家一覧 › 第四上 › f022
本多
この家によく出る人物・地名
人物 本多重次 61徳川家康 40豊臣秀吉 20本多成重 19結城秀康 12大政所 9武田信廉 4本多富正 4織田信雄 3高力清長 2天野康景 2石川数正 2本多正信 2朝日姫 2井伊直政 2大久保忠世 2松平忠直 2越前松平家臣今村掃部 2本多重能 2本多助定 1松平広忠 1武田晴信 1内藤信成 1酒井忠次 1
地名 三河岡崎城 5京都 5三河国 4遠江浜松城 2三河長篠城 2駿河沼津城 2伊豆韮山城 2摂津国大坂 2東海道 2相模国小田原 2美濃国関ヶ原 2越前国 2遠江国三方ヶ原 1三河長沢城 1遠江掛川城 1遠江国 1遠江国森 1三河国長篠 1遠江高天神城 1甲斐国 1信濃国 1駿河国 1駿河江尻城 1駿河国戸倉 1
元龜三年の冬三方が原の戰に、重次馬射られて落たり、敵十騎が中に取こめられ、鎗取のべて敵一騎つき落し、首かき切、其馬取て打乘、濱松の城に馳せ歸りて見參す、德川殿敵進みて我城を攻めんに、御方多勢ならむには、兵糧また續ぐべからず、此事如何にと仰せあり、重次承て、信玄我國に向ふと聞えしより、糧米多く蓄へ積せて候と答申ければ、悅たまふ事斜ならず此後は、こゝかしこ軍だちし玉ふ時、多くは其後に留守る、同き八年三月2、長澤の城落し時、重次、內藤三左衞門信成と共に、しばし此城を守り、十二年掛川の城を攻られしに、一方の大將を承り、城おちて後、酒井石川等と同しく守る、天正元年の秋、長篠の城を攻めらる、武田四郞勝賴うしろ卷せんとて、軍勢二手に引わけて、三河遠江に打ち出る、重次此時は榊原大須賀と、濱松の城に留りしが、重次我等が留守の料に、いざ、間近き武田刑部入道信綱が、逍遙軒と號す、陣打破て捨なば、殘る敵は戰はずして破れんずとて、三手の勢を合せて、九月十日信綱が陣取つたる森の里に押寄せ、散〱に打破り、重次人々に向て、信綱負けぬと聞かば、こゝかしこの敵、一定助けにや來るべき、勝て冑の緒をしむるといふ事の候ぞや、いざ歸らんとて引かへす、案の如く、穴山一條山縣などいふ宗徒の者共、鞭鐙を合て馳せ來れども、御方既に引返し、長篠また落ければ、皆本國に引返す、武田家の古兵共、當家まけ軍の始めなりとて、皆眉を顰めしといふ、同三年長篠の合戰に、大勢の中に切て入、能き敵と引組て、落重りて首をとり、敵八人が中に取こめられ、八方に切てまはる、敵は八人身は獨、七か所まで、手は負ひつ、既に危く見えし所に、郞等一人おち合て、二人を切て捨つ、殘る敵を追拂ひ、辛き命は生きてけり、同き四年六月十一日、寄騎の士百騎、重次が手に屬せらる、同き七年八月、三郞殿の御事ありて後、重次仰を承り、岡崎の城を守る、高天神の城落し時、重次が手に打とる首十八、十餘人を生捕す、同き十年の春、武田亡ひ、同き夏織田殿うたれ玉ひ、甲斐信濃再ひ亂れしかば、德川殿、彼の國に向ひ玉ふ、北條も同じく彼國々爭ひ玉ふと聞えしかば、其勢を引わけて、駿河國にや攻入らんと、重次沼津の城を守る、一說に、重次は江尻にあり、沼津をば松平周防守康親守れりといふ、不審案の如く、九月廿五日、北條の軍勢、韮山の城より打て出て、戶倉山に至る、重次逆寄にして打破り、韮山の城戶口まで追詰て、首三十餘を切て引返す、同き十二年小牧に陣し玉ふ時、重次伊勢の國星崎の城1を守る、蟹江の城を攻られしに、先陣して、城を攻おとす、頓て秀吉信雄、中直りし玉ひ、信雄に就て於義丸殿を養君とし玉ふ時、重次が子仙千代丸も、石川伯耆守數正が子と同く、附て參らす、抑此於義丸殿と申は、德川殿の御二男、故ありて、生れ落させ玉ひしより、重次とりて養ひ參らす、此年御とし十一になり玉ふが、都に登らせ玉ふ事を、御名殘をしく思ひしかば、我獨子にて愛しける仙千代丸つけてまゐらせたり、秀吉も、うへには於義丸殿を養ひ參らするとは披露あれど、內々は人質とし、德川殿に親しくならん謀にてありければ、本多は殊に彼家譜代のおとななり其子を參らせし事こそ嬉しけれと、悅び玉ふ事斜ならず、去程に、秀吉正二位内大臣に歷上り、關白の職になつて、於義丸殿にも元服させ、秀康と名乘せ、從四位下左少將兼參河守に任し、信雄卿を媒とし、德川殿御上洛の事を勸め玉ふこと、度々に及べども、上り玉ふべしとも聞えず、依て三河守殿も失はれさせ給ふべしなど風聞す、三河守殿の御母、此事を聞玉ひ、守殿失はれ給ひて後、一日も世にながらふべしとも覺えず、死なば一所にこそ死なめとて、忍ひて大坂に上らせ玉ふ、重次いや〱仙千代丸、都に置て、人の疑ひ受けん事も詮なし、たゞ獨ある子失はれんも不便なりと、思ひければ、母がいたはり以の外に候、暫しの暇を給て、此世の暇乞をも仕らせばやと、守殿へ申て、呼ひ迎へぬ、幾程なく、石川伯耆守數正は、德川殿に背きて、秀吉の御方に參る、扨こそ重次が二心なき所顯れて、誠に思慮深くは見えけれ、斯て關白殿の仰にて、仙千代丸とく參らすべしと、守殿よりの御使、度々に及ぶ、重次も詮かたなく、是もいたはる所の候、且は母が病も、年頃この子戀慕ひし故なれば、今更參らすべしとも覺えずと、伏し沈み歎きぬ、されば息男が身代に、此者參らするとて、甥の源四郞富正を參らす、關白殿安からぬ事なり、本多めに、たばかられたりけりと、怒たまふ事大方ならず、かゝりし程に、また東西の軍起りなんと聞えて、宗徒の御家人の中、岡崎の城守るべきものを選ばる、本多佐渡守正信承りて、此城を枕として討死仕るべき者に仰付らるべしと申ければ、やがて、重次召て岡崎の城を給り、數百騎の兵を屬らる、此時重次が御暇乞申しゝ氣色、生て再び見參すべしとも見えされば、其志を感じさせ給て、息男成重、本領安堵の御書をなし下さる、其御書に、天正十三年十二月八日としるされ、本多丹下殿となされけるとなり、
- 伊勢の國星崎の城 — 底本のまま。星崎城は尾張国愛知郡(現 名古屋市南区)にあった
- 同き八年三月 — 底本のまま。直前の年号が「元龜」のため「同き八年」は成立しない。後の「十二年掛川の城を攻られし」とf026.p003(「同き八年三月長澤の城落て」)から永禄8年を指す
此時重次下知して、大廳のおはしますほとりに、薪を積むこと、山の如し、こはそも如何なる事ぞと驚き、大政所の御供せし女房だち、はした女して、薪つむ下部男一人まねき、酒など呑せ、心能くとりて、扨何事にか、この程、日々にかく薪をば積む事ぞと問へば、いかなる事とも下郞は如何で知り申さじ、たゝし承る所は、關白殿の我國の殿を失ひ玉ふか、若くは留めまゐらせて返し玉はずば、今度都より御下り有て、是にまします御方を、盡く燒殺し申さん料の薪とかや申て、本多殿の下知として、日々に山林より切て來り候が、この本多殿と申は、極て氣の短き人にて、殿の御歸り、おそし〱と侍かねて、けさ火を附う、晩に燒たてうとせられ候を、井伊殿や大久保殿が、しばし〱と制し玉へばこそ、今迄はかくて候へ、痛はしや、美しき都上らふの、今のうちにも、灰土にならせ玉はん事の無慙さよと、下郞等は申事にて候と云ひしを、女房達に、斯といへば、あな悲しや、その本多といふ男が、日々に參りて、おそろしげなる、こわねにて、家康より玆につけ參らせて候、御用の事あらば承りなんずといふを、今思ひ合すれば、三河守殿の初て御參ありし時、仙千代丸といふ兒の御供したるを、殿下の御覽じて、あれは家康がうちにて、三奉行とか云ふうちの鬼作左衞門と云ものゝ子ぞと仰ありしかば、おそろし〱、鬼も子を生むにや、鬼の子は如何なる者にやとて、物越に人々の見たりしに、其親の鬼ならば、さこそはあらめ、さればこそ、これへ參る度毎に、家康返り候はんとの事は、いまだ御沙汰も聞え候はぬやと、おとゝひも、いひしぞ、けさも、きのふも、いひしぞ、待遠にや思ふらん、あはれ家康とくしてかへさせ玉へかしと、なきくどきて、此由を大廳へ申ければ、大に驚き、なげき玉ひて、日々に御消息ありて、德川殿をとくかへさせ給へ、こなたのありさまの、いぶせき、いつの世にかは、忘るべきなど、ありし事共、こま〱と仰遣はされし程に、ほどなく御歸國まし〱、大廳歸りのぼらせ玉ひければ、女房たち淚を流し、なさけなくも、御母上を下したまひしものかな、鬼本多とかやが、かくこそいふたれ、とこそ計らうてさむらひつれ、今は朝日の姫君をまゐらせ玉へば、德川殿の御ためにも、大廳は御母上にて候を、如何に鬼なればとて、己が主の事しらぬ事や候べき、それにかく辛き目を見せ參らせて侍れば、はや〱德川殿に仰られて、如何かる罪にもあはせて、大廳の御恨みをも晴させ玉へと、とり〱に訴へければ、關白殿笑はせ玉ひて、家康はよき者共、あまた召し仕ひけり、秀吉もその如き家人をば、ほしき事に候ふぞや、とばかり宣ひて、御座をたゝせたまひしとなり、
一說に同き廿日、關白殿駿河の國府の城に入りたまふ時、德川殿長久保の御陣より參り玉ひ、御對面の儀ありて、重次此所に參りて、關白殿御家人あまた居並たる所にて、德川殿の御後より參りて、立はたかり、大に聲をいからかして、やあ殿に殿、あつはれ不思議を振舞ひ玉ふよ、國をも保たんずる人が、我が城を打明けて、暫しも人に借す事やある、その氣にては、人の借らんといはんには、一定、北の方をも借し玉はんずるよなど、罵り〱立歸る、德川殿人々に打向ひ玉ひ、今の老人が申たるやうを聞たまひてこそ候らめ、あの老人と申は、本多作左衞門重次とて、家康が累代の家人、家康が幼なきより仕へぬ、年若きうちより、弓矢うち物取ては、人にも知られて候ひしが、今は見たまひし樣に、年もいたう寄て候、されば家康も不便のものに存ずといへども、天性我儘なる根性にて、人をばはふ蟲ども思はず、人々の聞玉ふ所にてだに、家康をかく事がましう申す、まして只二人うち向うたる時の事、思ひやり給ふべし、常には如何にも候ひなん、いかで、けふしも、かゝる奇怪をばふるまふべき、人々の思ひ給はん所、耻しう候と仰ければ、在あふ人々一同に、此人の事、久しく承り及ぶといへども、見及びしは、今こそ始なれ、誠に聞しにまさりて候ものかな、事新しうは候へども、かゝる御家人の候事、奧ゆかしう覺えて候と、色代せしと云、按ずるに、重次此度海道の城に修理の奉行たり、此城借し玉ふ事、いかで知らざるべき、然るにかく京家の人々の集りし所にして、思ふやうに云ひちらしたる事、誠にさる智ふかき人なり、重次にあらずしては及ぶまじ、されば此說あやまるべからざるにや、小田原へい、重次二の先にて、むかひしといふ說あり、
去し天正三年三月1に、德川殿御脊中に、疔といふもの出來て、既に危く見えさせ給ひしかば、內外の醫、療術を盡しけれども、そのしるしなく、唯弱りに弱らせ玉ひ、みづからもこれまでと思召けるにや、宗徒の御家人等めし集て、御跡の事ども仰せおかる、人々の周章いふに及ばず、士民百姓等に至るまで、その程々に從ひて、祈らぬ神佛もなく、立てぬ願もなし、重次御枕に取つきて、泣〱申けるは、殿も定て覺えさせ玉ひなん、重次がむかし此病をうけしに、たち所にしるし得し良醫の候、彼を召して見せ試み玉ふべしと申す、諸醫既に手をつかね、家康また死を决す、この上醫療其詮なし、且つは命をしむに似たりとて、用ゐ玉はず、重次大に怒て、かほど大事の腫物かろ〱しく思召し侮つて、事急なるに臨めばこそ、諸醫も術盡きぬれ、夫にまた良醫して治しまゐらせんとするをも、用ゐ玉はず、失せ玉はん事、御心がらとは云ひながら、あつたらしき命かな、諸醫術盡きぬと申す上は、彼等いかでか治しまゐらすべき、年老たる重次が、御跡にさがつての御供、かなふべからず、さらば御先へ參らんとて、御前を罷立、德川殿大に驚かせたまひ、あれ止めよと仰ければ、近く侍らふ人々走り出、引とゝめ仰らるべき旨あらせられ候といふ、重次大に聲を怒らして、最期の暇乞て、まかり申者を、見苦しい、殿原の止めやうやと、罵つて出んとす、されば候、その人を止めよとの御使が、えこそ止めぬと申せとは、おとなしくも候はぬ本多殿と、云はれて、げには、さも候とて、御前にまゐる、德川殿、汝は物に狂ひて、かくは云ふか、家康、いまだ死しはてぬに、たとひ家康が、命終るとも、汝が世にあらんを賴みにこそ死すべけれ、又汝等も如何にもして、一日も世に殘りて、若き者ども掟して、我家の絕えざらん樣を計らんとは思はずして、詮なき死の供せんとする事やあると、仰せければ、いや〱、夫は人に依ての事に候、重次も今少し年だに若く候はんには、仰せ迄も候はず、犬死せん人の御供、其詮なし、重次若年の昔より、こゝかしこの軍に從て、眼射られ、指落され、足切られて、負はぬ手も候はず、人のかたはといふ程のかたは、重次が身ひとつに、餘つて、世に交らん事、叶ふべき身ならず、殿の御情ふかければこそ、當家にては人に恐れも恭はれも仕つれ、殿のなくならせ給ひなば、他人までも候まじ、先つ御聟の北條殿、我國々を取らんとし玉はんに、わかき人々が、行すゑ久しう仕へんと、賴みきつたる主に、忽ちに別れて、氣おくれし、はか〱しき矢の一筋をも射出す事かなふべからず、當家亡されん事、また踵をめぐらずべからず、重次夫迄ながらへて、あの年寄たるかたは者は、德川殿の譜代にて、何がしといはれし家人なるが、いかに惜しき命なれば、かく世には耻をさらすらんと、うしろ指さゝれん事、老の耻、何事かこれにすぎ候べき、此比までも、武功の家の人々、御當家に召されて、さらぬ人にも手をつかね、膝を屈めしを、世にもあはれに思ひしが、今は此老人めが、身の上になつて候と、存ずれば、殿におくれ參らせんが悲しき計にも候はず、我身の果も、あさましきに因て、御先に死する事にて候と申す、汝がいふ所ことわり至極せり、さらば醫療の事は、汝が心にまかすべし、天命既に至りて、家康空しくならんとも、汝もまた家康が心に任せ、いかなる耻を見つべしとも、一日も生殘て、後の事よきに計らふべしと、存ずるや、いなやと仰ければ、重次が申むねに任せられんには、重次いかで又仰をや背くべきと申す、さらば醫師めさせよとて召さる、醫師やがて參て、御灸治よろしかるべしと申せば、重次艾とつてすうる、御炙の痛み覺えさせ給はねば、艾を增し加ふる事多くして、後いさゝか痛ませたまふよし仰ければ、御藥をつけて參らせ、御藥湯をも進め奉りしに、其夜の半に、御腫物潰れて、膿水血おびたゞしう流れ出て、御惱み立ち所に輕ませ玉へば、重次は嬉し泣きに聲をかぎりに泣く、御前伺候の人々も、感淚を共に流しけり、此人かゝる奉公の事とも、世に傳ふること多し、盡く記るすに暇あらず、大畧をしるすのみ、
- 去し天正三年三月 — 底本のまま。本多重次が家康の腫物の治療を強く勧めたことは通説では天正13年(1585)と伝わる。同じ段落の「御聟の北條殿」(北条氏直と督姫の婚姻は天正11年)とも天正3年は合わない
其子は飛驒守成重なり、童名は仙千代丸、成人して丹下と申し、相州小田原の御陣に、重次成重後陣に在り、重次籠居せし後は、成重も出仕を止めて、籠り居ぬ、關が原の合戰には、御後にぞ陣しける、慶長十八年、越前國丸岡の地を賜て、少將忠直朝臣の家にぞ附られける、創業記に、慶長十八年、越前の家老今村掃部介、淸水丹後守、相論の事ありて、二人共に配流せらる越前の福井をば、本多伊豆守に仰下され、今まて今村が領せし丸岡の城をば、本多丹下に玉ふと云云、四万三千三百石餘を領せしなり、一說に、慶長六年に結城殿に附らるゝといふ、覺束なし、また伊豆守といふは、むかし成重が身代りに都へのほりし、源四郞富正と申しゝが事なり、大坂前後の戰に、越前の先陣し、前年十二月四日御方の先陣、城を攻し時、成重郞徒討るゝもの十六騎、疵蒙るもの百六十人、後年五月七日、成重が三百騎、眞先に進み、眞田左衞門尉幸村が陣を打破り、みづから敵二騎切ておとし、郞徒等が切所の首百七十三、城門を打破りて、一番に城に入、こゝかしこに火を懸け、首二十八を切、手の者討れしもの五人、疵蒙れるもの七人、元和九年忠直朝臣、配流の後、再ひ將軍家の御家人となりたるなり、年老て子息淡路守重能に家讓り、入道して土庵と號す、成重が致仕せし年、卒せし年いまだ知らず淡路守重能、慶安四年十二月七日卒す、六十二歲なり、其子飛驒守重昭父に繼く、延寶四年正月十五日に卒す、其子作左衞門重益、家を繼て、飛驒守に任す、