藩翰譜本文データベース

家一覧 › 第七下 › f090

細川

第七下 · 段落 17 · 780523 41コマ Lから

人物地名官職家日付索引一覧
この家によく出る人物・地名

人物 58 35 26 19 8 7 7 7 7 6 6 6 5 5 4 3 3 3 2 2 2 2 2 2

地名 8 6 6 4 4 3 3 3 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1

系圖に曰く、永祿年中光源院殿の仰を蒙りて、輝經が養子となりて、其家を繼ぎ、其役を務むと云々、按るに忠興永祿六年に生れしにや、光源院殿の御事ありしは永祿八年の事なれば、忠興が輝經の嗣たるといふ事は、僅かに二三歲の時の事なるべし、〇又按るに中務大輔輝經は、細川二郞義季が孫、八郞賴貞九代の孫にて、光源院殿御供の衆なりしなり、
永祿八年正月十九日、光源院殿三好松永等がために弑せられ給ひ、御弟一乘院門跡覺慶をば取籠め奉り、鹿苑寺の周暠は討れ給ひぬ、兵部大輔藤孝が謀にて、一乘院殿、春日山を踰て、近江國に落ち給ふ、藤孝御供に侍ひて、やがて還俗させ參らせ、義昭と申し奉る、當國佐々木義賢入道承禎を賴み給ひしかど、入道心變りしてければ、若狹の國へ御供申し、武田大膳大夫義統を賴ませ給へども、國小しきに勢少なければ、それより越前の國へ御供申し、朝倉左衞門督義景を御賴ある、これも、はか行くべしとも見えざれば、藤孝上野中務大輔清信と共に、御使となつて、美濃の國に趣き、織田彈正忠信長を賴ませ給ふに、信長畏りて、御使と共に御迎をまゐらせければ、藤孝御供申して、美濃國へ渡らせ給ふ、信長程なく御敵を平けまゐらせ、義昭再び御入洛ありて、征夷將軍の宣旨かうふらせ給ひけり
されど此將軍は、御器量勝れさせ給はず、侫人の申す所を御用ゐあつて、信長が功を忘れ給ひ、彼の朝臣を失ふべきよしを思召し立つ、藤孝が諫め參らする事共、更に用ゐ給はず、信長、われを失ふべしと軍起させ給ふと聞て、軍勢餘多引具して上洛す、藤孝も信長の陣に參るとて、大津にて行合ひ、打連れて都に入る、將軍御軍に打負けさせ給ひ御中直りの事仰せられしかば、信長も軍兵を引て歸る、程なく又軍起させ給ひしかば、信長大に怒つて、宇治槇嶋淀等の城々を攻め落す、將軍家御命の事をば如何にも助けまゐらすべき由を、いろ〱に歎き仰られしに依て、信長も失ひ申ますでの事もなく、河內の國若江の城に送り入れ奉り、御方人せし者共、悉く退治して、本國に歸らる、かく二度まで信長失ふべしと、御結搆ありしかど、何の御恙なく、都を御開きありし事、內々は藤孝が信長に從ひて、とかく拵へし故なりとぞ聞えける、是れより藤孝信長に隨つて、勝龍寺の城に住し、一方の大將して、度々の武勇を顯す、忠興童名は與一郞とぞ申ける、十一歲にて父に從ひて、槇の嶋の合戰に高名し、河內の國片岡1の城を攻めし時、與一郞十五歲、舍弟頓五郞十四歲、玄蕃頭興元なり兄弟共に父に從て此日の先駈して、二人ながら首取て、終に城を攻落す、織田殿大に驚き感じ給ひ、彼の兄弟に御致書賜て賞せらる、天正六年彼の父子三人が、年來の功を賞して、丹後國を藤孝にぞ賜りける、此後は忠興常に織田殿父子の軍に從つて、此處彼處に戰ふ、明れば十年の夏、織田殿明智光秀が爲めに討れ給ふ、初より藤孝は丹後にあり、忠興この時山陽に向はんとて、本國にぞ歸りたる、明智は忠興が舅なりければ、やがて丹後に使たてゝ、光秀年頃の本意とげて、織田殿父子失ひぬ、折ふし攝津國闕國に侍れば、忠興に參らする所なり、急ぎ馳せ來て、力あはせ給ふべしといひしかば、忠興父子大に怒つて、返答にも及ばず、信長の御爲に髪おし切り二心なきよしを心の中に誓ひ、また忠興おのが妻に子共つけて、山深き所に押込め、急ぎ秀吉の許に使たてゝ、共に心を合せて、光秀を誅すべきよし牒狀して、軍勢を催す、程なく光秀誅せられぬ、藤孝都に上りて、織田殿父子の御跡を弔ひ奉る、これより入道して玄旨と稱し、幽齋とは號しけり、志津岳の軍に、忠興秀吉に方人し小牧の陣に、北畠の勢と戰ひ、紀伊の根來を攻められしには、藤孝忠興父子向へり、秀吉關白に任ぜられし時、忠興侍從從五位下し越中守を兼ぬ、筑紫關東の軍に從ひ、朝鮮に押渡て、所々の戰に名を顯はす
  1. — 底本のまま。天正5年忠興兄弟が攻略した片岡城(松永側)は通説では大和国葛下郡
初め關白殿、奧州御下向ありし時、陸奧會津の地、賜ふべしと仰せ下さる、忠興承り、御政務のために、此所を守らせられんには、辭ずる事あるべからず、若し年來の功を賞せられんがために賜らば、縱令小國にても、西國をこそ賜ふべけれと、申ければ、さて止みぬ、
太閣薨じ給ひ、かの家の奉行等、加賀大納言利家を勸めて、德川殿失ひまゐらせんと謀る、忠興が嫡男與一郞忠隆は、大納言の娘を妻としければ、緣故に就て親かりし程に、忠興大納言を固く諫てければ、利家も奉行等まづ內府失うて、其後我をも傾けんとする謀なりけりと悟つて、德川殿の方人せし上は、事終に平ぎぬ、此賞として、忠興豐後國杵築の城を加へ賜ふ五万石これしかしながら、德川殿の執り申されし故なりけり、
ある人曰く、忠興がかく大納言を謀りし事、偏に利家が家のためのみにあらず、凡は德川殿の御爲とぞ聞えし、其故は、去る文祿年中、關白秀次失はれ給ひし時、忠興も同じく罪かうふるべき事出來たり、譬へば、秀次當時の大名の、財盡き用たらざる輩に、窃に黃金貸し給ふ事あり、且つ人の心を取らんがため、且は財を利せんが爲なりけり、忠興も黃金貳百枚を借る、關白の御事ありて後、彼家の出納人、催促して、急ぎかの黃金償ひ給ひなば劵契を破りて棄て侍るべし、さなのらんには、かの劵契を太閤家の奉行に參らせて、解由を給ひ申すべきにて候といひしに、忠興が力いかにも叶ふ可らず、此事太閤に洩れ聞えば、かの緣坐になされて、罪かうむらん事、立所にあり、とやせまし、かくやあらましと、案じ煩ふに、家のおとななりける松井佐渡申すは、某年頃德川殿の御内なる、本多佐渡守正信に親しく相語うて候、彼に就て德川殿を賴み參らせばやと存ず、德川殿はさる賴しき人にて、しかも當時の大名なり、如何で是程の事にて、人の家の滅びんとするを、助け給はぬ事や候べき、と申す、忠興聞て、我日頃內府に親しうもなし、かゝる事賴むべき便りなし、されど汝が正信と親しからん上は、試みに汝が心のやうにて計ふべしといふ、松井本多に就て、かくと申す、德川殿此よし聞召され、御前の人々を退けて、松井を近く召し、事の由、重ねて問はせ給ひ、正信して、御鎧の唐櫃を二つ開かせらるゝに、櫃一つに黃金百枚宛を入られたり、其黃金の箱に題せし年月を見よと仰せらる、正信是を考ふるに、二十一年以前、いまだ三河の國に御座ありし時なり、德川殿松井に向はせ給ひ、凡そ金銀は必ず出納の司ある事にて、もし人知れず用ゐんとするも、我心に任せ難し、されば此黃金を貯ふる事、かゝる時を待つ事、年既に久しかりき、今忠興朝臣が爲に我が年頃の本意を達しけるこそ、うれしけれとて、自ら是を松井にたぶ、松井大に悅び、かゝるあり難き事こそ候はね、既に絕えなんとせし家、かく再び繼ぎて候ふ事、ひとへに君の御情けに因る所なり、細川が家の候はん限りは、いかで御恩の程、忘れ侍るべき、速かに本國に申し下し、黃金召し登せて、悉く償ひ參らすべきにて候と申ければ、德川殿いや〱、此事世に漏れなんには、深き兩家の障にこそあんなれ、それ故にこそ、かく人知れず用ゐべき料の者取出て、參らすれ、これ償はんと思ふ事、ゆめ〱然る可らずと仰せらる、松井殊更に悅ひ、急き罷り歸て、此よし忠興に申べきにて候とて、御前を立て出にけり、遙に程經て後、忠興其事となく、德川殿に參り、御對面のついでに、正信を呼び出し、德川殿に向ひ申されけるは、去りし比忠興が家人に仰せ下されし事、愼み承りぬ、何事のおはします可きにはあらねども、若し御家に事あらん時は、必ず君が爲に、忠興が國を捨て、此度の御情に答へ參らすべきにて候、さりながら、忠興常に御門下に伺候仕りては、本意とげん事叶ふ可らず、是より後も、元の如く、うと〱しくこそ候べけれとて、御暇申て出てぬ、されば日比は德川殿に親しからぬ忠興が、諫めし故に、利家も只管に、我家の事を思ふなりと心得て、忠興が申す旨に從ひしとなり、
慶長五年の秋、奧の上杉、謀反の聞あつて、德川殿御發向の事あり、忠興御跡を慕ひて馳せ下る、此隙を窺ひて、大坂の奉行等、兵起して、德川殿失ひまゐらせんと謀る、內府に從て奧に下りし大名等が妻子、一々に取て質とせば、彼等みな御方に參らんずらんとて、まづ最初に忠興が妻子、城中に迎へんとす、かの妻、女なれど、さる者の娘なり、又日比我が夫の心の奧は知りぬ使者度々に及べども、更に其催促に從はず、さらば、さな云はせそ、人々の見懲しのため、搦め取つて參らせよとて、軍兵を差向く、忠興が妻、家人等に防き矢射させ、自ら十歲になる男子、八歲になりし女子を、刺殺し、家に火かけさせて、自害す、奉行等案に相違し、慾なること仕出し、諸大名を內府の方人になし果せて詮なしとて、是れより後、人質とるべき沙汰に及ばず、此上は細川が城、攻め落せとて、丹波但馬の軍勢差向く、然るべき兵をば引すぐり、忠興具して奧へ下る、おとなしき者共に、兵をば少し附て、豐後の國へ下して、杵築の城を守らす、丹後には藤孝入道に年老たると、幼けなき者共とばかり殘り居て、はか〱しく軍すべき者多からず、されども、入道さる古兵にて、少しも騷く氣色もなく、宮津の城を棄てゝ、田邊の城に立籠り、敵おそしと待居たり、抑も此入道と申すは、弓矢打物取て、堪能なるのみにあらず、さらぬ小藝にだに達せずといふ事なく、天下双なき多才多能の人なりけり、中にも敷嶋の道に深くすぎて、古今和歌集の秘訣、悉く此人に傳れり、されば此たひ我身うち死したらん後、此道長く絕えなん事を悲しみ、城に籠れる初め、相傳の書ども取集めて、大内へ獻るとて、古も今もかはらぬ、世の中に、心のたねを、のこすことのは、
といふ一首の歌そへてぞ參らせける、かくて丹波但馬の軍勢、雲霞の如く押寄せ、十重廿重に取卷きて、火水になれと、攻めけれども、入道ちつともひるまず、防ぎ戰ふ、かくては此城一時に攻め落さるべうも見えず、烏丸の右大辨、勅使として大坂に行き向ひ、輝元三成等に、勅諚を傳へらる、夫れ和歌は我邦の風として、天地開け初めしより、此かた百王の今に至るまで、其道永く傳はれり、然るにいま、古の事をも、歌の心をも知れる人、忽に失せなんこと、尤も朝家の歎きなり、如何にもして、彼の二位法印が恙なからん樣を計るべしと宣られたり、輝元を初として、奉行等謹て承り、急ぎ早馬を立てゝ寄手の軍兵を止む、元より入道は今を最期と思ひ切て、戰ひし程に、寄手たやすう引て歸らん事、叶ふべからず、此よし又都に聞えしかば、三條西大納言、綸命を含みて、丹後の國に下向あつて、速に勅に應じて、其城を去るべしとありければ、入道畏りて、普天の下、率土の濱、王土王臣にあらずといふ事なしと承る、ましてや此微賤の身、かく眼のあたり寵渥の辱きを蒙るをや、さりながら、入道が年若き時ならんには、弓矢とる身の習なり、敢て死を白刄の際に决して、深く恩を黃泉の下に感ずる事もありなまし、いまは齡既に傾きぬ、たとへ此戰に死する事なからんにも、餘命また幾ばくぞや、されば惜かるまじき身なるが故に、私の名譽を貪つて、如何で王命には背きまゐらすべきと答へ奉りて、頓て城を立つて、高野山にぞ趣きける、さる程に、上方にも軍起れりと聞えしかば、忠興等先陣承り、又引返して、美濃の國に馳せ上り、手合の軍に打勝ち、德川殿程なく上り給ひ、關が原にして東西の戰を决す、忠興また先軍して、敵の多勢を打破る、杵築の城を守りたる家人等も、大友が勢と戰て、勝ち軍す、此時德川殿の御爲に、家をも身をも顧みず、御方せし人も取り〱なりけれども、父子兄弟夫婦主從、皆悉く功をも節をも盡せし事、忠興に若くはなかりけり、されば其勳賞に此年、豐前の國一圓に下し賜ひぬ、按るに、忠興初め丹後の國十一万石を領し、其後杵築の地五万石を加へられ、此度豐前の國にうつりて、三十七万石を領せり、
忠興は父の入道が如何なる勅命なればとて、城を去りたる事の口惜さよ、又嫡子與一郞が妻の、如何に女の身なればとて、正しく姑の自害せんを見棄てゝ落ちたりし事の不覺さよと怒つて、與一郞に命じ、その妻をきつと追出すべしといひけり、與一郞仰せ謹みて承りぬ、某もかねて其よしを存じて、きつと推問に及びし所に、妻にて候もの、并に附き從ひし輩が、陳し候は、事急なるに臨みて、母上、妻にて候者に、かゝる時大勢打連れ落ちんは、如何にも叶ふべからず、まづ疾く忍び出で給へ、とかくして追付き侍らんと仰ありしに依て、家を出でたるにて候、かく御自害あるべしと知りて候はんには、いかで忍び出づべきと申し訖んぬ、さらば其誤りなきに似て候かと云ひければ、忠興大に怒つて、父の命に背くの條、甚だ以て奇怪なり、向後のこと、長く對面に及ぶべからずとて、忽に勘當す、これより忠興は、父にも子にも、よからぬ中とぞなりにける、其後與一郞は妻に向ひ、我れ思はずも御身のため、かゝる不孝の身となりぬ、かくても連れ添ひ參らせて、あらんには、世の人忠隆が、妻に惑ひてこそ、父に思ひかへたれと思はんも耻し、忠隆旣に貧賤の身となりたり、妻の兄加賀中納言が大名なるを、便にこそなど云はれんも、口をしとて、妻を出し、やがて入道し休無とぞ號しける、かくて天下悉く德川殿に歸して後、慶長八年の春征夷將軍の宣旨、蒙らせ給ふ、此時忠興、參議に任し、從四位下に叙す、公卿補任を按るに、忠興が參議に任せし事、慶長九年なり、又武家補任には、從三位と記す不審さればこの時草創の業は、旣に成りぬれども、柳營の儀は、いまだ備らず、こゝに彼の藤孝入道は、世々の公方に仕て、しかも當時の有職なり、丹後の國を出でしより、都にのぼり、仁和寺の邊に、幽かなる栖居して、籠り居たり、德川殿、此人に就きてこそ、前代の事をも問ひ、當世の禮をも講ずべけれとて、永井右近大夫直勝を御使として、武家の規式、悉く受け傳へさせ給ひたり、されば當世の禮節は、內々此入道の定め申されし事共多かりしとぞうけ給はる、藤孝入道玄旨、慶長十五年八月廿日に卒すといふ、但しその行年幾つといふ事詳らかならず、なほ尋ぬべし大坂の軍起りし時、嶋津陸奧守家久、海路穩かならずとて參らさりしかば、嶋津が登らざらん內は、忠興等も參るべからずとの仰ありければ、參らず、子息內記忠利は、參りたり、再び兵起りし時、忠興兵少々引具して馳せ上る、將軍家の御手に從つて、首二十を切て獻る、
忠興が二男の長岡與五郞某は、大坂に仕へて、一方の大將を承る五月七日天王寺の戰、御方さん〱に打なされ、手の者みな落失せて、寄手また城中に攻め入れば、力なく都のほとりに落行きしを、父忠興尋ね出し、首斬て參らせしなり、
元和五年十二月忠興致仕入道し、宗立と號し、三齋と稱しけり、正保二年十二月二日、八十三歲にて卒す、左少將兼越中守忠利、忠興が三男、初め內記と申けり、關が原の合戰に大御所の御側に侍ひ、慶長十年四月五日、侍從從五位下になされ、大坂の軍に從ひ、父の讓うけて越中守に任し、從四位下に登り、寬永三年八月十九日、左少將に任し、同き九年十月四日、肥後國に豐後の國鶴崎の地そへて下し給ひ、熊本の城に移り住む、五十四万石同十四年の冬、肥前の國嶋原の賊徒起る、筑紫の大名、軍勢を率ゐて攻む、明れば十五年二月廿七日、忠利先を爭て二三の城を攻め破り、明る廿八日には、眞先に、つめの城に攻め入て、天草四郞時貞が首をば、忠利が手にぞ取たりける、四郞は賊の張本なり、十八年三月十七日、五十六歲にて卒す、嫡子侍從光尙、寬永十二年將軍家の御前にて元服し、御諱の字賜り、從四位下侍從兼肥後守になされ、父卒して家を繼ぎ、慶安二年十二月廿六日、三十一歲にて卒し、其嫡子六丸父に繼ぎ承應二年十二月十一日、御前にて元服し、御諱字を賜り、從四位下侍從兼越中守になされ、綱利と名のる、
玄蕃頭源興元、藤孝入道が二男なり、童名は頓五郞、生年十四歲にして、兄忠興と共に、河內の國片岡1の城の先懸し、能き首取て城を落せしより、一生の高名、數多し、藤孝丹後に移りし時、父に属して峯山の城にあり、小田原滅ひし時、兄忠興と共に韮山の城攻落し、又文祿の初め朝鮮に向て、晋州の城を攻めて、名を外國に施しぬ、慶長五年關が原の合戰に、東國の御方して、丹波國福知山の城を攻落し、忠興豐前の國に移りし時、興元も其國に移り、慶長十四年に常陸の國茂木の地を賜ひ、一万石大坂の軍起りし時、將軍家の御手に隨ひ、再ひ起りしには、將軍の仰にて、酒井雅樂頭忠世が軍勢下知して戰はせ、おのが手の兵に、首十四切らせて獻る、其賞として、常陸の國谷田部の地を加へらる、六千石其子玄蕃允興昌、元和四年に家をつく、興元か卒、せし月日いつにや知らず、其子豐前守興隆、父に繼きて、老て後、致仕入道して、宗閑と號す、嫡子玄蕃興英、家を讓らる、
  1. — 底本のまま。片岡城は通説では大和国葛下郡。f090.p007と同じ