷せ見るに、少く異なり、相良の系…
- p001…ふ、此人伊豆國伊東の庄に住し、伊東と名のる伊東工藤等の祖なり、然るに相良伊東兩家系圖を幷せ見るに、少く異なり、相良の系圖を見るに時信維兼兄弟、乙麿十…
- p001…見るに、少く異なり、相良の系圖を見るに時信維兼兄弟、乙麿十一代の孫なり、伊東の系圖には九代の孫と見えたり、新編纂圖も伊東の系圖に同じ、我見し所の相良…
- p001…兼兄弟、乙麿十一代の孫なり、伊東の系圖には九代の孫と見えたり、新編纂圖も伊東の系圖に同じ、我見し所の相良の系圖は寫し誤れるにや不審…
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