左馬助藤原嘉明は、三河の國の住人、三之亟某が男也、ある書に三之亟廣明と記す、系圖に見えねば其名覺束なし、嘉明が父、初め德川殿譜第の御家人たり、一向專修の門徒等が背き參らせし時、これも同しく方人にて、永祿七年三河の國を去て尾張の國に至り、其後遂に羽柴殿に仕へてけり、嘉明襁褓の中に本國を去り、成人の後、これも秀吉に仕ふ、生年廿一歲、近江國柳が瀨の合戰に先懸し、高名七人の其一人なり、時に孫六、秀吉の御感、斜ならず、此年天正十一年七月朔日、勳賞を賜ふ、五千石を宛行はる同き十三年、秀吉關白に任し給ひし時、從五位下に叙し、左馬助に任ず、今年の秋、伊豫の國正木の城を給る、六万二千九百石十四年の秋、嘉明長曾我部土佐守元親仙石權兵衛尉秀久脇坂中務少輔安治等と、豐後の國に押渡り、大友が軍勢を引具し、嶋津中務大輔家久と戰ふ、長曾我部仙石等を先として大友が軍勢、負軍し、長曾我部が嫡男信親打死す、嘉明脇坂二人、家久と戰つて退かず、關白の御感大かたならず、明れば十五年の春、關白自ら嶋津を伐ち給ひし時、嘉明脇坂九鬼大隅守嘉隆等と兵船を泛め、薩摩の國に攻め入て隍河の城を下し、三人共に千代川に舟梁わたして、關白の御勢をわたす、十八年相摸の小田原を攻められしに、四國の人々と同じく、兵船を泛め東海を押渡つて城を攻め、文祿元年、朝鮮の事起りしかば、脇坂九鬼と同じく、海路の先陣給りて押渡り、三人共に、朝鮮の慶尙右兵使元均を打破つて熊川に至る、脇坂が兵船、全羅水軍節度使李舜臣と、巨濟の洋中に戰て、利あらずと聞き、嘉明九鬼と共に、これを助けて戰ふ、明れば二年の春、脇坂九鬼と、熊川に在て李舜臣元均等と戰ひ、二月廿一日、又大に戰ふ、嘉明進み戰て、自ら敵船を奪ひ取る、此年、嘉明本朝に歸り、慶長二年、大明の和親破れて後、嘉明また藤堂佐渡安1高虎脇坂九鬼等と、朝鮮に押渡る、かの統制使元均が兵船、海の面に夥しう漕き浮む、藤堂人々と評定して戰んとす、七月十五日嘉明藤堂先懸して、巨濟泰川嶋に戰ひ、散々に打破る、船とも餘多乘取て、太閤の御感にぞ預りける、此舟軍の事、異國本朝の書に傳ふる所異說多し、まづ太閤記には、文祿二年六月廿四日の戰ばかりを記す、これ即ち文祿二年二月廿一日の戰の事なり、又豐臣家譜には、慶長二年の春の事とし、脇坂が碑銘には七月七日とす、共に林道春撰める所にして、かく異なる事覺束なし、たゞ大河內秀元が記にしるす所、最も詳かなり、彼れが記は、自ら太田飛驒守一吉に從て彼國に向ひ、日毎の事を記るせる所なり、慶長二年の戰たる事一定にて、此年三月十八日、本朝の人々、太閤の仰を承り、五月廿二日より、大坂を立ちて、七月七日に釜山港に着き、同き十五日に、此舟軍はありしといふ、然れば、豐臣家譜に、春の事の樣に見えしは、如何にぞや、脇坂が碑の文は、月は同し日は覺束なし、朝鮮の書を考るに、萬曆廿五年八月七日に、此軍ありし樣に記す、彼の萬曆廿五年は、則ち我朝の慶長二年に當れり、八月七日たりといふは、日は脇坂が碑に同じけれども、月は異なり、按るに本朝の人々、南原の城を攻んとて、此年八月七日に、全羅道求禮に至る、こゝに留る事六日、同き十日に求禮を立つて、南原に向ふといふ、嘉明も同しく彼處に向ひ、城を攻め落して、首五十一を切れり、然れば朝鮮の書の傳ふる所も、誤れり、まして大明の書に、此舟軍は、七月の事としるせり、たゝし日をばしるさず、
- 佐渡安 — 底本のまま。割注「佐渡安」は「佐渡守」の底本の誤植とみられる