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細川忠興
本文表記 忠興・細川越中守忠興・細川・與一郞・參議源忠興・忠興朝臣・宗立・三齋・參議忠興朝臣
紀伊 第一 · 1
- p001…なる軍したらんより、只今の一言こそ、高名なれと仰あれば、水野日向守勝成、細川越中守忠興を始として、御前伺候の大名小名、御内外樣の人々、是を聞て、虎の子は地に落…
酒井 第四上 · 2
前田 第七上 · 1
- p002…奉行等、此人の威を假りて、德川殿を失はんと謀る、利家德川殿と間快からず、細川越中守忠興、利家に親しければ、此卿が彼等に、たばかられて、家滅さん事を歎き、さま〲…
細川 第七下 · 58
- p001…參議源忠興は、越中守を兼ぬ陸奧守義家朝臣四代の孫、廣澤判官代義實が二男、細川…
- p003…薫が子、細川播磨守元常に養はれ、公方萬松院殿光源院殿兩代に仕へ奉る、其子忠興また幼き時、光源院殿の仰として、細川中務大輔輝經が家を繼ぎて、大外樣の衆…
- p004…殿の仰を蒙りて、輝經が養子となりて、其家を繼ぎ、其役を務むと云々、按るに忠興永祿六年に生れしにや、光源院殿の御事ありしは永祿八年の事なれば、忠興が輝…
- p004…るに忠興永祿六年に生れしにや、光源院殿の御事ありしは永祿八年の事なれば、忠興が輝經の嗣たるといふ事は、僅かに二三歲の時の事なるべし、〇又按るに中務大…
- p007…り藤孝信長に隨つて、勝龍寺の城に住し、一方の大將して、度々の武勇を顯す、忠興童名は與一郞とぞ申ける、十一歲にて父に從ひて、槇の嶋の合戰に高名し、河內…
- p007…に隨つて、勝龍寺の城に住し、一方の大將して、度々の武勇を顯す、忠興童名は與一郞とぞ申ける、十一歲にて父に從ひて、槇の嶋の合戰に高名し、河內の國片岡の城…
- p007…十一歲にて父に從ひて、槇の嶋の合戰に高名し、河內の國片岡の城を攻めし時、與一郞十五歲、舍弟頓五郞十四歲、玄蕃頭興元なり兄弟共に父に從て此日の先駈…
- p007…正六年彼の父子三人が、年來の功を賞して、丹後國を藤孝にぞ賜りける、此後は忠興常に織田殿父子の軍に從つて、此處彼處に戰ふ、明れば十年の夏、織田殿明智光…
- p007…明れば十年の夏、織田殿明智光秀が爲めに討れ給ふ、初より藤孝は丹後にあり、忠興この時山陽に向はんとて、本國にぞ歸りたる、明智は忠興が舅なりければ、やが…
- p007…り藤孝は丹後にあり、忠興この時山陽に向はんとて、本國にぞ歸りたる、明智は忠興が舅なりければ、やがて丹後に使たてゝ、光秀年頃の本意とげて、織田殿父子失…
- p007…てゝ、光秀年頃の本意とげて、織田殿父子失ひぬ、折ふし攝津國闕國に侍れば、忠興に參らする所なり、急ぎ馳せ來て、力あはせ給ふべしといひしかば、忠興父子大…
- p007…れば、忠興に參らする所なり、急ぎ馳せ來て、力あはせ給ふべしといひしかば、忠興父子大に怒つて、返答にも及ばず、信長の御爲に髪おし切り二心なきよしを心の…
- p007…、返答にも及ばず、信長の御爲に髪おし切り二心なきよしを心の中に誓ひ、また忠興おのが妻に子共つけて、山深き所に押込め、急ぎ秀吉の許に使たてゝ、共に心を…
- p007…を弔ひ奉る、これより入道して玄旨と稱し、幽齋とは號しけり、志津岳の軍に、忠興秀吉に方人し小牧の陣に、北畠の勢と戰ひ、紀伊の根來を攻められしには、藤孝…
- p007…秀吉に方人し小牧の陣に、北畠の勢と戰ひ、紀伊の根來を攻められしには、藤孝忠興父子向へり、秀吉關白に任ぜられし時、忠興侍從從五位下し越中守を兼ぬ、筑紫…
- p007…紀伊の根來を攻められしには、藤孝忠興父子向へり、秀吉關白に任ぜられし時、忠興侍從從五位下し越中守を兼ぬ、筑紫關東の軍に從ひ、朝鮮に押渡て、所々の戰に…
- p008…初め關白殿、奧州御下向ありし時、陸奧會津の地、賜ふべしと仰せ下さる、忠興承り、御政務のために、此所を守らせられんには、辭ずる事あるべからず、若し…
- p009…ひ、かの家の奉行等、加賀大納言利家を勸めて、德川殿失ひまゐらせんと謀る、忠興が嫡男與一郞忠隆は、大納言の娘を妻としければ、緣故に就て親かりし程に、忠…
- p009…興が嫡男與一郞忠隆は、大納言の娘を妻としければ、緣故に就て親かりし程に、忠興大納言を固く諫てければ、利家も奉行等まづ內府失うて、其後我をも傾けんとす…
- p009…する謀なりけりと悟つて、德川殿の方人せし上は、事終に平ぎぬ、此賞として、忠興豐後國杵築の城を加へ賜ふ五万石これしかしながら、德川殿の執り申され…
- p010…ある人曰く、忠興がかく大納言を謀りし事、偏に利家が家のためのみにあらず、凡は德川殿の御爲…
- p010…は德川殿の御爲とぞ聞えし、其故は、去る文祿年中、關白秀次失はれ給ひし時、忠興も同じく罪かうふるべき事出來たり、譬へば、秀次當時の大名の、財盡き用たら…
- p010…金貸し給ふ事あり、且つ人の心を取らんがため、且は財を利せんが爲なりけり、忠興も黃金貳百枚を借る、關白の御事ありて後、彼家の出納人、催促して、急ぎかの…
- p010…、かの劵契を太閤家の奉行に參らせて、解由を給ひ申すべきにて候といひしに、忠興が力いかにも叶ふ可らず、此事太閤に洩れ聞えば、かの緣坐になされて、罪かう…
- p010…何で是程の事にて、人の家の滅びんとするを、助け給はぬ事や候べき、と申す、忠興聞て、我日頃內府に親しうもなし、かゝる事賴むべき便りなし、されど汝が正信…
- p010…任せ難し、されば此黃金を貯ふる事、かゝる時を待つ事、年既に久しかりき、今忠興朝臣が爲に我が年頃の本意を達しけるこそ、うれしけれとて、自ら是を松井にたぶ、…
- p010…思ふ事、ゆめ〱然る可らずと仰せらる、松井殊更に悅ひ、急き罷り歸て、此よし忠興に申べきにて候とて、御前を立て出にけり、遙に程經て後、忠興其事となく、德…
- p010…り歸て、此よし忠興に申べきにて候とて、御前を立て出にけり、遙に程經て後、忠興其事となく、德川殿に參り、御對面のついでに、正信を呼び出し、德川殿に向ひ…
- p010…り、御對面のついでに、正信を呼び出し、德川殿に向ひ申されけるは、去りし比忠興が家人に仰せ下されし事、愼み承りぬ、何事のおはします可きにはあらねども、…
- p010…事のおはします可きにはあらねども、若し御家に事あらん時は、必ず君が爲に、忠興が國を捨て、此度の御情に答へ參らすべきにて候、さりながら、忠興常に御門下…
- p010…君が爲に、忠興が國を捨て、此度の御情に答へ參らすべきにて候、さりながら、忠興常に御門下に伺候仕りては、本意とげん事叶ふ可らず、是より後も、元の如く、…
- p010…と〱しくこそ候べけれとて、御暇申て出てぬ、されば日比は德川殿に親しからぬ忠興が、諫めし故に、利家も只管に、我家の事を思ふなりと心得て、忠興が申す旨に…
- p010…親しからぬ忠興が、諫めし故に、利家も只管に、我家の事を思ふなりと心得て、忠興が申す旨に從ひしとなり、…
- p011…慶長五年の秋、奧の上杉、謀反の聞あつて、德川殿御發向の事あり、忠興御跡を慕ひて馳せ下る、此隙を窺ひて、大坂の奉行等、兵起して、德川殿失ひま…
- p011…等が妻子、一々に取て質とせば、彼等みな御方に參らんずらんとて、まづ最初に忠興が妻子、城中に迎へんとす、かの妻、女なれど、さる者の娘なり、又日比我が夫…
- p011…さな云はせそ、人々の見懲しのため、搦め取つて參らせよとて、軍兵を差向く、忠興が妻、家人等に防き矢射させ、自ら十歲になる男子、八歲になりし女子を、刺殺…
- p011…は細川が城、攻め落せとて、丹波但馬の軍勢差向く、然るべき兵をば引すぐり、忠興具して奧へ下る、おとなしき者共に、兵をば少し附て、豐後の國へ下して、杵築…
- p012…城を立つて、高野山にぞ趣きける、さる程に、上方にも軍起れりと聞えしかば、忠興等先陣承り、又引返して、美濃の國に馳せ上り、手合の軍に打勝ち、德川殿程な…
- p012…り、手合の軍に打勝ち、德川殿程なく上り給ひ、關が原にして東西の戰を决す、忠興また先軍して、敵の多勢を打破る、杵築の城を守りたる家人等も、大友が勢と戰…
- p012…し人も取り〱なりけれども、父子兄弟夫婦主從、皆悉く功をも節をも盡せし事、忠興に若くはなかりけり、されば其勳賞に此年、豐前の國一圓に下し賜ひぬ、按る…
- p012…くはなかりけり、されば其勳賞に此年、豐前の國一圓に下し賜ひぬ、按るに、忠興初め丹後の國十一万石を領し、其後杵築の地五万石を加へられ、此度豐前の國…
- p013…忠興は父の入道が如何なる勅命なればとて、城を去りたる事の口惜さよ、又嫡子與一…
- p013…いかで忍び出づべきと申し訖んぬ、さらば其誤りなきに似て候かと云ひければ、忠興大に怒つて、父の命に背くの條、甚だ以て奇怪なり、向後のこと、長く對面に及…
- p013…て奇怪なり、向後のこと、長く對面に及ぶべからずとて、忽に勘當す、これより忠興は、父にも子にも、よからぬ中とぞなりにける、其後與一郞は妻に向ひ、我れ思…
- p013…て天下悉く德川殿に歸して後、慶長八年の春征夷將軍の宣旨、蒙らせ給ふ、此時忠興、參議に任し、從四位下に叙す、公卿補任を按るに、忠興が參議に任せし事、…
- p013…、蒙らせ給ふ、此時忠興、參議に任し、從四位下に叙す、公卿補任を按るに、忠興が參議に任せし事、慶長九年なり、又武家補任には、從三位と記す不審され…
- p013…嶋津陸奧守家久、海路穩かならずとて參らさりしかば、嶋津が登らざらん內は、忠興等も參るべからずとの仰ありければ、參らず、子息內記忠利は、參りたり、再び…
- p013…らずとの仰ありければ、參らず、子息內記忠利は、參りたり、再び兵起りし時、忠興兵少々引具して馳せ上る、將軍家の御手に從つて、首二十を切て獻る、…
- p014…忠興が二男の長岡與五郞某は、大坂に仕へて、一方の大將を承る五月七日天王寺の戰…
- p014…みな落失せて、寄手また城中に攻め入れば、力なく都のほとりに落行きしを、父忠興尋ね出し、首斬て參らせしなり、…
- p015…元和五年十二月忠興致仕入道し、宗立と號し、三齋と稱しけり、正保二年十二月二日、八十三歲にて…
- p015…元和五年十二月忠興致仕入道し、宗立と號し、三齋と稱しけり、正保二年十二月二日、八十三歲にて卒す、左少將兼越…
- p015…元和五年十二月忠興致仕入道し、宗立と號し、三齋と稱しけり、正保二年十二月二日、八十三歲にて卒す、左少將兼越中守忠利、忠…
- p015…齋と稱しけり、正保二年十二月二日、八十三歲にて卒す、左少將兼越中守忠利、忠興が三男、初め內記と申けり、關が原の合戰に大御所の御側に侍ひ、慶長十年四月…
- p016…中務少輔源立孝、參議忠興朝臣が二男也、肥後國宇土の城を分賜ふ、二万石正保二年閏五月十一日卒す、…
- p017…玄蕃頭源興元、藤孝入道が二男なり、童名は頓五郞、生年十四歲にして、兄忠興と共に、河內の國片岡の城の先懸し、能き首取て城を落せしより、一生の高名、…
- p017…數多し、藤孝丹後に移りし時、父に属して峯山の城にあり、小田原滅ひし時、兄忠興と共に韮山の城攻落し、又文祿の初め朝鮮に向て、晋州の城を攻めて、名を外國…
- p017…しぬ、慶長五年關が原の合戰に、東國の御方して、丹波國福知山の城を攻落し、忠興豐前の國に移りし時、興元も其國に移り、慶長十四年に常陸の國茂木の地を賜ひ…
谷 第十上 · 2
木下 第十上 · 1
- p004…西の軍起りし時、延俊父が城を守て東國に志を通し、關が原の戰終て後、同十月細川越中守忠興と共に、丹波國に發向し、舅の藤孝入道が城を攻めし大將小野木縫殿助公鄕が福…
薩摩守殿 第十一 · 1
- p004…津が陣は浮田が陣を隔てゝ、あなたの方關藤川を後にして、辰已に向ひ陣して、細川黑田等の人々と戰ひ、其後本多中書が爲に破られたり、井伊守殿の御供して、嶋…
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