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薩摩守殿

第十一 · 段落 8 · 780525 40コマ Lから

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地名 4 3 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

三位中將源忠吉は尾張の中將と申す德川殿第四の御子なり、大相國家と御母を同じくせさせ給ひ、御童名は福松丸と申しまゐらす、初め東條の甚太郞家忠の世嗣とならせ給ひ、忠康と申しまゐらせ、其後下野守從五位下になされ、文祿元年二月武藏國忍の城を賜りて領せらる、十万石慶長五年の秋、德川殿に隨て奧の景勝中納言を追討のため、下野國に至り給ふ時、上方の軍勢また起りぬ、德川殿御代官として守殿海道の大將承らせ給ひ、井伊本多を軍奉行とし、御方の大名引具して攻上り、まづ尾張の淸洲の城に至り給ひ、福嶋池田等を先陣とし、宗徒の大名に井伊本多つけて、岐阜の城に差向けらる、味方すでに勝軍しつと聞えしかば、守殿も馳せ向ひ給ひ、中納言秀信が降を受け城をば味方に守らせらる、
德川殿登らせ給ひ、美濃國關が原にして東西の戰を决せらる、守殿御方の軍勢をひきゐて向ひ給ひ、井伊が手より軍旣に始ると見えしに、兵部少輔直政、守殿の御陣に參り、先陣の人々が軍するやう見せ參らすべきため、直政御迎に參りぬと申しければ、御勢をば元の御陣に止められ、步行武者三百ばかり倶せられて、直政を御供にて、福嶋が陣の脇より、つと駈けぬけて敵の陣に切て入る、時うつるまで戰はせ給ひ、さつと引て暫く御馬の足やすめらる、かゝる所に嶋津兵庫入道義弘負け軍して此所を落て行く、直政これを追かくる、守殿も續て馳せ給ふに、嶋津が郞等松井三郞兵衞尉と名のつて、守殿に馳せ向ひ、もつてひらきてうつ太刀を、弓手の袖に受け留めて、松井が馬手のわたがみより、頸の半きりこうで、引組んで兩馬が間に落ち重なり、取て押へて、ちつとも働かせず、嶋澤九兵衞つと參りければ、これ首取れとて、取らせらる、松井が太刀にて右の御手の指、疵つかせ給へば、阿知波嘉右衞門馳せ參て、御疵を吸ふ、御馬すでに放れぬれば、井伊が侍江坂が馬を參らす、
此時の御振舞ひ橫田甚右衞門小栗又市、まのあたり見て物語りせし所なり、いづれの記にも、初め井伊御供して福嶋が陣の脇より馳せ出で、嶋津が陣に切て入る、守殿松井を討たせ給ふ由を載す不審なり、井伊が手は浮田が先陣と戰ふ、嶋津が陣は浮田が陣を隔てゝ、あなたの方關藤川を後にして、辰已に向ひ陣して、細川黑田等の人々と戰ひ、其後本多中書が爲に破られたり、井伊守殿の御供して、嶋津が陣に馳せ入て戰ひしにはあらず、兵庫入道が負け軍して落足の時に戰ひしなり、橫田小栗が物語も、また後に龍伯入道が參らせし兵庫入道が聞書も、是れに同し、〇又按ずるに、初め井伊が守殿の御供せし時は、則ち我手の者の、浮田が勢と軍する中に馳せ入りて、軍の樣を御目にかけしなるべし、いかで今日の大將軍の、しかもわづかの御勢なるを、よしなく嶋津が多勢の中に御供し、御手をおろさせ給ふ樣にはすべき、必なきの理なり、さればこそ嶋津がおちあしの時も、井伊は此殿の御供せし故に、追ふべしともせざりしを、郞等にもと甲斐の武田が家人たりし者、頻りに追打すべしと勸めし故に、こらへずして追懸けしといふ、此時に至てこそ守殿も自らの御高名はありけれ故に本文には初の御軍の事をば略してしるしぬ、
此時直政御供して御前に參り、賤しきものゝ辭に、逸物の鷹の兒は逸物なりと申す者の候が、守殿のけふの御振舞ひ目を驚かして候ふと申しければ、德川殿それもよき鷹匠のとりかふによつて、逸物にもなるなりと、仰せられて御氣色よかりしと云ふ、按ずるに此時守殿廿一歲なり、
此年十月七日尾張の國を賜ひて淸洲の城に移り住せ給ひ、明れば六年三月廿八日從四位下の侍從、同き十年四月十六日三位の中將、同き十一年薩摩守になり給ひ、忠吉と御名を改めらる、同き十二年二月六日關東に參り給ふ、同十三日の頃より御違例の事ありて、御心地かるませ給ふとて、廿六日に將軍家へ參り給ふ、大御所ほどなく駿河へ歸らせ給ふべきにて、御事繁かりしかば參り給はず、此日より大久保加賀守忠常が家を御旅館となさる、廿八日大御所忠常が家へ成らせ給ひ、御對面の儀あり、廿九日駿河に趣かせ給ひぬ、御心地日に隨ひて重らせ給ひ、今は尾張國に歸らせ給ふべしとて、三月三日に江戶を出させ給ひ、同五日芝浦にてかくれさせ給ひぬ六日御家人石川主馬稻垣將監等、殉死し畢んぬ、これを當家になりて殉死せし初と云ふ此殿の北方は井伊侍從1が娘なりしかど御世嗣ましまさねば御跡たえぬ
  1. — 底本は「侍徒」とみられる(底本の誤植の可能性)。本文は文脈どおり「侍從」とする