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相良

第十上 · 段落 6 · 780525 17コマ Rから

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この家によく出る人物・地名

人物 7 5 5 4 4 3 3 3 3 3 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1

地名 5 3 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

左兵衞佐藤原長每は、左大臣武智麿公の四男乙麿七世の孫、遠江權守爲憲が、爲憲初め木工助たるに依て、子孫工藤と名のる曾孫駿河守時理が二男遠江守維兼が末孫也、維兼は遠藤相良等の祖也按ずるに維兼が兄駿河守時信と云ふ、此人伊豆國伊東の庄に住し、伊東と名のる伊東工藤等の祖なり、然るに相良伊東兩家系圖を幷せ見るに、少く異なり、相良の系圖を見るに時信維兼兄弟、乙麿十一代の孫なり、伊東の系圖には九代の孫と見えたり、新編纂圖も伊東の系圖に同じ、我見し所の相良の系圖は寫し誤れるにや不審
九州記に周賴四世の孫庄司四郞賴景、建久九年鎭西に下向す、其子三人嫡男三郞長賴は球摩の城に住み、二男四郞家賴、山鹿の郡に在て、內田の四郞と云ひ、三男五郞賴平、玉名の郡に在て、山北の左衞門と云ふ、系圖を見るに然はあらず周賴が四代の孫は、相良大膳大夫賴繁なり、賴景は賴繁が子にて、相良三郞長賴が兄なり、賴景建久四年に球摩郡多良木に下るよし見ゆ、內田四郞家賴は、長賴が子なり、或は弟とも云ふと記せり、山北五郞左衞門賴平は、則ち家賴が子なり、九州記の傳ふる所異なれば爰に註す、
賴俊が曾孫兵庫允貞賴、南帝の御方にて、一族等勳功を顯す、延文二年日向國庄內の地を、貞賴に下し賜はる、其子近江守前賴、元中二年南方年號肥前國の守護職を賜る、是れ日向國庄內の地に加へらるゝ所とぞ聞えし、其子兵庫允實長が時に當て、武家一統の世となつてければ、此後子孫足利殿の御家人と成て本領を安堵す、實長四代の孫左衞門尉爲續、八代蘆北の政所を賜て、球摩郡を合て三郡を領す、爲續が孫宮内義滋、此頃は大內が家に隨ひし樣に、世には傳ふるなり其嗣右兵衞佐晴廣、實は義滋が猶子と云ふ其子修理大夫義陽に至て、武威隣國に振ひ、位從四位下に歷上る、當時鎭西の大名に舊例なしとぞ承る、天正九年十二月二日、肥後國益城の郡三舟の城を攻むとて大友が被官甲斐民部大輔入道宗運が爲に討たれぬ、其子四郞太郞忠房、父に繼ぎ天正十三年二月十五日に世を早うす、其子左兵衞佐長每、十一歲にて父に繼ぎ、同き十五年の夏、豐臣關白鎭西を平け給ひし時、本領を安堵し、文祿元年生年十八歲にて朝鮮の先陣、承つて押渡り、此處彼處に戰ふこと凡七年、慶長五年の秋、大坂の催促に隨ひ、軍勢を率し美濃國に至り大柿の城を守る、長每初め大坂に在りし時、德川殿東國の御陣に使者を參らせ、恒松兵助と云ふ郞等御發向を待て裏切すべき由を申す、東西の軍既に關が原にして戰を合せし時、井伊侍從直政が撿使乞うて、秋月高橋等と相語らひ、敵の大將垣見熊谷木村等が首を切て參らす、首五つ參らせし內、長每自ら討つ所一つ、既に御感に預りし上は、本領安堵の事相違あらず、同き七年長每人質として其母を關東に參らす、是れ鎭西の大名、人質參らせし初なり、大坂の軍に大御所の御陣に隨ひ、寛永十三年六月十三日六十九歲にて卒す、其子壹岐守賴寛家を繼く、球磨郡二万二千石餘寛文四年閏五月七日致仕す、其子遠江守長武、萬治三年十二月廿八日叙爵し、其後父が讓を受く、系圖を見るに賴寛が子一人を載せ、主殿助賴在1と記す、後に長武と改めしや、又長武が兄か未た聞かず其子壹岐守賴泰、延寶四年十二月廿六日叙爵す
  1. — 底本のまま。長武は相良頼寛の長男相良頼喬の初名(同一人物)。割注の「主殿助頼在」との関係は未確認