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本多

第四上 · 段落 3 · 780520 65コマ Lから

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この家によく出る人物・地名

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地名 7 4 3 3 3 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

豐後守藤原康重は、故豐後守廣孝の子にて、九條右大臣師輔公十三代の孫、豐後國の住人本多右馬助助定が後胤なり助定より先は中務少輔忠勝が傳に見えたり其後子孫三河國に移り、助定が五代の孫豐後守秀淸が代に及びて、出雲守殿に隨ひ參らす、長親の御事なり、秀淸は廣孝が曾祖父なり、安祥殿の御時、淸康の御事、享祿二年御油繩手の戰に、廣孝が父彥三郞信重生年廿三歲にて討死す、其子、贈大納言家の御諱字賜り、彥三郞廣孝と申、後に豐後守と申す、當時國中の者共、多くは御敵と成たりしに、廣孝終に二心なく、和田佐崎上野等の合戰に、常に軍の先をかけ、奉公の勞、戰鬪の功、年を積み、度を重ぬ、德川殿いまだ竹千代殿と申奉りて、幼なくましましゝを、織田信秀が爲に奪はれ、尾張の國に止められて、おはしましゝより、贈大納言家も世を早うせさせ玉ひしに、今川義元朝臣、如何にもして、若君を取返し參らせんとて、天文十八年十一月、安祥の城を攻めらる、廣孝等、眞先に進み戰ひ、織田三郞五郞信廣を信秀の子信長の弟虜にす、上總介信長、竹千代丸殿を返し參らせて、信廣を迎へらる、かくて義元朝臣、若君を駿河の國府に止め置て、岡崎の城には、我兵をこめて守らせ、御領盡くに押取て知行せらる、若君十三の御年、御元服有て、十五の御年、軍初め有べしとて、岡崎の城に入らせ玉ふ、豐後守廣孝、宗徒の人々と謀て、梅が坪廣瀨等の城を攻められ、程なくまた駿河の國府に歸らせ玉ひしかば、廣孝御一門の人々、譜代の御家人等と相議して、石川安藝守、天野甚右衞門と共に三人打連れて、義元に參り、若君すでに成人に及び玉ひぬ、今は本國に返し玉ふべきよし、頻りに訴へ申けれども、義元終に許し玉はず、義元討れ玉ひし後、德川殿御年十九歲岡崎には歸らせ玉ひけり、
廣孝等が、今川へ捧げし書の大畧は、元康既に成人に及ぶ、今は本國へ返し玉ふべし、家老の面々、彼身に代て、常に駿府に候すべし、これ一つ、元康の國に歸らんには、駿河の御勢、岡崎の城を守るに及ぶべからず、是二つ、元康が本領闕所の地においては返し給るべき所なり、是三つ、今川殿是を見玉ひて、義元、尾張國打從ん事近きにあり、然からん後は、元康の祖父清康の領せられたらん程の地、盡くまゐらすべし、なんぞ岡崎の地のみ進じ參らせんと宣へば、力及ばず、本國に還りぬ、精くは、伊東法師が記に見ゆ、
永祿四年の夏、當國の吉良義昭德川殿に中違うて、東條の城に立こもる、廣孝仰を承て、小牧山に要害を構へ、酒井雅樂助政親と東條に押寄す、東條の軍兵、藤浪畷に寄合て戰ふ、御方にも屈竟の兵、多く打れしかど、大久保太郞八、鳥居半六郞、義昭の賴みきつたる大將、富永半五郞忠元、廣孝に打たれければ、義昭終に降人と成て參らる、富永は弓、本多は、鎗にて戰ひしなり、此度の賞として、富永が所帶をば、廣孝にぞ下し給はりける、同き六年の秋、義昭また一向專修の門徒が大將と成て、東條に立こもる、廣孝嫡子彥二郞1を岡崎に參らせて人質とし、我身は土居の城に在て、土呂針崎の敵と戰ひ、東條の城を攻む、此時彥三郞に御諱を賜て康重と申と云、其忠賞に又東條の地を賜ひ、明る七年の夏、梶の鄕に要害を構へて、田原の城を攻降し、頓て此城を賜て移り住み、城近きほとり盡くに攻取る、廣孝が取る所、既に七千餘貫の地、彼が進退に任せらる、同き十二年の春の頃、遠江國掛川の城を攻められし時、彥三郞康重生年十二歲、父に隨ひて高名す、此年遠江國を打平げ玉ひし時、廣孝久野城にあり、元龜元年六月近江國姊川の合戰に、廣孝先陳承てければ、康重父に隨ひて、父子並びに高名す、此時廣孝鎗疵を蒙り、又康重も疵二か所を蒙れりといふ同き九月織田殿御加勢の事を望まれしに、廣孝石川日向守家成二人、御名代として近江國に馳せ向ふ、此時信長、朝倉淺井と江州志賀に戰陣ありしが故なり、廣孝家成、洲股にいたりし時に、信長の使者木下藤吉爰に來り迎へて、志賀表の事は終りぬれど、西國迄の聞えなれば、彼表迄來るべしといひしかば、志賀表に參陣すといふ、同き三年十二月、三方が原の戰、御方散〱に成て引返す、廣孝返し合て戰ひ、多くの御方を助けて追來る敵の首を切て引返す、天正元年七月奧平が父子、武田四郞を叛し時、廣孝に依て、御方に參るべきよし申ければ、廣孝父子松平主殿介伊忠して、奧平を迎へらる、同き八月廣孝父子、奧平が加勢して、武田が勢と戰ひ、首あまた切てけり、長篠の合戰には、父子鳶巢を攻め落し、康重疵蒙る事二ヶ所、その中鐵炮左の股にあたれり、其彈老死の日まで留りありといふ、同五年の冬、廣孝家の事を以て、子息康重に讓る、同九年の春高天神の城落し時、康重が手に討取所の首廿一、武田亡ひし年の秋、廣孝康重、大久保七郞右衞門忠世、共に甲斐國を打ち平ぐ、明れば天正十一年、廣孝叙爵して、右兵衞佐に任ず、廣孝叙爵して右兵衞佐になされしかど、德川殿の仰に依て、元の儘、豐後守と申し、其後越前守に成されしと云、長湫の戰には、廣孝元より尾幡の地を守りたり、古城を守るなり、康重、山中忠兵衞が記には此時康重の事を越前守とのせたり、榊原大須賀の人々と、先陣を承り秀次の多勢を打破り、逃行く敵を追詰て、岩崎に至る頃、堀久太郞秀政が陣固うして待かけたるに行逢て、御方の馬足、立直さんとする所を、秀政が三千騎、一度にどつと時を作り、鋒を揃へて切て懸る、御方なにかは怺ふべき、しどろに成て引返す、敵の多勢、力を得て、一手に成て追懸る、御方既に負け軍しつと見えたるに、康重一勢取つて返し、大勢の中に割て入り、縱さま横さま、切て廻り、康重太刀の目貫、打折て、其敵と組で首をかく、究竟の郞徒三十六人討死し、其身もまた七箇所迄ぞ手は負たる、かゝりし程に、德川殿御陣を寄せられて、森、池田、旣に打れ、敵盡く破れしかば、康重も希有の命を助りたり、かくて蟹江の城を攻められしに、康重疵いまだ癒されども、馳向て先をかく、ことし天正十三年十一月石川伯耆守、岡崎の城を出て、上方に參りしかば、康重、二男次郞紀貞を人質となして獻る、汝が家、累代の忠節、質に及ぶべからずと仰ありて、紀貞を返されたり、其後東西御和睦事成りし後、同き十五年關白殿、薩摩の嶋津を討れんとて、筑紫に下向有し時、豐後守廣孝を使として、軍の樣を訪せ玉ふ、折ふし秀吉は豐前國岩石の城を攻めて居玉ひしに參りあひ、廣孝高名しける程に、關白の御感淺からず、物多く賜て歸されたり、金作の脇差、羊の皮にて作りし道服等同十八年北條の亡ひし時、康重先陣して城をせむ、遊軍の大將なり、今年關東に移り玉ひしに、上野國白井の城を給、二万石、慶長二年十二月廿七日、廣孝七十歲にして卒す、同四年康重叙爵して、豐後守に任ず、關が原の合戰には、中納言殿の供奉しければ、軍をばせず、明れば慶長六年二月岡崎の城を給りぬ、五万石、十六年三月病に臥す、將軍家驚かせ玉ひ、松平助十郞隆信を御使にて、病を問はせ玉ひ、此月廿三日五十才にて、岡崎の城に卒しけり、嫡男伊勢守康紀父に繼て、豐後守に任ず、童名は彥三郞、御諱字給て康紀とは申たりき、大坂の兵起りし時、天王寺の御陣を承り、再ひ軍起りし時に、先駈して城中に乘入、首貳百拾壹を取て獻る、元和九年九月廿五日四十五歲にして卒す、其子伊勢守忠利、將軍家の御諱字を給る、大坂の兵起し時は、御跡にとゞめらる、再び兵起りし時に、御供して自ら首とつて御陣にまゐる、其齢を問はせ玉ひしかば、十六歲に候と申す、むかし掛川の城を攻し時、康重十六歲にて軍始し高名しつ、汝もまた祖父にあやかりぬと仰下されたり、元和元年閏六月、叙爵して伊勢守になされ、父卒して跡をつぎ、寛永十一年四月將軍家御上洛の時、岡崎の城に入らせ玉ひ、新恩の地を加へ賜ふ、三河にて五千石、正保二年正月十一日遠江國橫須賀の城に移り、同年二月十日四十六歲にて卒し、その子越前守利長父につぎ、舍弟等に所領を分つ、利長か所領五万石、二男彥八郞助久四千五百石、三男兵庫利朗二千石をわかつ、
  1. — 底本のまま。同じ段落の割注と本文は広孝の嫡子を「彥三郞(康重)」と記し食い違う。本多康重の通称を彦次郎と記す資料もある。未確認