侍從兼兵部少輔藤原直政は閑院の左大臣冬嗣公の七男、內舍人良門五世の孫、備中守共資の男、遠江國の住人井伊備中大夫共保が後胤、肥後守直親が男なり、共保が事、系圖の傳ふる所、大に怪し、初め一條院の御時、備中守共資、遠江國に下り、村櫛といふ所に住む、此國井の谷といふ所に、八幡の宮居まします、其瑞垣のほとりに、御井ありけり、かしこの宮司、ある正月元日の朝、社頭に參りしに、今生れたらん頃の赤子、忽ちに御井の內より現れ出づ、大に驚き、怪しき事に思ひ、立寄り見るに、容いと美しくして、眼の光り燿けり、頓て懷におし入、おのが家にゐてゆき、世にいとほしみ育てし程に、旣に七歲に及ふ、備中守共資は、女子のみ有て、男子は無かりけり、此兒の事を聞て、只人にあらずと思ひ、彼宮司に乞ひ受け、おのが子として、十五歲の時、髻取り上けさせ、共保と名のらせ、おのが娘にあはせ、家ゆづる、共保長大に及ぶに從ひ、武勇の名譽、當國に隱れなく、國人等悉く恐れ隨ひぬ、初め御井の內より現れ出しがゆゑに、井桁を採て幕の紋とす、また橘を紋につける事も、彼の現はれし時、橘一つ御井のほとりにありしを見て、宮司此兒の產衣に繪がきてければなり、其現れ出たる御井、今もありとぞ、○按するに系圖には備中守共資は、内舍人良門の第三男、兵衞佐利世四代の孫たる由見ゆ、藤氏の系圖を見るに、良門の男は、右中將利基、內大臣高藤二人のみにて、利世といふ人を見ず、されど、藤氏系圖に漏しぬるも知れぞ1、また共保より直政迄十六代の由、家の系圖に記せり、一條院の御時より、直政が生れし比迄は、凡五百六七十年に及びぬべし、たとへ一世ことに四十年に及はんほどを經るとも、なほ年は餘り有りぬべし、思ふに家の系圖に漏れたる人多かるべきにや、又按ずるに、井伊介も同し流の藤氏たる由、系圖に見ゆ、井伊介は、武智麿の後遠江權守爲憲が末葉にて、工藤遠藤、伊藤抔と同し流にて、南家の藤氏なり、此系圖の記せる如くなれは、北家の藤氏にてこそあれ、如何にかく傳へしにや、覺束なき事なり、
- 知れぞ — 底本のまま。文脈上「知れず」の底本の誤植の可能性。未確認