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島津氏
本文表記 嶋津・島津
本多 第四上 · 1
- p003…て、紀貞を返されたり、其後東西御和睦事成りし後、同き十五年關白殿、薩摩の嶋津を討れんとて、筑紫に下向有し時、豐後守廣孝を使として、軍の樣を訪せ玉ふ、…
大久保 第四中 · 1
- p006…ふとしるす、又按ずるに此人々には、關白殿より所領賜りしと存ずるなり、上杉島津其外の家人に此例多し、これ秀吉の姦謀にて、大名の主從、不和にすべき爲なり…
淺野 第七上 · 1
- p001…應の事を掌りて、御旅館に祗候す、是よりして後、德川殿の申次を承はる、關白島津を伐ち給ふ時は、大隅國に向ひ、北條を亡し給ふ時は、武藏の國に向ふ此時殿下…
前田 第七上 · 1
- p002…べしとてたびてけり、利長を初め越中侍從といひしは、この故か、十四年嶋津を討れし時、子息肥前守、關白殿に從て向ふ、十六年の春、右少將になされ、十…
加藤 第七下 · 1
- p001…、家久と戰つて退かず、關白の御感大かたならず、明れば十五年の春、關白自ら嶋津を伐ち給ひし時、嘉明脇坂九鬼大隅守嘉隆等と兵船を泛め、薩摩の國に攻…
嶋津 第八上 · 17
- p002…系圖とは一年の違ひありて、月と日とは共に異なり、又東鑑の記す所を見るに、嶋津もと惟宗姓なり、源氏にはあらず、其家の系圖にも新編纂圖にも、宗兵衞尉と載…
- p002…覺束なし、子としたらんには、など畠山とは名のらざらん、又薩摩大隅を賜て、嶋津と名のるといふも浮きたる說なり、兩國賜りたればとて、謂れなくして、如何で…
- p002…と名のるといふも浮きたる說なり、兩國賜りたればとて、謂れなくして、如何で嶋津とは名のるべき、世の傳ふる所、誠とし難きに似たり、○又忠久は近衞攝政基通…
- p002…り、系圖家譜にも見えず、如何なる據り處にや覺束なし、昔の事は知らず、近頃嶋津が、かの御門下に親しく祗候せる事は謂れありと見えき、世の傳ふる所を以て、…
- p002…、同年九月廿日、又薩州へ御下向あり、世には流されさせ給ひしとも申すなり、嶋津が許に御座ありし事三年、天正五年二月廿六日御歸洛、同き七月廿日初て御出仕…
- p002…津打負けて本國に返りし時、彼が從類を御所の內に深く匿し置かせ給ひしなり、嶋津また此事を忝き事に思ひ、此後御家禮の好み、代々深しといふ、…
- p003…ねて九州征伐の事を思召し寄り給ひし處に、天正十四年正月、大友又上洛して、嶋津御退治あらんには、先陣を賜はるべき由を望む、義久また鎌田刑部左衞門尉を使…
- p003…、毛利右馬頭輝元、此由を聞て、山陰山陽の軍勢を從へ、豐前の國に押渡つて、嶋津が勢と戰ふ、關白、仙石長曾我部が負軍しつと聞召し、自ら畿内畿外南海北陸の…
- p003…、同き五月、關白の御勢、薩摩の國に亂れ入て、先陣既に鹿兒嶋に押寄せたり、嶋津も、今は防ぎ戰ふ事叶はず、義久自ら剃髮染衣の姿となつて、小童一人召し具し…
- p003…內豐臣家御領の地、四万石を賜ふといふ、忠恒四位の少將になさる、こゝに嶋津が家人伊集院右衞門大夫入道幸侃といひしは、天正十九年、主の嶋津が、既に亡…
- p003…る、こゝに嶋津が家人伊集院右衞門大夫入道幸侃といひしは、天正十九年、主の嶋津が、既に亡ぶべかりしに、この幸侃關白の御陣に參て、歎き申せしに因て、義久…
- p003…子源二郞、父が討れしを聞て、日向國庄内の城に立籠り、要害あまた構て、主の嶋津と戰ふ、同七月、德川殿山口勘兵衞尉直友を御使にて、鏃二千暑衣百領、忠恒に…
- p003…暑衣百領、忠恒に賜りて軍のやうを問はせ給ひ、九月また寺澤志摩寺廣高して、嶋津に加勢させ、又山口を差し下され、主從が間を和げさせ給へば、源二郞降參しぬ…
- p003…正、關東の御方として、同國宇土の城を攻む、小西攝津守行長が城なり、嶋津が軍勢、また小西を助けて、肥後の國に向ひ、清正が佐敷の城を攻む、清正宇土…
- p003…水俣に陣取つて、義久と戰はんとす、かゝる所に、關が原の軍、破れぬと聞て、嶋津か軍勢、佐敷の城より引き返へす、龍伯敢て加藤黑田に向つて軍せず、福嶋左衞…
- p003…の御感、斜めならず、これに依つて、諸役御免あるべきよしを仰せ下さる、是れ嶋津が第一の奉公たるよし、かの家にて云ふ所なり、…
- p005…右馬頭源忠興は、嶋津と稱す相摸守忠良が二男、陸奥守貴久が弟、右馬頭忠將が孫なり、初め忠將…
鍋島 第八上 · 4
- p004…を用ゐずして、同國有馬を伐んとて、自ら五萬餘騎を引具し、高來郡に發向し、嶋津が弟中務大輔家久がために、一戰に利を失ひ、嶋原の邊にて討れ死す、隆信時…
- p004…、御誅伐あらんには、政家直茂、先陣を承るべしと望みけり、同き十五年、關白嶋津を退治のため、筑紫の地に渡り給ひし時、直茂政家と共に、最初に御陣に馳せ參…
- p006…て、彼の城を守らせ、清正如水、鍋島立花の軍勢を押合せ、薩摩の國に發向す、嶋津また降を乞ひぬれば、戰ふに及ばず引返へす、鍋嶋父子、柳川にて打取る所の首…
- p006…、大坂の軍起りしには、勝茂馳上て城を攻む、再ひ軍起りし時、西國の軍勢は、嶋津が船出さざらん程は參るべからずと仰せ下されしに依つて參らず、加賀守直茂、…
佐竹 第八下 · 1
- p001…合せ領しければ、天下六人の大名の數に入られたり、德川毛利上杉前田佐竹嶋津義宣かく大名に成りし事、偏に石田が謀に因りしかば、如何にもして、彼の恩…
立花 第八下 · 7
- p003…、立花山の城に在り、明れば十四年の秋、今歲の七月、統虎が實父紹運も、島津が爲に討れ死すと云ふ嶋津が多勢、豐後國に發向して、我が城の邊り近く打過…
- p003…十四年の秋、今歲の七月、統虎が實父紹運も、島津が爲に討れ死すと云ふ嶋津が多勢、豐後國に發向して、我が城の邊り近く打過く、統虎城より打て出で戰ひ…
- p003…城の大將星野兄弟を先として、首數百切て捨つ、豐臣關白この由を聞召し、當時嶋津が軍勢、大友が國々に攻め入て、此處彼處の城々、落されしに、統虎僅の勢を以…
- p006…郞等彌七郞を守護して、岩屋の城に落ち去りぬ、明る十四年七月十日、筑紫も又島津が爲に攻られて、勝尾の城を落され、降人になつて出づ、此時を窺つて、高橋再…
- p006…寶滿の城に入る、時に彌七郞十五歲と云ふ同き月廿七日、父の入道紹運、島津が勢に攻められ、岩屋の城落され、家子郞等八百餘人討死し、入道も自害しぬ、…
- p006…十九歲敵又寶滿の城に押寄せ、高橋をたばかつて生捕にこそしたりけれ、島津が家譜には、此等の事天正十三年の事とせり、明れば十五年の秋、豊臣關白…
- p006…天正十三年の事とせり、明れば十五年の秋、豊臣關白、鎭西を平げ給ひし時、島津が許より、高橋を召され、父入道、殿下の御爲に、己が城を守て主從殘らず討死…
仙石 第九上 · 8
- p001…四國の地を攻められしに、秀久先陣して、讚岐國を賜て移る十四年の夏、薩摩の嶋津、關白の仰に隨はず、豊後の大友、亡さんとそと聞えしかば、秀久御使を承り、…
- p001…曾我部土佐守元親と共に、四國の軍勢を引率して、豊後の府に押渡る、秀久先づ嶋津が許に、使立て、重て關白の仰を傳へけるに、嶋津其使からめ取て、返荅にも及…
- p001…豊後の府に押渡る、秀久先づ嶋津が許に、使立て、重て關白の仰を傳へけるに、嶋津其使からめ取て、返荅にも及はず、肥後の國を經て、豊後國に亂れ入り、大友が…
- p001…、大友が軍勢を隨へ、戶次の城の後卷す、十二月十二日の朝、戶次川を打渡て、嶋津が勢と戰ひ、味方散々る打なされ、元親が嫡子信親打死す、字は彌三郞關…
- p001…九國の大名等、冑を脫ぎ、弓の絃をはづして、降人に成て參る者、引も切らず、嶋津は猶も參らず、同き四月廿三日、日向の國耳川の合戰に、宮部の法印、嶋津が勢…
- p001…ず、嶋津は猶も參らず、同き四月廿三日、日向の國耳川の合戰に、宮部の法印、嶋津が勢を討ち破り、逃ぐる敵を追詰て、討留めんと、はやりしに、尾藤が固く制し…
- p001…、討ち留めぬ事やある、しやつめも、又國奪へとて、是も讚岐國を沒収せらる、嶋津終に戰に堪へずして、降人になつて、出ければ、九國悉く平きぬ、筑紫陣の事…
- p001…戰に堪へずして、降人になつて、出ければ、九國悉く平きぬ、筑紫陣の事は、嶋津が傳に詳なり、十八年、關白また相摸國北條を亡し給ひし時、秀久忍ひて御供…
伊東 第九下 · 9
- p003…浦宇良村田等の地頭職を賜る、其子大和守祐堯に當て、日向薩摩大隅の國人等、嶋津澁谷を除くの外、悉く伊東が家人たるべき由、寛正三年三月十四日の御下文の旨…
- p010…申ける、去程に義祐が祖父故大和守祐國は、去りし文明の未、當國飫肥の戰に、島津が爲に討れしかば、あはれ如何にもして、父祖の仇を報はばやと思て、天文十年…
- p010…して、父祖の仇を報はばやと思て、天文十年十月、薩摩國に發向す、是より伊東島津が軍起りて、戰更に止むことなし、鬼が城陽野の城を始として、日井新山の城を…
- p010…、戰更に止むことなし、鬼が城陽野の城を始として、日井新山の城を攻め落し、島津が宗徒の侍大將、多く討る、同き廿年の九月、島津終に中直りして、互ひの軍、…
- p010…、日井新山の城を攻め落し、島津が宗徒の侍大將、多く討る、同き廿年の九月、島津終に中直りして、互ひの軍、暫く止む、弘治三年の頃より、伊東島津、又大隅の…
- p010…年の九月、島津終に中直りして、互ひの軍、暫く止む、弘治三年の頃より、伊東島津、又大隅の地を爭ひ、永祿六年の夏に至て、兩家再ひ軍起り、三位入道卒して後…
- p010…す、家人福永丹波守野村伊賀守等、心變りせし程に、天正五年十二月七日の夜、島津が軍勢、野尻の城に入り、明れば八日、修理大夫義久、野尻に陣を取る、伊東の…
- p012…秀吉大に感し給ひ、河內の國にして、所領一箇所を下し賜ふ、同き十五年、關白島津を御退治の時、伊東は彼國の案内者なればとて、大和大納言秀長卿の御手に附け…
- p014…伊東が攻取りし所の宮崎の城を、右近將監に返し與ふべき由を、仰せ下さる、又島津も、本領安堵御免ありし程に、穆佐倉岡高岡綾合等の地をも、龍伯入道が許に、…
有馬 第九下 · 5
- p005…同き九年、有馬又隆信に叛き、密に薩摩の島津と、志を通ず、隆信安からぬ事に思ひて、二男江上又四郞家種を大將として、餘…
- p005…將として、餘多の軍勢を差向けて、戰ふこと止む時なし、同き十一年、義純終に島津に隨ひ、其加勢乞うて戰ふ、隆信が勢、利なくして引返す、嶋津が大將新納刑部…
- p005…一年、義純終に島津に隨ひ、其加勢乞うて戰ふ、隆信が勢、利なくして引返す、嶋津が大將新納刑部大輔、川上左京亮、有馬の城に止て守る、明れば十二年の春、隆…
- p005…稀有にして、運をぞ開きける、隆信死せし時、五十六歲十五年の夏、關白島津を討んが爲、筑紫の地に押渡り給ふ程に、九國二島の大名等、日々に降人に成つ…
- p013…を去る事を願はざりしかば山口を御使に下されて移さる、尙も對捍に及びなば、島津が軍勢を以て、追捕すべき由を仰せ下されしとなり、一說に高來郡中天主の法、…
大村 第九下 · 1
- p003…、純忠が卒せし年、天正十五年正月十八日に卒せしなり豐臣關白、薩摩の嶋津を追討の爲め、自ら筑紫に發向あり、喜前生年二十歲、未だ新八郞と申せしが、…
脇坂 第十上 · 2
秋月 第十上 · 3
福嶋 第十二上 · 1
- p003…鼻の城を打破つて岐阜の城を攻め落し、關が原に戰て多くの敵を討ち滅し、毛利嶋津等を降して天下悉くに德川殿に歸せし事、正則が功莫大なり、されども此人心猛…
加藤 第十二上 · 1
- p008…の兵船、室兵庫の間に着く、此所より戾さる、再度軍起りしには九國の大名は、島津が參らざらんうちは、參るべからずとありしかば、遂に國を出です、寬永三年八…
寺澤 第十二上 · 2
高橋 第十二下 · 1
- p001…が家つがす、これ右近將監が事なりけり、九郞元種、舍兄秋月種長と同く薩摩の嶋津に隨て、大友と戰ふこと年を經て、天正十五年豐臣關白、筑紫に向ひ給ひし時、…
松倉 第十二下 · 1
- p007…一說に此時重政井伊が手に屬して首八つを切る、島津が家人阿多盛淳入道長壽をば、重政が從者山本七助茂純といふもの討ちしと云ふ…
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