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島津義久
本文表記 義久・龍伯入道・嶋津・修理大夫義久・嶋津兄弟・義久入道龍伯・修理大夫源義久入道龍伯・義久入道・龍伯・入道・島津義久入道龍伯・島津兄弟
嶋津 第八上 · 28
- p001…修理大夫源義久入道龍伯は、嶋津豐後前司忠久が後胤なり、忠久初め後鳥羽院の御宇、建久四年、鎌倉の…
- p003…久が爲に國を出され、豐後の國に落行く、貴久やがて當國の守護となる、其嫡男修理大夫義久、二男兵庫頭義弘、三男左衞門尉歲久、四男中務大輔家久とぞ申ける、嫡男義久…
- p003…義久、二男兵庫頭義弘、三男左衞門尉歲久、四男中務大輔家久とぞ申ける、嫡男義久、家を繼き、大隅日向を始として、筑前筑後肥前肥後豐前の國に至るまで、悉く…
- p003…年正月、大友又上洛して、嶋津御退治あらんには、先陣を賜はるべき由を望む、義久また鎌田刑部左衞門尉を使として、年比打從ふる所の八箇國の守護職、相違なか…
- p003…國をば毛利が家に附て、筑前國をば御領のために、獻るべき所なりと仰せ下さる義久大に怒て、此國々は悉く義久が年比多くの軍して、打從へし所なり、凡そ地を爭…
- p003…國をば御領のために、獻るべき所なりと仰せ下さる義久大に怒て、此國々は悉く義久が年比多くの軍して、打從へし所なり、凡そ地を爭ひ兵を戰はしむること、珍し…
- p003…、關白の御使として、仙石權兵衞尉秀久、長曾我部土佐守元親、鎭西に下向し、義久が押領せし國々を受取らんとす、又黑田勘解由孝高、山陽道に下向して、毛利吉…
- p003…黑田勘解由孝高、山陽道に下向して、毛利吉川小早川等が軍勢を催促す、これは嶋津もし殿下の御使に對捍せば、まづ鎭西に押渡つて、彼が押領せし國々攻め取らる…
- p003…が押領せし國々攻め取らるべき爲とぞ聞えける、仙石、豐後の國に着きて、まづ嶋津が許に使たつて、早く御下知に任せ、押領せし國々をさけ渡すべきよし催促す、…
- p003…が許に使たつて、早く御下知に任せ、押領せし國々をさけ渡すべきよし催促す、義久いよ〱怒つて、其使を搦め取つて、禁獄し、舍弟中務大輔家久を、大將として、…
- p003…明れば十五年の春、都を立つて、先陣既に長門國赤間が關に着くと聞えしかば、義久が軍勢、豐後の國を去て、日向の國にて防き戰はんとす、又關白の御使として、…
- p003…はんとす、又關白の御使として、興山上人、一色の何某と共に府內の城に來て、義久に對面し、速かに戰を止めて、殿下に伺候すべき由を陳ぶ、義久更に從はず、程…
- p003…內の城に來て、義久に對面し、速かに戰を止めて、殿下に伺候すべき由を陳ぶ、義久更に從はず、程なく關白の御勢、鎭西の地に押渡つて、二十五万餘騎を二手に分…
- p003…に、鎭西の國人等、冑を脫ぎ、弓を伏せ、降人になつて參る者、引きも切らず、嶋津兄弟、戰ひ疲れたる少勢にて、多勢のかたきと、此處彼處に戰ひ、散〱に打なされて…
- p003…國に亂れ入て、先陣既に鹿兒嶋に押寄せたり、嶋津も、今は防ぎ戰ふ事叶はず、義久自ら剃髮染衣の姿となつて、小童一人召し具し、太平寺の御陣に參る、殿下やが…
- p003…やがて御對面ありて、御氣色殊に宜しく、大隅薩摩兩國安堵の事、仰せ下さる、義久が舍弟義弘、歲久家久を始として、宗徒の家人郞等、みな見參に入る別の仰あり…
- p003…平均に屬しければ、關白薩摩の國を立つて都に趣き給ひけり、同き六月十五日、義久鹿兒嶋を立つて、博多の御陣に參り、關白の御供して、大坂にぞ參りける、十六…
- p003…めければ、顯輝こらへかね、城を落ちて、薩摩の國出水といふ所に忍び居たり、義久入道龍伯、殿下の仰を蒙て、軍勢を差向く、顯輝が家子郞等、さん〱に戰て、寄手の兵多…
- p003…等、さん〱に戰て、寄手の兵多く討れしかど、終に顯輝をば討つてけり、其後、義久入道、三位法印になされ、義弘四位の侍從になさる、義弘、また入道して、惟新と號…
- p003…嶋津が、既に亡ぶべかりしに、この幸侃關白の御陣に參て、歎き申せしに因て、義久兄弟が罪ゆるされ、本領を安堵す、されば關白にも彼が忠を感じ給ひ、大隅の内…
- p003…田如水入道、三千人にて後陣を打つ、肥後薩摩の境なる津名木水俣に陣取つて、義久と戰はんとす、かゝる所に、關が原の軍、破れぬと聞て、嶋津か軍勢、佐敷の城…
- p003…ゝる所に、關が原の軍、破れぬと聞て、嶋津か軍勢、佐敷の城より引き返へす、龍伯敢て加藤黑田に向つて軍せず、福嶋左衞門大夫正則に就て訴へけるは、義久初よ…
- p003…す、龍伯敢て加藤黑田に向つて軍せず、福嶋左衞門大夫正則に就て訴へけるは、義久初より德川殿に、二心を存せず、舍弟兵庫入道が所行、甚以て奇怪の至なり、義…
- p003…すべき所なりと申す、さらばとて、まづ加藤黑田が軍勢をば、召返へさる、其後龍伯入道、大坂に馳せ上りて、罪なきよし申披かんとせし處に、忽に病に伏しぬとて、家…
- p003…、家人鎌田出雲を以て愁訴を陳ぶ、同き七年四月十一日、本領安堵の御敎書を、龍伯入道に賜ふ、入道大に悅ひ、病なほ平かならざれども、猶子忠恒打連れて、薩摩の國…
- p003…以て愁訴を陳ぶ、同き七年四月十一日、本領安堵の御敎書を、龍伯入道に賜ふ、入道大に悅ひ、病なほ平かならざれども、猶子忠恒打連れて、薩摩の國を出でんとす…
- p003…を注進す、七月七日大御所、御致書をなされて、彼國を家久に賜ひ、將軍家、又義久義弘家久に御致書を賜て、其功を賞せらる、明れば十五年八月八日、家久、中山…
- p003…に見參し、夫より關東に趣き、同月廿八日將軍家に參る同十六年十二月十九日、義久入道龍伯卒す、七十九歲、家忠日記追加に出つ、創業記考異には十六年正月二…
鍋島 第八上 · 1
- p004…べき事、此時に在りと、悅ぶこと限りなく、眞先かけて、薩摩の國に攻め入り、嶋津遂に戰ひ負け、降人になつて參りしかば、九州二嶋悉く平均に屬したり、政家直…
立花 第八下 · 1
- p004…に先陣うたせて、薩摩國に發向し、肥後と薩摩との間なる佐敷水股に陣を取る、島津義久入道龍伯、既に降を乞ひぬれば、戰を决するに及ばず、引き返す、黑田加藤、自らの勳賞…
伊東 第九下 · 4
- p010…し程に、天正五年十二月七日の夜、島津が軍勢、野尻の城に入り、明れば八日、修理大夫義久、野尻に陣を取る、伊東の兵たまりかねて、戶崎の城を落去りぬ、城內に殘り留…
- p010…道宗麟、數万騎を引率して、日向の國に向ひ、同十一月十二日、耳川の邊にて、島津兄弟と戰ひ、一戰に利を失ひ、散々になつて引返す、伊東も今は賴む方なくして、明…
- p012…御勢も、筑前筑後を打隨へ、肥後國を經て、是も薩摩の國に攻め入り給ふ程に、嶋津兄弟、終に降人になつて參る、關白伊東が軍功、拔群なりとて、頓て本領日向國飫肥…
- p014…せ下さる、又島津も、本領安堵御免ありし程に、穆佐倉岡高岡綾合等の地をも、龍伯入道が許に、返し與ふ、自ら戰て攻め取る所の地、皆悉く本主に返しけるこそ本意な…
薩摩守殿 第十一 · 1
- p004…ず、兵庫入道が負け軍して落足の時に戰ひしなり、橫田小栗が物語も、また後に龍伯入道が參らせし兵庫入道が聞書も、是れに同し、〇又按ずるに、初め井伊が守殿の御…
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