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木下〔本姓杉原〕

第十上 · 段落 4 · 780525 15コマ Rから

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この家によく出る人物・地名

人物 13 12 9 8 6 6 5 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

地名 4 4 3 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

肥後守豐臣家定は、尾張國の住人杉原平入道道松助左衞門が男、豐臣太閤家北政所の御兄なり、年若き時より豐臣家へ仕へ、家號を賜て木下とは名乘りけり、大坂の城の留守として、播磨國姫路の城を領す、二万五千石德川殿天下知し召されし初め、備中の國にて所領賜て移る、德川殿の執し申させ給ふに依て、入道の後、二位の法印に任す、此人多くの男子あり、嫡男少將兼若狭守勝俊、二男宮内少輔利房、三男右衞門大夫延俊、四男信濃守俊定は早世す、五男金吾中納言秀秋、六男出雲守某とぞ申しける、嫡男勝俊、太閤の御時若狹國を賜ふ、九万石慶長五年の秋、大坂の奉行等軍起して、伏見の城に止りし德川殿の御家人等、攻むべしとて旣に討手を差向く、此時勝俊秀賴の仰として、兼て伏見の城の留守として本城に在り、勝俊心に思ひけるは、秀賴誠は政所の御子にあらずと云へども、我既に叔父の親みなり、如何なる事なりとも內府の方人すべき身にあらず然りとて又ひがことせんずる奉行等に與して、内府と仇結ばん事も謂れなし、なまじひに我斯くて在らんには、內府の家人等、軍せん障りとこそなるべけれ、所詮爰を去て政所の御所を守護し參らすべしとて、伏見の城を出て都に登る、天下忽に德川殿に歸せし後、自ら所領の地失て、東山の邊に幽なる棲居し、天哉翁と號しつゝ一生をぞ終られける、此人和歌の道にすきて、詠める歌秀逸多く、其集今も世に在て、皆人此を傳へけり、二男宮内少輔これも故太閤の御時、若狹國高濱の城を賜る、三万石又二万石とも云關が原の合戰の時、上方の方人して、所領の地沒收せらる、延俊秀秋は東國の御方として、二人ながら德川殿の御恩に預る、肥後の入道が卒せし後、德川殿彼が所領の地、勝俊利房兄弟に分ち賜ふ、然るに政所勝俊を、あながちに憐み思ひ給ひ、父の所領悉く勝俊に知行させんとて、利房には與へられず、大御所此由を聞召し御氣色宜からず、慶長十四年九月廿七日入道が遺領をば終に沒收せられてけり、
勝俊は松平七郞殿の御舅なれば、關東にも疎からぬ御事に思召されしかど、此時又所領を失はれしとは云ふなり、
宮內少輔豐臣利房は、肥後守家定の二男、豐臣太閤の御時、若狭國高濱の城を領す、慶長五年の秋、大坂の催促に隨ひて北陸道に發向す、天下悉く德川殿に歸して後、政所の御由緣に依て、死罪をば宥められ、所領をば沒收せらる、父の入道卒せし後、其遺領を分ち、舍兄勝俊幷に利房に下し賜ふ、政所偏に勝俊にのみ與へんとて、利房には分たれず、德川殿怒らせ給ひて終に彼の遺領をも收公せられぬ、大坂の軍起りし時、利房大御所の御陣に隨ふ、明れば元和元年備中國賀陽の郡を下し賜ふ、二万五千石足守と云ふ所に住す其子淡路守利當、生年十五歲より關東に伺候し、將軍家に仕へ奉り、父卒して家を繼く、利房卒せし年月未た聞かずこれは槍つかふこと神に通じ、古今に双なき名譽ありし人なりけり、寛文元年十二月廿八日五十九歲にて卒す、其子淡路守利貞、父に繼く、其子肥後守利康、
右衞門大夫豐臣延俊は、肥後守家定が三男、豐臣太閤の御時より、父家定留守職を承て、常に大坂の城に在りしかば、延俊父の代官として播磨國姫路の城に在り、慶長五年の秋東西の軍起りし時、延俊父が城を守て東國に志を通し、關が原の戰終て後、同十月細川越中守忠興と共に、丹波國に發向し、舅の藤孝入道が城を攻めし大將小野木縫殿助公鄕が福智山の城を攻落す、明れば六年、所領加へられ豐後國速見の郡を賜て、日出の城に移り、五千石を加へられて二万五千石大坂前後の戰に隨ふ、其子伊賀守俊治家を繼き、延俊卒せし年月を知らず万治四年四月三日四十八歲にして卒す、其子右衞門大夫俊長父に繼く、