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本多

第四上 · 段落 5 · 780520 75コマ Lから

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地名 5 5 3 3 3 3 3 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

縫殿助藤原康俊は、縫殿助忠次が子、實は酒井左衞門尉忠次が二男なり、縫殿助忠次が曩祖は、九條右大臣師輔公より出て、忠次數代の祖參河國に移て、寶飫郡伊奈庄に住す、國人これを伊奈の本多とぞ申ける、岡崎の次郞三郞殿、東三河の地併せらるべきにて、御馬を出されし時、忠次が祖父縫殿助正忠、最初に御方に組みして先陣し、牧野兄弟既に討たれて、吉田の城に向ひ玉ふに、正忠城の東門を攻め破て、城を落す、爰よりまた田原の城に向ひ玉ふには、正忠おのが伊奈の城に迎へまゐらせ、御酒奉て賀しまゐらす、
家に傳ふる所は、此時御肴を進むとて、池なる水葵の葉に盛りてまゐらせしに、次郞三郞殿御覽有て、立葵は正忠の家紋なり、此度の戰に、正忠最初御方に參りて、勝軍しつ、吉例なり、賜らんと仰ありて、これより御家紋とはなされたり、されば岡崎隨念寺に、自讃し玉ひし御畫像に、立葵の紋を畫がゝれき、今にありと申なり、また德川殿の御時高力攝津守忠房が母に、伊奈の本多の事、尋仰られしに、三河國の本多は伊奈を以て嫡流とす、されど昔より當國に其數多き本多の人々、伊奈の本多の外に、一城をも領し候ものは、さふらはず、二郞三郞どのの御時に、祖父にて候者にこそ、紋をば望ませ玉ひし御事も候つれと申しゝといふ、忠房の母は、正忠の孫にて、忠俊が娘なりき、○ある人のいひしは、上野國新田の庄に、ふるき目貫髮搔小刀の柄に、葵の丸の紋あり、これに因て思ふに、葵の丸は、初より新田の家紋にやあらんといふ事あり、是また一說なれば、こゝに附す、次郞三郞殿うせ玉ひ、贈大納言家、繼がせ玉ひしに至て、正忠常に御方に組す、其子助太夫忠俊父に繼ぐ、永祿三年五月、今川治部大輔義元、尾張國に向はれし時、忠俊が嫡子修理亮光忠、父が手の者、引具し、德川殿に隨ひまゐらせて大高の城にあり、義元既に討れ玉ひ、今川の家人等、おの〱守る所の城々を捨て、本國に引かへす、かくて、德川殿大高の城を御出あるべきに及びて、敵の軍勢、旣に近付て、本國に歸り入らせ給はん事、たやすかるべからずと聞えしに、光忠進出て、某後陣をば打ち候べし、御心安く思めさるべしと申ければ、其望む所に任せられ、事ゆゑなくして岡崎に入らせ玉ひたりき、此ときの賞として給はりし御陣羽織光忠が嫡孫の家に今にありといふ、是よりして後、水野下野守信元は、織田殿の御方として、三河國を併せんとす、國人等相戰ふ事やまず、忠俊父子、德川殿に組みし參らせて、常に軍のさきをかく、
信元は尾州小河三州苅屋二つの城を領して、東三河の國人と相戰ふ、初め石が瀨の戰ひに、御方の先陣戶田主殿助が戰利なかりしに、敵のかたより、石が瀨や、小川の水の早ければ、戶田の主殿は、足もたまらず、と讀て落書す、二陣の伊奈勢、安からぬ事やとて、忠俊の子修理亮光忠、伊豫光典幷家臣戶田丹波小栗澁大夫等眞先に進み戰ひて、敵餘多打取て、かくなん、石が瀨や、小川の水の早けれど、いなびかりには、及ばざりけり、と、いふ返歌を札にしるして、敵陣の前に建しといふ、
同六年の春、一向專修の門徒等、叛き參らせし時、東三河の人々の、御方に、志あらん者、今川の兵に備ふべき旨、仰下されしかば、おの〱人質をまゐらせて、其要害を守る、忠俊仰を奉り、吉田の城に備ふべしとて、小坂井糟塚の要害を搆へて、手の者共を込めおき、嫡男光忠をば岡崎に參らせて常に御軍の先をかく、此時の賞として給る所の御刀は、光忠か嫡流の家に相傳ふといふ、其後光忠所勞によりて、舍弟彥八郞忠次、父が跡をつぐ、光忠光典兄弟、德川殿の御爲に、吉田の城攻取るべき事を議り、忠次に隨ひ、岡崎に參りて、斯と申す、德川殿大に悅はせ玉ひ、さらば光忠二連木に行向ひ、戶田主殿助と相議るべしと仰られ御馬賜りて遣はさる、此時賜りし御馬の鞍具、も光忠嫡流の家に傳ふ斯て御勢を差向られ、糟塚喜見寺二箇所の要害を攻られ、忠次先陣を給りて御軍を出され、吉田の城を攻めらる、光忠等かねて申しゝ事の如く、城中の者共、思ひ〱に成て、其戰はか〱しからず、忠次從者戶田小栗を使として、城の大將小原肥前守が許に申事、數度の後、小原終に城を去て、駿河國に歸る、此とし永祿七年六月、三河八郡の地、大略御手に屬しければ、忠次が功最大なりとて、忠次幷に光忠光典戶田小栗各所領の地を下し給ふ、此時忠次光忠には御書を賜り、其功を賞せらる、忠次には所領の地を加へ玉ひ、光忠には奧郡池尻村の地を給ひ、光典戶田小栗等には各五十貫文つゝの地を宛ておこなはれしといふ、元龜三年六月1近江國姉川の戰に、忠次酒井左衞門尉忠次と陣を同くして戰ひ、天正元年三月、三郞殿の御軍始に隨ひまゐらせ、足助伏地二つの城を攻め、同き三年五月、長篠の合戰に、酒井左衞門尉忠次と共に、鳶巢の城を攻落し同九年三月、高天神の城落し時、首廿一を切て獻る、同十一年七月姫君北條左京大夫氏直の許に入らせ玉ふ時、忠次御輿副として、相摸國に趣く、此時平岩七之助本多彌八郞も同しく姫君を送り參らせしと云、○或說に酒井左衞門尉送り參らすと云、酒井本多其名同しければ、孰か是なる事を知らす、其後忠次死して、康俊繼く、初め長篠の戰の時、康俊七歲にして人質の爲、濃州岐阜の城に趣く、これ織田殿の加勢を乞はせ玉ふが爲なりき、十二歲の時、忠次に養はれ、十四歲にして元服し、御諱字を賜りて彥八郞康俊と申す、此時に養父忠次は縫殿助と申せしなり、廿二歲の時、豐臣關白、相摸の北條を討たるべきにて、德川殿の人質を望み申されしかば、康俊を遣はさる、此年德川殿關東に移らせ玉ひしかば、康俊下總國小篠の地を給はる、五千石慶長元年五月、德川殿、任大臣の御時、康俊叙爵して、縫殿助に任ぜらる、同五年奧の上杉を御征伐の時、御陣に隨ひ、上方の軍起ると聞て、御陣に隨ひて馳上り、美濃國に着かせ玉ひし日、御方の軍勢、大坂の兵と、笠縫堤に戰ひし時、康俊井伊侍從、本多中務少輔共に馳向ひ、駿河の勢を引て歸り、御感の仰を蒙れり、關が原の戰には後陣に從ひ、軍終て後、三河國吉田の城は、國中の人質を置かれし所なり、本國なれば案內知りたるらん、康俊馳下りて守るべしと仰下され、引返して彼城を守る明年所領の地加へ給りて、同國西尾城に移る、二萬石是より、三河國に御鷹獵をさせ給ふ度々、康俊が城を假の御所となされ、物賜ふ事、其家臣等に及べり、同八年將軍拜賀の時、康俊從四位下に上られ、御沓の役に候す、大坂の兵起りし時に、康俊嫡子下總守俊次と同しく、仰を承りて、馳上り、近江國膳所崎の城を守り、大御所既に御上洛ありしに及て、二條の御陣を守護し、また仰をうけて、河內國に向て、賊徒等を追拂ひ、大坂の城下備前島に陣取て城を攻む、翌年の夏、兵再ひ、起りしには、康俊父子、河內國須奈に陣して、奈良口の敵を防き、五月七日、城中の兵、出戰ふに及び、加賀勢の右に出て、敵陣を打破り、嫡男下總守俊次二男美作守忠相等みづから首きつて獻る、凡そ康俊が手に打取る所の首百十三、修理亮光忠か子半兵衞某、首二つ切り、嫡子伊織某も生年十五にて、首二つを切り、大御所の御前へ召されて、御感の仰ありといふ同三年所領の地加賜て、膳所崎の城に移る、三萬石此年將軍家御上洛の時其城に入らせ玉ひ、康俊父子に物を賜ふ、同七年康俊卒して、嫡子下總守俊次家を繼ぐ・初め慶長十五年俊次叙爵し、大坂兩度の御陣に隨ひ參らせ、父に繼し年、三河國西尾城に移る、寛永十三年所領の地加賜て、伊勢國龜山の城に移る、五萬石、○是より先寛永五年高力攝津守忠房が母、望請て、兄にて候本多修理亮光忠、初め東照宮より所領の地を下しおかれ、其子半兵衞某、父が領を受つぎ候へど、當時は下總守が所領と成され給ひぬ、其嫡子伊織又父祖の領を受繼き候へば、あはれ其二男に候者をば召仕はれ給はゞやと申ければ、頓て半兵衞某か二男長二郞、召出されて、御小性組になされしといふ、此地海道の要害なればとて、望み請て其城を修築す、慶安四年十一月廿五日、又所領の地加賜りて、膳所の城に移る、七萬石寛文二年五月朔日、大地震して城崩れぬれば、望み請ふに、此城元より、分內狹くして然るべからざるよしを申して、城郭を增し築く、同き四年九月十二日致仕、十二月廿五日入道して、淨有と號し、同八年八月十一日卒す、七十四歲、嫡子縫殿助康長四十二歲にて、萬治元年六月廿四日父に先立て卒し、嫡孫隱岐守康慶いまだ幼なかりしかば、兵部少輔康將を嗣とす、康將其娘を以て、康慶にあはせ、延寳七年六月十八日家を讓る、康慶、叔父兵部少輔康將に家讓られて我所領の內を分ち、康將が子織部忠恒に與へん事を望請しかば、御許しを蒙る、
  1. — 底本のまま。近江姉川の戦いは元亀元年(1570) 6月 28日である。本書f019.p005も「元龜元年九月、去る六月近江國姉川の合戰」と記す