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鍋島〔後賜松平〕

第八上 · 段落 8 · 780523 74コマ Rから

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この家によく出る人物・地名

人物 50 27 22 16 8 8 8 8 4 4 4 4 4 4 4 3 3 3 3 3 3 2 2 2

地名 9 7 5 3 3 3 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

加賀守藤原直茂は、鎭守府將軍秀鄕九代の孫、鎭西の奉行筑前守資賴が嫡孫太宰少貳經資が後胤なり、經資より十一代、太宰大貳致賴が二男經直が孫、鍋島平右衞門尉茂尙、これ加賀守直茂が祖父なり、初め享祿三年、肥前の國佐賀の郡の地頭、龍造寺山城守家兼、太宰新少貳冬尙2を助けて、當國の住人筑紫朝日杉の人々と三根郡田傳原と云ふ處に戰ふ、手合の戰、味方既に負色に見えし所に、赤熊一揆の兵馬、軍兵皆冑の上に紅纓を掛けしといふ忽ち味方に馳せ加り、先駈して戰ひ、多くの敵を打破り、家兼遂に勝軍し、悅ふこと斜ならず、彼輩を召して、其名を問ふ、當國本莊の浪人鍋島平右衞門尉茂尙、龍造寺記には清久嫡男同左近清正、二男孫四郞清房、幷に一族郞等らと名のる、家兼、嫡男清正妻やあると問ふ、さむらふと答ふ、二男いまだ妻なしと聞て、家兼が嫡子豐後守家純3が聟になして、駿河守に受領させ、本莊八十町の地を與へたり、按ずるに、大友少貳龍造寺鍋島四家、共に同流の藤氏なり、秀鄕四代の孫相摸守公光と云ふは、是れ龍造寺が祖なり、公光の弟近江守脩行より、四代近藤武者景賴が嫡子を近藤武者所能成と云ふ、能成が後は、大友なり、二男武藤大藏亟賴平1が後は、少貳なり、鍋島は少貳が家の庶流なり、○龍造寺記に曰く秀鄕七代の孫藤原季喜の時に、八郞御曹司源爲朝に從て、鎭西に止り、龍造寺に住す、季喜十二代の後胤山城守家兼たり、此流をば水江の龍造寺と名づく、家兼が嫡子豊前守家純が子を、六郞次郞周家と云ふ、周家が子山城守隆信が時に至て、家を起し、武威九國に震ひしなり、
  1. — 底本のまま。「大藏丞」の誤植とみられる
  2. — 底本のまま。享禄3年(1530)田手畷の戦いの際の少弐氏当主は通説では少弐資元(冬尚の父)
  3. — 底本のまま。(780523_0074L「豊後守家純」も同じ)同じ段落の龍造寺記の引用部は「豊前守家純」と記す。通説の官名は豊前守。未確認
駿河守清房、男子二人を設く、兄は豊前守信房、弟は加賀守直茂なり、直茂初は左衞門大夫信生と名乘る、直茂等が外祖豊後守家純、父家兼に先立て卒す、家兼入道剛忠卒せし時、二男和泉守家門、家を繼ぎ、舍兄家純が子六郞次郞周家を世嗣とす、周家また世を早うして、其子彥法師丸、祖父の跡を繼ぐ、山城守隆信、これなり、斯て駿河守清房、年でろの妻に後れて、獨住みしけるに、山城守隆信が母、清房を召して、和殿子息等が母、失うて只獨ずみと聞く、わらは媒して、老の寐覺の友、迎てまゐらせんと、ありしに、清房謹で領承す、既に其期に至りて、隆信の母上の方より、參らせらるゝ旨にて、輿むかへ取て相見るに、隆信の母なりけり、清房以ての外に驚き恐る、隆信が母、清房に向ひ、隆信いまた稚く、祖父と父とに離れまゐらせ、賴もしき人、一人もなし、わどのゝ子共、尋常の人にあらず、わらは子として、隆信が兄弟とせんと思へば、かく計ひし所なり、さのみな怪み給ひそとて、清房が妻となりし上は、信房信生、隆信が兄弟とは成てけり、從弟違ひにて世に云ふ行逢兄弟なり永祿六年、同國有馬晴純入道仙岩、小城郡に向ひて、千葉胤連と軍す、隆信軍勢ひきゐて、千葉を助く、この胤連と申すは、むかし左衞門大夫信生が稚き時、養ひし人なれば、信生其恩に報ぜんが爲め、眞先に進み戰つて、敵の勢を打破る、信生時に廿六歲これ功名の始か元龜元年の春、大友左衞門督義鎭入道宗麟、隆信を擊たんとて、十万餘騎を引率して、肥前の國に向ふ、同き四月廿三日、隆信高尾に出で向つて戰ふ、信生が謀、勇々しくして、手合の戰に、勝軍す、されども、敵は目に餘る多勢なれば、此處彼處に攻め入て、同き八月十九日、大友の先陣、同八郞親貞、今山に陣取つて、諸方の寄手、明日既に佐賀の城を攻めんとす、龍造寺が家、滅ぶべきこと、此時に極りぬ、此夜左衞門大夫信生、隆信を勸めて、親貞が陣に夜討せしめ、おのが手勢十七騎にて、先を懸け、隆信續きて切て入る、八郞が陣、驚き亂れ、親貞終に討れ死す、先陣終に敗れしかば、義鎭が軍、さん〱に戰ひなつて、本國に引返へす、
信生人に語りしは、此夜大友が陣に忍び入て、相圖の時を待ちし程に、彼が杏葉の紋、曉の燒火に移うて、鮮かなるを打眺め、あつぱれ、今夜勝軍したらんには、取て我が紋とせん者をと思ひしが、思ひのまゝに勝軍す、且は當家の吉例のため、今より我が紋とすべしとて、劍菱を改て、杏葉の紋とぞしたりける、
明れば二年、信生、小早川左衞門尉隆景と謀て、隆信が使となつて、公方義昭に參て、鎭西追討の事を望みしかば、頓て御許を蒙り、信生又飛驒守になさる、隆信武命承り、違犯の國々追討し、武威鎭西に震ひし事、これ然しながら、信生が功とぞ聞えける、小早川隆景、此時初て信生に對面し、信生の名譽、兼ても承り及ふ所なり、毛利龍造寺兩家の好み、結ぶべき見參のしるしに候とて、肥前の國養父郡三百町の地を以て、信生にこそ與へけれ、されど良藥口に苦く、忠言耳に逆ふ習にて、いつしか隆信おのが權威につのり、自らの武勇を賴み、信生が事に觸れて常に諫言を奉る事を厭ひ思ふ心づき、上には彼が功を貴ふ樣に見えしかども、內々は信生を遠ざけぬべき謀事にて、天正七年、筑後の國柳川の城を構へ、彼の國を鎭めよとて、信生に賜りたり、これ隆信が亡ぶべき端となるこそ、うたてけれ、同き十年六月、信生、織田殿父子討れ給ひぬと聞て、天下必ず秀吉に歸すべき事を知りて、遙々使者を參らせて、音信を通す、南蠻帽子を奉りしとなり、鎭西の國人等、使まゐらせし初なれば、秀吉大に悅ひ、石田備中守を使とし、自ら文かきて答へらる、龍造寺記に見ゆ、この石田誰にやいまだ其人を知らず、同き十二年隆信、信生が謀を用ゐずして、同國有馬を伐んとて、自ら五萬餘騎を引具し、高來郡に發向し、嶋津が弟中務大輔家久がために、一戰に利を失ひ、嶋原の邊にて討れ死す、隆信時に五十六歲其子民部大輔政家、いまだ幼きまゝ、龍造寺が家、既に亡ひんとす、家子郞等、相謀りて、急き信生を佐賀の城に迎へ入れ、權に國中の事を行はしむ、信生佐賀に在りと聞て、敵續て國中に攻め入る事を得ず、信生叔父の親に因つて、幼主を助けて、自ら加賀守直茂と改め名のる、如何にもして隆信が仇を報せんとて、常に關白秀吉に使を奉り、九州違命の輩、御誅伐あらんには、政家直茂、先陣を承るべしと望みけり、同き十五年、關白嶋津を退治のため、筑紫の地に渡り給ひし時、直茂政家と共に、最初に御陣に馳せ參り、先陣を給る、直茂、年ころの素懷を達すべき事、此時に在りと、悅ぶこと限りなく、眞先かけて、薩摩の國に攻め入り、嶋津遂に戰ひ負け、降人になつて參りしかば、九州二嶋悉く平均に屬したり、政家直茂、龍造寺が本領たぶ、政家いまだ年若し、直茂政務を沙汰すべきよしの仰を承る、其後政家が家絕えて直茂自ら國に當る、
文祿の初より、朝鮮の事起る、直茂加藤主計頭清正と共に、先陣を承り、王城に攻め入て、咸鏡道を打從へ、和親の事、破れし後、再び軍起りしには、直茂太閤に召され、蜂須賀阿波守家政、安國寺惠瓊と三人、同じく朝鮮の軍奉行を承る、太閤薨じ給ひ、朝鮮の事終り、大坂の奉行人、德川殿失ひ參らせんとて、大坂伏見の間、物さわがしく、既に軍起らんとす、直茂最初に伏見に來て、德川殿の御舘を守護す、德川殿悅び給ふこと、淺からず、直茂申けるは、このたびの事は、さておきぬ、直茂が死したらん後に至るまで、永く子孫に庭訓を遺し、直茂が家を以て、殿の御家と同じく亡ぶべきにて候、恐れある申事には候へども、殿にも此由を以て、御子孫に仰せ傳へられ給はらんには、直茂が幸、何事かこれに過ぎ候べきと望みければ德川殿大に感じ給ひ、中納言にも、其旨を申傳ふべき所なりとぞ仰せける、明れば慶長五年の秋、奧の景勝、御退治のため、御下向ありと聞えければ、直茂が子息信濃守勝茂、軍勢を催し、御跡を慕うて馳せ下る、かゝる所に石田三成、近江の國愛智川の邊に新關をすゑて、東國下向の軍勢を押止む、大坂の奉行等、秀賴の仰として書を勝茂に送て、抑も內府自らの家建ん事を謀りて、やゝもすれば太閤の遺命に背き、檀に兵を起し、終に天下を亂る、早く其罪を正されんが爲に、天下の軍勢を召さる、勝茂かの凶惡に組する事なく、速かに大坂に馳せ參るべき由を載す、安國寺惠瓊、また來て、秀賴の仰を傳ふる事、これに同じ、勝茂此由を聞て、勝茂內府に從つて軍せんと思ふも、秀賴の命を重んずるが故なり、如何で違命の人の方人せんとて、こゝより引返へし、大坂の先陣して、伏見の城を攻落し、海道より攻め下りて、伊勢の國安濃津の城をも落して、同國松坂の城を攻む、親父直茂、本國に在つて、この由を聞き、大に驚き、下村左馬助を以て勝茂が許に使として、つら〱事の情を按ずるに、此度大坂の軍起りし事、幼弱の君の如何で此御結構やあるべき、これ偏に彼の奉行等が、私の仇を報せんがため、内府失ひ參らせんとする所なり、我かねて內府と誓ひ申す旨あり、相構へて、ひが事して、東國の御勢に向ひ、弓を引き矢をはぐべからず、兼ては又故太閤の仰せ置れし如く、秀賴君に背き奉らず、内府の命を重んずべき所なりと制しければ、勝茂又大に驚き、我年いまだ若くして、事の情を察せず、かつは老母の大坂の城に渡らせ給ふが故に、彼の奉行等が謀に落ちて、誤つて父の心に背きし事、返す〱も無念なり、いま先非を悔ゆるとも及ぶべからず、此上は內府の御使こうて、速かに腹を切り、父の罪、かうふらせ給はぬ樣をこそ謀るべけれといふ、宗徒の家人等、これを聞きて、御自害の事、猶遲きにあらず、一まづ此旨を以て陳し給はんに、德川殿御許しなからんに至ては、とにもかくにも御心に任せらるべうもや候ふ、君はいまだ御年廿一歲にならせ給へば、德川殿、直茂の御契を思召し出されなば、如何で寬宥の御沙汰もなかるべきとて、甲斐彌左衞門尉を、德川殿の御陣に參らせて、此由を陳す、爰にまた勝茂が親しう召使ひし久納市右衞門尉といふ郞等、密かに黑田甲斐守長政の陣に行き向ひ、主人勝茂が、所存の樣、一々に陳べて、長政の計ひにて、罪なだめられん事を望む、年頃長政の父如水入道、勝茂か父直茂と親しかりければなり、長政久納が志の程を感じ、井伊兵部少輔直政と相議りて、此由をかくと申す、德川殿聞召し、家康彼が父直茂と約せし事あり、如何で其約に違はんやとて、立所に罪ゆるされ、勝茂を御陣に召し、急ぎ本國に馳せ歸り、柳川の城、攻め破るべきよし仰せ下さる、立花左近將監宗茂が居城なり、勝茂大に悅び、本國に馳せ歸り、父直茂と共に佐賀の城を打立ち、まづ久留米の城を降して、侍從秀包が居城なり、柳川に向ひ、立花と戰ふ、黑田加藤、柳川に馳せ來り、兩陣に使たてゝ軍を制し、立花を勸めて降參させ、加藤が兵して、彼の城を守らせ、清正如水、鍋島立花の軍勢を押合せ、薩摩の國に發向す、嶋津また降を乞ひぬれば、戰ふに及ばず引返へす、鍋嶋父子、柳川にて打取る所の首六百餘、德川殿に參らせければ、御書を賜て、其功を賞せられし上は、本領の安堵はいふに及はず、大坂の軍起りしには、勝茂馳上て城を攻む、再ひ軍起りし時、西國の軍勢は、嶋津が船出さざらん程は參るべからずと仰せ下されしに依つて參らず、加賀守直茂、八十一歲にて、元和四年六月三日に卒す、信濃守勝茂家を繼き、寛永三年八月、四位の侍從に任す、同き十四年の冬、同國高來郡嶋原の逆徒、原の城に立籠る、當時勝茂は、關東に伺候す、長男紀伊守元茂、三男甲斐守直澄、父の軍勢一萬餘人を率して馳せ向ふ、十二月の初、追討の御使板倉內膳正重昌、下向し、鎭西の軍勢を催して、城を攻む、明れば十五年春正月元日、内膳正重昌討死し、寄手討れ、手負ふもの、數を知らず、鍋嶋兄弟が軍兵、討死三百八十騎、手負ひしもの、四百餘騎、雜兵の手負死人二千五百人とぞ記しける、同き四日、松平伊豆守信綱戶田左門氏銕下向す、此後は只遠攻にす、同き十六日、信濃守勝茂、御暇を給て、本國に歸る二月廿一日の夜、城中より打て出で、鍋嶋が陣を襲ひ攻む、鍋嶋が勢、防ぎ戰て、打取る所の首百餘、味方にも秀嶋四郞右衞門尉討死し、侍の手負ふ者二十餘人、雜兵八十餘人に及べり、勝茂夜を日について馳せ下る、伊豆守信綱、同月廿八日を以て、寄手一同に城攻むべき由を下知す、かゝる所に同き廿七日の朝、勝茂が先陣、既に城を攻め破つて、打入る程に、諸手の軍勢、我れ劣らじと攻め入て、二三の城を攻破る、明る廿八日、城は難なく落してけり、勝茂が兵、討るゝ者百六十人、手負ふ者六百八十三人、勝茂父子が功、莫大なりと申せども、既に軍法を背きし上は、罪蒙て暫くが程は、籠居せり、勝茂七十八歲にて、明曆三年三月廿四日に卒す、嫡子肥前守忠直元和八年十二月廿六日叙爵其時御諱字賜ひしと云父に先立て卒しければ、嫡孫光茂家を繼ぐ、光茂初め、慶安元年十二月廿二日元服し、御家號御諱字を賜り、從四位下に叙し、丹後守に任ず、御刀を賜ふ祖父の家を繼いで後、三十五万七千石餘明曆四年二月、侍從になさる、其子信濃守綱茂、寛文七年十二月廿五日、元服して御諱字を賜ひ、從四位下に叙す、御刀を賜ふ事例の如し
紀伊守藤原元茂鍋島と稱す勝茂が長男、肥前の國小城の地を分ち領す、七万四千石承應三年十一月十二日卒す五十三歲、其子加賀守直能つぐ、其子紀伊守直賴甲斐守藤原直澄鍋島と稱す勝茂が三男、肥前の國蓮池の地を分ち領す、五万二千石寛文六年二月廿六日、家を子息攝津守直之に讓り、入道して義峯と號す、攝津守直之、初め万治三年十二月叙爵す、