家一覧 › 第七下 › f089
伊達〔後賜松平〕
この家によく出る人物・地名
人物 伊達政宗 75豊臣秀吉 24伊達朝宗 19徳川家康 15伊達政宗(大膳大夫) 10蒲生氏郷 8伊達綱村 8伊達義広 7伊達秀宗 7伊達宗勝 7藤原山蔭 5伊達忠宗 5伊達宗村 4伊達輝宗 4畠山義継 4大内定綱 4蘆名義広 4木村吉清 4前田利家 4上杉景勝 4伊達綱宗 4原田宗輔 4田村宗良 4豊臣秀頼 3
地名 陸奥国伊達郡 10京都 10陸奥国会津 8陸奥国仙道 6奥州 4朝鮮 4摂津国大坂 4伊予国 4関東 3陸奥国二本松 3陸奥国葛西 3陸奥国大崎 3美濃国関ヶ原 3出羽国長井荘 2出羽米沢城 2陸奥黒川城 2奥羽 2相模国小田原 2下野国宇都宮 2陸奥国岩手沢 2肥前国名護屋 2伏見の徳川屋敷 2陸奥梁川城 2常陸国竜ヶ崎 2
其系圖を見るに、中納言山蔭九代の孫、高松院非藏人朝宗、文治の頃初て奧州に下り、伊達郡に住すと云々、その系圖幷公卿補任等を合せ考るに、山蔭は仁和四年二月四日六十五歲にして薨ず、これより文治の頃に至りて、凡そ三百年に及べり然れば朝宗が山蔭九代の孫といふ事、疑ひなきにあらず、一世每に三十年を保つとも、年數尙餘りあり、其世嗣に漏れたる人あるにや、然らずんば又朝宗が奧に下りし事、文治の頃にはあらざるべし、文治の頃、伊達郡を領せしは、朝宗が子宗村が時の事なるべし、一說に中納言山蔭の後胤朝宗、常陸の國に下り、中村に住す、其子宗村常陸介に任す、常陸入道念西これなり、宗村後に奧州伊達郡を領し、子孫伊達と稱すと云々、此說東鑑に合せ見るに、大樣は違はず、思ふに文治五年鎌倉殿、奧の泰衡を伐れし時、中村常陸入道念西、子息等引具し、伊達の郡の先懸し、其功多かりしに依て、やがて伊達の郡を賜り、是れより子孫此所に住せしと見えき、但し念西に伊達郡賜ひしといふ事は、東鑑には見えず、〇又系圖に曰く朝宗が子宗村を、中村常陸入道念西といひ、滿勝寺と號し、建長三年辛亥十月二日に死、其子粟野二郞藏人大夫義廣、三十三躰の觀音の像を造り、一堂を建立し、入道して覺佛と號し、此堂に隱居して、康元元年丙辰九月廿三日に卒すと云々、是も覺束なし、東鑑を按ずるに、文治五年鎌倉殿、泰衡を伐れし時、常陸入道念西、子息常陸冠者爲宗、二郞爲重、三郞資綱、四郞爲家、兄弟の者共、伊達郡の先懸し、佐藤庄司等十八人の首を得たりと見ゆ、念西既に入道し、また兄弟の子四人まで軍に立ちて高名せしかば、この時念西が齡、四十には餘りぬべし、それが建長三年まで世に永らへたらんには、凡そ年百歲には餘りなん、又念西が子義廣、康元元年に死すといへば、父念西が死せしより僅かに四年を隔てたり、また義廣も入道して覺佛と號し、隱居すといへば、父いまだ死せさりし內に、これも入道隱居せしにや、彼れといひ此れといひ、いぶかしき事のみなり、想ふに此義廣といひしは、念西が孫か、又曾孫にやあらずや、東鑑の中にしるせる念西が子の中に、義廣といふは見えず、又念西が建長三年辛亥に死したりと云ふ事、文字誤れるにあらずや、文治五年の後、建久二年も辛亥なり久と二との字を誤りて、長と三とに作るか、長の字の草書は、久の字に似たり、二は三に誤るべし、又其後建仁三年も癸亥なり、建保三年も乙亥なり、此等の中にも誤れる事あるか、去れども其家の傳ふる所、他人の論ずべき事にはあらず、又疑しき事、其儘にも記すべからざれば、こゝに註して、本文は畧す、世に知れる人なれば、大膳大夫政宗よりしるす、系圖の傳ふる所は、政宗は朝宗が八代の孫といふ、
系圖幷に世に傳ふる系譜等に曰く、新續古今集撰せられし時に、此政宗かきすつる、もしほなりとも、このたひはかへさてとめよ和歌の浦人といふうたよみて二首の歌をたてまつる、其山家霧に、山あひの、きりはさなから海に似て、浪りときけは、松風の音、その山家雪に、中〱に、つゝら折なる道絕えて、雪にとなりの、近き山さと、
其後應永二年乙亥九月十四日に卒す、家を保つ事二十二年なり、公方勝定院殿政宗が身まかれりと聞し召て、ものゝふの、あとこそあらめ、敷しまの、道さへ絕えん、事の悲しき、朽はてぬ、かさしともなれ、言の葉の、そへてかきやる、法の花ふさ、といふ御歌に、紺紙金泥の法華經そへて給ひしと云々、右案るに、此說の如くば、政宗が應永二年に卒せしといふ事も、覺束なし、まづ新續古今集を撰ませられし事は、後花園院永享の初に、飛鳥井雅世の中納言、勅を受けて、同き十年八月廿三日に奏覽を經て、同十一年に返納せられ終んぬ、政宗卒せしといふ應永二年より、三十三年の後に、初て此集撰すべき由を勅せられ、猶十年を經て後、奏覽を經られぬ、次には公方勝定院殿は、至德三年二月十二日に御誕生ありて、御年四十三歲、正長元年正月十八日にかくれさせ給ひぬ、應永二年の比は、御年僅に十歲にならせ給ふ、かゝる御歌よませ給ふべしとも覺えず、いぶかし、
黑川の城に移り住みて、威を東北に奮ふ、かゝる所に、豐臣秀吉、關白の職に任して、王命をそむく國々を征伐すべしとて、數十萬騎の軍勢、東海東山北陸を經て、關東に攻め下り、相摸の國北條が領せし國々を、悉く打從へて、やがて奧羽の地を差して、攻め下るべしと聞ゆ、政宗まづ太宰金七といふ家子して、秀吉の軍の樣を伺はしむ、北條が亡びんごと遠からずと申す、さらばとて郞等遠藤不入齋を使者として、關白に音信を通ず、急き政宗御陣にまゐり向ふべきよし仰せ下さる、やがて家の子郞等百騎を具して、天正十八年六月、本國を打立ち、下野の國にさし懸り、小田原に趣く、道塞つて通り得ず、會津のうち大內といふ所より引返し、越後國へ係り、日數經て小田原に至る、關白まづ底闇といふ山の中に旅館點して、政宗を入れらる、政宗二十餘りの男の、眼片方なる、髪短く押し切て打かぶり、其貌甚た異體なり、關白さるしれ者と聞召して、對面の義なく、やゝあつて後、使者を以て尋問るゝ旨あり、抑も秀吉忝くも、鹽梅の臣に列り、博陸の職に任ぜしよりこのかた、普天の下率土の濱、凡そ王命を重んずるほどのもの、我が門に祇候する輩千里を遠しとせず、然るに政宗累代の家をうけ繼き、數郡の地を押領し、遂に一度の使者をだにまゐらせず、每に隣國の大名等と、地を爭ひ兵を構へ、中にも故三浦介盛隆芦名
當家に志深かりしに彼の家を滅して、會津仙道十一郡の地を合せ奪ふの條、甚以て奇怪なり、きつと一々に陳し申べしと仰せ下さる、政宗此由を承て政宗去年三浦介盛隆が男義廣を討取る事、天下既に泰平に屬せんとするに及びて、政宗濫りに干戈を動して、隣國を侵し奪ひし樣にも聞し召されてや候らん、さりながら、事近きに决すといへども、其事の由を尋るに、一朝一夕の故にあらず、初め義廣、政宗が父輝宗に叛きし、郞等大内何某と備前といひし、申者に組みし佐竹岩城の者共と牒し合せて、我家を滅さんとす、希有にして彼の大内を退治仕り訖んぬ、程なく父にて候ふ者の、二本松が爲めに討たる、父の讎の末なるに依て、政宗二本松を討たんとする所に、義廣又佐竹岩城と二本松を助く政宗彼等と戰ふ事、日々夜々、遂に一戰の利を得て、義廣を滅す、されば政宗が四隣にかたきを受けて、日夜の戰ひ止む時なく、道路既に差塞つて、近き境の事をだに知り難し、まして遠き境の事、夢にだも知らず、一介の使をも參らせず候ひき、全く王命を輕んじ、殿下を蔑如し奉りしにあらず殿下此所に御下向あるに至て、初て天下既に歸する所あるを存知て、不日に參向仕る所なりと答へ申す、重ねて御推問の事ありしに、陳じ申す所、一々理を盡す、關白重ねて北條が滅びんこと近きにあり、秀吉又王命に叛く東夷等を、悉くに征伐せんと欲す、政宗陳じ申す所詐る事なからんには、此程合せ奪うたる會津仙道の地、悉くに奉りて、軍門に祗候すべし、若し此事叶ふ可らずんば、已が國を守て、戰に備ふべき計略を廻らすべし、何れの道ならんにも、速かに馳せ歸りて、御下向を待ち奉るべきなり、此度の見參はまづ叶ふべからずとて、押て返さる、政宗急ぎ會津に馳せ下り、同き七月十三日、黑川を打立て、米澤の城に移り、關白の御迎として下野國宇津宮に參り向ふ、秀吉大に悅び給ひ、やがて對面の上、色々の饗應事終り、自ら茶點して賜ひ、政宗を先き立てゝ、陸奧に下り給ひ、木村伊勢守をして、政宗が手より會津の城を受取しめ、會津仙道、幷に越後の國小河の庄、凡そ十二郡の地、蒲生飛驒守氏郷に賜て、奧羽兩國の守護とし、木村伊勢守父子に、葛西大崎の地を賜ひ、氏郷に副らる、關白都に歸り給ひし後、此年の冬葛西大崎の地、此處彼處逆徒蜂起して、木村が城々攻め落さると聞えければ、氏郷急ぎ政宗に牒し合せて、軍勢を率ゐ馳向て、逆徒を打滅す、かゝる所に伊達が譜弟の郞等、須田伯耆、氏郷の陣に來て、政宗會津仙道の地、奪れて安からず思ひ、賊徒等催して、國亂さんと、支度し候と告てければ、氏郷さればこそ、初より怪しき事の多けれとて、政宗に心をゆるさず、關白奥に軍起りぬと聞召し、淺野彈正少弼長政、追討の御使を承り馳せ下る、氏郷既に賊徒を退治して引返し、二本松にして長政に行合ひ、打連れて上洛す、政宗も同じく上洛し、讒者の實否を糺さんとて、都に上り、妙覺寺を旅舘とし、罪なき由を陳し申す、關白更に實事とし給はざりしかど、深き慮まし〱ければ、まづ政宗が伊達信夫刈田柴田等の郡をば、氏郷が此度の勳賞に賜ひ、木村が葛西大崎の地を沒収して、政宗に賜ひ、天正十九年の六月、暇賜て、國に歸へさる、此說は、會津四家合考に出づ、氏郷記には十九年九戶陣の後、伊達等の地賜ひしと見えたり、又政宗隱謀の申分けせし樣は氏郷記四家合考を合せ見るべし、成實日記は、詳ならず、今年政宗岩手澤に移る、今の仙臺程なく賊徒起りて、宮崎の城に立籠たるを攻破つて、首ども都に獻りければ、關白の御感を蒙り、其後侍從に任じ、朝鮮の事起りしかば、政宗干餘人を引具し、名護屋に陣す、
成實記を見るに、此年六月の比、名護屋の陣にして、德川殿の御家人と、加賀の利家が家人と、忽に軍せんとす、たとへば德川殿の御陣の邊りに、冷かなる泉、流れ出づ、利家の雜兵等來り汲む、水多からざれば、汲み盡す事、度々に及びぬ、德川家の下部等、これを制す、是より事起りて、加賀の陣より二人三人づゝ馳せ加る、德川家の御家人等も、馳せ集る程に、後は互に二三千人が程、かた手矢はげ槍長刀打物の鞘はづして、左右に立ち分る、德川殿の御内には、本多中務少輔忠勝を初め、宗徒の人々打出て、固く制す、加賀の陣よりは、然るべき侍の出て制する者もなかりしかば、狼籍既に起らんとす、政宗が陣、無碍に近く、日比又德川殿にも利家にも親し、されども事出來なんには、德川殿の方人すべしと見えければ、家子郞等ら悉く政宗が陣に集り、今や事起ると待ちかゝる所に、德川殿の御內に渡邊服部兩半藏とて、かくれなき足輕大將、鐵砲三百挺餘に火繩かうて、利家の陣の後なる山に打上りて、事起ると見ば、大將の陣を打破るべう見えしかば、政宗大に驚き、宗徒の家人二三人をして、兩方を鎭めぬ、
明れば文祿二年三月政宗、淺野左京大夫幸長と、朝鮮に渡りて、手合にまづ釜山の邊りにて、朝鮮の兵八十三が首切て獻り、今年七月諸大名と共に、晋州の城を攻落す、其後少將に任ず、同き四年二月氏郷卒して後、其男宇都宮に移されしかば、政宗仰を承り、歸國して、國務を沙汰す、此年七月、關白秀次、謀反の聞いありて、誅せられ給ひ、政宗も彼が與黨たるよし風聞す、政宗大に驚き、急ぎ大坂に趣き、まつ施藥院の家に在て、罪なき由を陳ず、太閤御使を賜て、御糺問兩度に及び、其後仰下されしは、秀賴が誕生の初め、汝が男兵五郞を、遠江守秀宗が事なり參らす、これ秀賴が被官の始たり、されば彼男を以て伊達の家をば繼せなん、汝すべからく遠嶋に移るべし、速に本國に留る宗徒の家人等、悉く召し上せよ、彼等參らん程は、おのが館に籠居すべき由にて、都に登り聚樂の家にあり、かゝる所に、政宗が家子郞等、京中を焚き拂て切り死すべしと聞えて、洛中以ての外に騷動し、又政宗が太閤打ち奉らんとする謀の樣、一々にしるし、江戶中納言殿、伏見の御館の邊に榜を建つ、太閤此榜の樣を御覽じ、政宗憎しと思ふ者のしたる、ごさんなれ、さては秀次に組せしなど云ふ事も、此榜建てし奴原が所爲なりけりとて、遂に咎ゆるされて歸國す、此事成實が記に詳なり、此時の事伊達上野、年經て後、親しき者に語りしを、聞きしと申す老人の申せしは、此度政宗が咎免されし事、偏に德川殿の御力なり、初め太閤政宗を伊豫の國に移さんとせられしに、政宗大きに驚き、德川殿に就て愁訴せんとて、伊達上野幷に親しき家子一人添へて、伏見の御館にまゐらす、德川殿二人の使を御前に召さる、朝やゝ寒き頃なり、御火燵に倚りてまします、二人が申す旨を聞召し、御氣色いかにも和らげ給ひて、朝とく參れり、餉いまだなるべし、賜るべしと仰せらる、やがて御膳を進む、二人御前を立んとせしに、たゞ夫れにて給れとありしかば、御前に侍らふ、かねてより御飯を黃銅の鉢に入て、御火燵の上に置かれしを、陪膳の人とりて參らす、德川殿二人が給る飯、ひえぬらん、これ給れとて、かの御飯を賜り、御菜の地に落ちたりしを御指に點し給ふやうにて戴かせ給へば、陪膳の人とりて、御膳の傍に置く、其後御茶を進めしに、召しのこして、二人にたぶ、御心よげに、いろ〱の御物語どもあり、やゝありて、二人の使、政宗如何に待遠に存ずらん、御返事うけ給るべしと申せし時、御褥より下りさせ給ひ、大なる御聲にて、やあ、おのれら主人は、さしも日頃は、世の人をば這ふ虫とも思はず、荒凉の事、吐きちらし、をこの振舞ひ多けれど、かゝる際に至ては、世の常の氣せい夢ばかりもなし、かゝる人を臆病の者とはいふぞ、如何におのれらが身は、伊豫の國に渡つて、魚の餌にならんとや思ふ、又都の內にあつて、犬の食にならんと思ふか、此二條の內、きつと思ひ極め、愁訴をも申さば申せ、返事すべき事あり、近く參れと召す、二人恐る〱御側に參る、御旨承て歸る、此後伊達が家子郞等、たゞ討手を待て死ねやとて、大に動き立つ、洛中の貴賤、驚き騷ぐ事夥し、此よし大坂に聞えしかば、太閤事の樣をも見よとて、政宗が在國の家人等急ぎ召すべきよし、催促の御使を給はる、政宗が家子郞等を初め、雜人ばらに至るまで或は弓押張り矢かき負ひ、鐵砲に火繩さし挾み、槍長刀杖につき、大庭にみち〱たり、政宗御使と聞て、大童なるまゝにて、刀をも帶せず、兵者共おしわけ〱、門開かせ内に請じ入れ、仰せ承て後、政宗こたび仰せ承てより、此かた、家子郞等、僉議して曰く、何條先祖累代の地を離れて、知らぬ國にさまよひ、天下に恥をさらすべき、政宗は尋常に腹を切れ、おのれらは、一々に討手の御使を待つて、切死仕るべきと議定す、政宗是を制して、言葉を盡すといへども、かゝる大臆病の主人とは、日頃思はぞと、一向に下知を用ゐず、さしも年頃は政宗が申さん程の事、如何なるひが事ならんにも、背く事なかりし奴原が、今政宗が殿下の御咎め蒙りて候へば、おのが主をも、あるものとも存せず、かゝる不思議を振舞ふ事に候、此由さだめて御聽にも達しけんが、全く政宗が所存にあらず、もし御尋あらんには、よきに申し開きて給るべし、又在國の家人、上洛の事、催促既に畢んぬ、今に至て、一往の返事をも參らせねば、彼等また如何なる奇怪をや仕り出すらんと、安き心も候はぞとて、御使を返しぬ、德川殿も洛中の騷動を聞しめして、大坂に參り給ひ、都にて政宗が家人等を誅せられん事、何程の事か候べき、さりながら、在國の家人等、累代の主人失はれぬと聞かば、理非わきまへぬ荒えびすども、如何なる仰せ候とも、よも御下知に從ふまじ朝鮮の事、いまざ定まらず、本朝の內また忽ち兵革起らん事、賤しき者の申なる、大事の前の小事なり、又罪の疑しきをば輕んずるとも承る、かの累代の所領、奪はれんも、且は不便の至なり、然るべくは、先づ此たびは寛宥の御沙汰もや侍らんと、仰せられし中に、落書の事起りて、終に恙もなかりしとなり、成實記に此事は見えねども、大略は似たる事あり、その物語の樣も誠しければ、こゝに註して、一說に備ふるなり、
關が原の軍終りて後ち、此年七月政宗2長井の庄湯の原に發向し、明る慶長六年二月伊達郡宮越1にて合戰し、景勝が兵を多く討取る、三月廿八日、福嶋梁川等の戰あり、此等の事關が原諸記に誤りしるす、たゞ北川次郞兵衞が記、詳にして據ところあるに似たり、
- 郡宮越 — 底本のまま。「宮代」の誤植とみられる
- 此年七月政宗 — 底本のまま。関ヶ原(慶長5.9.15)の後のこととしながら「此年七月」と記し、順序が合わない
天下の大名、此度の勳賞として、國郡賜ひし人々多き中に、政宗僅か攻取る所白石の地のみ賜ひ、させる恩賞もなし、是は政宗が振舞ひ、かねてより仰せ下されしに違ふ事多きに依りし故なれば、政宗も恨み申さず、同き十一年二月八日、政宗が家に成らせ給ひ、常陸の國龍が崎の地を賜ふ、此日父子に御刀賜ひしなり、政宗に長光、忠宗に小原眞守といふ、但し龍か崎如何程の地にや知らず、明れば十二年の春姬君御誕生ありしかば、子息忠宗にあはせ給ふべき由を仰下さる、此姬君程なくかくれさせ給ひしかば、市姫君と申す四才にて失せ給ふ其後池田參議輝政の娘を御養君として、忠宗にぞあはせ給ひける、これ大御所の御外孫なり、又此事は慶長六年の事なり、また政宗の娘をば、上總介殿の北の方に參らす、十三年、政宗御家號を賜る、來國光の御刀を賜ふ、大坂の軍起りし時、將軍家の先陣打つて馳せ上る、此年十二月廿五日、長子遠江守秀宗に伊豫國を賜ふ、十万三千石明年五月六日道明寺の合戰に、後藤又兵衞を始て、餘多の敵を討ち、明る七日の戰に、首五百廿五切て獻る、閏六月十九日、參議になさる、此度の勳賞と聞ゆ、寛永三年八月十九日、從三位權中納言に任ず、同十三年、政宗病既に甚し、五月十三日、同十九日、左大臣家再び彼家にならせ給ひ、自ら其病を訪せ給ふ、例少なき御事なり、此月廿四日政宗積る年七十歲にて薨す、其子少將忠宗、家を繼き、明曆四年七月十二日卒す、六十歲、嫡子侍從兼越前守光宗、十九歲にて、正保二年九月八日、父に先立ちて卒し、二男少將兼陸奥守綱宗家を繼く、初め四位侍從兼美作守たり、萬治三年伊達が一門、幷に家子郞等、一同に綱宗病に犯されて、國務に堪へざる由を披露す、彼等が望み請ふに依て、彼の嫡子龜千代丸、年僅かに二歲なるに、國を賜て、綱宗隱居すべき由を仰せ下さる、寛文九年十二月、龜千代丸元服し、御諱字賜り、四位の少將に任し、綱基と申す、同十一年一族家人等、相訴ふる事あつて、執政の家に召し决せらるゝに、忽に狼籍起りて、家人原田甲斐宗輔伊達安藝宗重を斬て、手負ふ者、死する者あり、同四月三日、一族家人等が罪定めらる、同六日、陸奥守綱基幷に一門の輩を召されて、綱基が國中の土民、悉く虐政に苦しむのみにあらず、今度家人等が狼藉、甚た奇怪の至なり、然といへども綱基幼稚の程にして、いまだ政務を知らざりし上は、其罪を免さる、向後の事は、綱基が沙汰たるべきよし仰せ下さる、
隱岐守藤原宗良、田村と稱す忠宗が三男、祖母は陸奧三春の住人田村大膳大夫清顯の娘なり、田村が家既に絕えぬれば、彼の外曾孫なればとて、宗良して其家を繼がしむ三万石を分つ、其子隱岐守宗永1父に繼き、延寶六年三月廿六日卒し、其子右京大夫建顯繼ぐ、
- 隱岐守宗永 — 底本のまま。延宝6年(1678)に死んだのは宗良で、跡を継いだ建顕の初名が宗永なので、宗永と建顕は同一人物。本文は一代余分に入れている
侍從兼遠江守藤原秀宗、伊達と稱す政宗が長子、初め文祿二年、右大臣秀賴生れ給ひし時、政宗其子秀宗が、いまだ幼きを、彼の御家人に參らす、太閤大に悅ばせ給ひ、同四年、侍從從五位下兼遠江守になされ、又諱字をもたびたりけり、童名は兵五郞時に年僅かに六歲とぞ聞えける、慶長十九年の冬、大御所伊豫の國を賜ふ、十万石寛永三年八月、從四位下に叙し、明曆三年七月廿一日家を讓る、同四年六月八日、六十八歲にて卒す、嫡子左近大夫宗實、二男左京亮宗時、父に先立ち卒しければ、三男大膳大夫宗利、父が讓りを受け七万石明曆三年十二月從四位下、寛文三年、侍從兼遠江守に任ず、宮內少輔藤原宗純、伊達と稱す秀宗が四男、父が所領を分ち讓る、伊豫國吉田三万石の地、
兵部少輔藤原宗勝、伊達と稱す政宗が末子なり、十男と云正保元年、將軍家に召し出さる、少將綱宗籠居の後、その子龜千代丸、幼稚の程、國の政務、兵部少輔宗勝、隱岐守宗良兩人、かの家人等と相議て沙汰すべきよし仰せ下さる、然るに、宗勝獨り檀まゝに國務を沙汰し、私また多かりしかば、國中の上下、恨み憤る者、日々に多く、政事日々に廢れ壞る、こゝに伊達安藝宗重といふ者あり、かれは左京大夫植宗が第十二男、兵庫頭元宗が曾孫、安藝守定宗が二男、家の子隨一の者なりければ、政務今の樣ならんには、我國滅ぶべき事遠きにあらずと思て、宗勝を諫る事、切なりしかど、更に承引の氣色もなし、此上は力及はず、さらば將軍家に訴へて、御裁斷に任せ、政務をも改め、國中の土民等が歎き苦む所をも救はんとて、寛文十一年二月關東にまるり、一封の書を獻て、事の躰を言上す、頓て板倉內膳正重矩の宅に、彼の家の奉行役人等を召集められて、御糺問あり、三月廿七日重ねて酒井雅樂頭忠清の宅に召决せらる、此日伊達累代の家人原田甲斐宗輔、無二の宗勝が與黨たりしが、彼の宗重を斬て捨て、血刀提げて、執政の座に切て入らんとす、有合ふ輩馳せ集り、遂に甲斐を討てけり、伊達が家人、疵蒙りて死する者二人、忠清の郞等にも手負ふ者あり、かくて四月三日、兵部少輔宗勝、罪定められて、土佐の國へ流され、土佐守豐昌に預けられ、子息市正宗興は、豐前の國へ流され、小笠原遠江守長眞に預けらる、又田村隱岐守宗良は、天性病者にて、常に關東に在て、本國下向の事もなく、又宗勝一門の長者なるゆゑ、政事皆彼れに任せければ、其罪を宥められて蟄居せり、原田が子息等幷に一族の輩、悉く誅せらる、