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加藤

第七下 · 段落 8 · 780523 48コマ Lから

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地名 5 5 4 4 4 3 3 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1

左馬助藤原嘉明は、三河の國の住人、三之亟某が男也、ある書に三之亟廣明と記す、系圖に見えねば其名覺束なし、嘉明が父、初め德川殿譜第の御家人たり、一向專修の門徒等が背き參らせし時、これも同しく方人にて、永祿七年三河の國を去て尾張の國に至り、其後遂に羽柴殿に仕へてけり、嘉明襁褓の中に本國を去り、成人の後、これも秀吉に仕ふ、生年廿一歲、近江國柳が瀨の合戰に先懸し、高名七人の其一人なり、時に孫六、秀吉の御感、斜ならず、此年天正十一年七月朔日、勳賞を賜ふ、五千石を宛行はる同き十三年、秀吉關白に任し給ひし時、從五位下に叙し、左馬助に任ず、今年の秋、伊豫の國正木の城を給る、六万二千九百石十四年の秋、嘉明長曾我部土佐守元親仙石權兵衛尉秀久脇坂中務少輔安治等と、豐後の國に押渡り、大友が軍勢を引具し、嶋津中務大輔家久と戰ふ、長曾我部仙石等を先として大友が軍勢、負軍し、長曾我部が嫡男信親打死す、嘉明脇坂二人、家久と戰つて退かず、關白の御感大かたならず、明れば十五年の春、關白自ら嶋津を伐ち給ひし時、嘉明脇坂九鬼大隅守嘉隆等と兵船を泛め、薩摩の國に攻め入て隍河の城を下し、三人共に千代川に舟梁わたして、關白の御勢をわたす、十八年相摸の小田原を攻められしに、四國の人々と同じく、兵船を泛め東海を押渡つて城を攻め、文祿元年、朝鮮の事起りしかば、脇坂九鬼と同じく、海路の先陣給りて押渡り、三人共に、朝鮮の慶尙右兵使元均を打破つて熊川に至る、脇坂が兵船、全羅水軍節度使李舜臣と、巨濟の洋中に戰て、利あらずと聞き、嘉明九鬼と共に、これを助けて戰ふ、明れば二年の春、脇坂九鬼と、熊川に在て李舜臣元均等と戰ひ、二月廿一日、又大に戰ふ、嘉明進み戰て、自ら敵船を奪ひ取る、此年、嘉明本朝に歸り、慶長二年、大明の和親破れて後、嘉明また藤堂佐渡安1高虎脇坂九鬼等と、朝鮮に押渡る、かの統制使元均が兵船、海の面に夥しう漕き浮む、藤堂人々と評定して戰んとす、七月十五日嘉明藤堂先懸して、巨濟泰川嶋に戰ひ、散々に打破る、船とも餘多乘取て、太閤の御感にぞ預りける、此舟軍の事、異國本朝の書に傳ふる所異說多し、まづ太閤記には、文祿二年六月廿四日の戰ばかりを記す、これ即ち文祿二年二月廿一日の戰の事なり、又豐臣家譜には、慶長二年の春の事とし、脇坂が碑銘には七月七日とす、共に林道春撰める所にして、かく異なる事覺束なし、たゞ大河內秀元が記にしるす所、最も詳かなり、彼れが記は、自ら太田飛驒守一吉に從て彼國に向ひ、日毎の事を記るせる所なり、慶長二年の戰たる事一定にて、此年三月十八日、本朝の人々、太閤の仰を承り、五月廿二日より、大坂を立ちて、七月七日に釜山港に着き、同き十五日に、此舟軍はありしといふ、然れば、豐臣家譜に、春の事の樣に見えしは、如何にぞや、脇坂が碑の文は、月は同し日は覺束なし、朝鮮の書を考るに、萬曆廿五年八月七日に、此軍ありし樣に記す、彼の萬曆廿五年は、則ち我朝の慶長二年に當れり、八月七日たりといふは、日は脇坂が碑に同じけれども、月は異なり、按るに本朝の人々、南原の城を攻んとて、此年八月七日に、全羅道求禮に至る、こゝに留る事六日、同き十日に求禮を立つて、南原に向ふといふ、嘉明も同しく彼處に向ひ、城を攻め落して、首五十一を切れり、然れば朝鮮の書の傳ふる所も、誤れり、まして大明の書に、此舟軍は、七月の事としるせり、たゝし日をばしるさず、
  1. — 底本のまま。割注「佐渡安」は「佐渡守」の底本の誤植とみられる
同き八月十五日、海陸の味方、一手になつて、南原の城を攻落す、嘉明が手に、首五十一を切取る、此年十二月の末、大明の經理楊鎬、提督麻貴、多勢を率ゐて、蔚山の城を攻む、加藤肥後守清正等、防き戰ふ事十餘箇日、明れば慶長三年正月六日に至て、味方の人々、後卷せし故に、かたき悉くに敗れ、城中の人々、辛き命生きてけり、此日嘉明が手に打取る首、一千五百三十五とぞしるされたる、此事も大明の書には、正月三日の樣に記せるなり、去程に、人々西生浦に會合して僉議す、抑も蔚山の城、敵の地に深く入て、味方の城々を去る事遠く、兵粮の運糟も、穩ならず、只かの城を毀ちて、東はこの西生浦を以て固めとし、西は順天の城を棄てゝ、南海島を守らんには若くべからずと議定す、太田飛驒守一吉、毛利民部大輔高政、二人此義に同ぜず、さらば先づ此由を記るして、殿下にまゐらせ、御裁斷を仰くべしとて、人々みな連署す、嘉明一人、署を加へず、毛利壹岐守勝信を始て、人々色々に勸めしかども、嘉明更に承引せず、やゝあつて申けるは、人々の連署して參らせ給はんに、嘉明一人が名を署せざらんに何か苦しかるべき、そも〱此度味方、蔚山の城を落されず、終に敵の多勢を打破つて、本朝の武功を外國に顯はせし事、ひとへに此城の要害いみじきが故にあらずや、ましてや一たび敵の地に深く入て、構へたりし要害を、自ら棄てゝ引き退かん事、嘉明が心にあらず、嘉明たとへ人々の議に同ぜざるに依て、罪蒙つて首刎らるとも、悔いる所にあらずと云ひ切て、連署せず、太田毛利既に此議に同ぜざれば、軍奉行の人々も連署せず、清正かの城の守なれば、是も署を加へず三十餘人の大名、悉くに連署して、本朝に使たてゝ殿下にこそ參らせたれ、太閤此由を御覽じて、かの使者を召して、一々に尋ね究められ、以ての外に御氣色損じ、嘉明が申す所を、深く感じ仰せられ、御敎書をなされ、年來の武勇を賞せられ、餘多の地をぞ加へ給りける、三万八千石の地を加へられ、本領合せて十万石、此內一万石の軍役を免し除かれたり、太田も此時四万石加へられて、七万五千石を領す、思ふに、毛利にも加恩あるべし、本領二万石の外に四万石を預け給ひしといふは此時の賞にや、程なく太閤薨じ給ひ、大坂の奉行等、德川殿を失ひ參らせんとして、伏見大坂の間、物さわがしく、德川殿の御舘に來り守る人少からず、嘉明固より德川殿は、おのが累代の父祖の、主君にてましませば、二心なき御方にて候ひしかば、當時此殿を失ひ參らせんには、宗徒の大名十人あまりは、打死せんと思ひ定る者、なからざらんには叶ふべからず、誰かは今かく心を一つには合すべき、さらば何條の事かあらんとて、ちつとも騒がず、德川殿に參て、何となく世の中もの騷しく候なり、さりながら、嘉明は何事かあるべきと思ひ定め、今までは侍五十騎を留め置きて候を、今朝廿騎をば、伊豫の國へ返し侍りぬ、もしも召されば、參らせんと、殘る所は留めて候と申す、嘉明が申せし如く、程なく無事にぞ屬しける、明れば慶長五年の秋、東西の軍一時に起る、嘉明初めより德川殿に從つて、東國に向ふ、御方の人々と同じく引返して上方に向ふ、海道先陣の大將軍には、下野守殿を向けられ、井伊本多軍奉行を承る、先陣の人々、尾張國清洲の城に集て、德川殿上らせ給ふを待つ、かゝる所に御使として、村越茂助、馳上る、人々村越に向て、御發向の期を問ふ、村越聞て、其事をば如何にも承らずと答ふ、人々大に怪み思ふ氣色なるに、嘉明此由を聞て、これに來れる人々の家、悉く大坂に在り、東西手合の軍なからんには、上らせ給はぬこそ御ことわりに覺ゆれ、いざ〱先づ一軍して、御發向を催すべき者をとて、岐阜の城を攻めらるべきに議定せり、去程に八月廿二日、追手搦手、二手に分つて、岐阜の城に向ふ、下野守殿は、尙清洲の城に御陣をぞ召されける、明れば廿三日、岐阜の城に押寄せて、既に一二の城を攻め破る、寄手の人々、今は大將軍の向はせ給ふにも及ぶべからず、たゞ一攻に攻め破れやとて、つめの城に攻め上る、嘉明窃かに井伊本多と計らうて、守殿を迎へ參らせ、我身先陣に進み、兎角ためらふ程に、程なく守殿馳せ付かせ給ひてこそ、城をば遂に降しけれ、兩御所、嘉明が人々を催して、岐阜城を攻め、又守殿を待て城を落せし事を、深く悅せ給ひしとなり、世には村越が來りし時答へ申せし人を、福嶋左衞門大夫といふ誤れり、此事悅せ給て大相國家の賜りし御消息、今も其家に在りといふ也、かくて程なく德川殿馳せ上らせ給ひて、九月十五日、美濃國關が原にして、東西の戰を決せらる、此年十一月伊豫の國にして、餘多の地賜りて、其功を賞せらる、やがて松山の城を構へて移る、十万石を給り、本領合て二十万石を領すとなり、其後嘉明常に關東に伺候す、同き十八年十一月十八日、將軍家その家に入らせ給ひ、物多く賜り、獻る物また少からず、初め大坂の兵起りし時、其身は關東に留り、子息式部少輔明成、軍勢を率して馳せ向ふ、再ひ兵起りしかば、將軍家の御陣に從ひ、明成又軍勢を率ゐて馳せ向ふ、首百九切つて獻る、此年元和元年、嘉明從四位下に叙す、同八年九月十五日、若君御鎧着初の儀あり、嘉明將軍家の仰を承て、御介錯に參る、希代の面目とぞ聞えける、此時大相國家、かねて嘉明を召されて、大納言家に御鎧を召させまゐらすべしとありしに頻りに辭し申す、御許なかりしかば、さらば家に還りて、よく思ひ計りて後、御答をば申すべきにて候とて、御前を罷り立つ、やかて嘉明が子々孫々に至るまで、長く二心を存ずましき由の起請文を書きて奉り、此上は御免うけ給るべきにて候と申す、大相國家深く感しさせ給ひ、尙御許しなければ、遂に從ひぬと、古き人の申せしなり
寛永三年八月十九日、侍從に任し、同き四年二月十日、餘多の地付て、奧の會津の地賜ひ、若松の城に移る、一倍の地加られ、四十万石を領せし也、又二男民部少輔明利に、三春の城を賜ひ、三万石聟の松下石見守重綱、二本松の城を賜て、五万石嘉明に屬せらる、嘉明四十万石の外、二万石を預けられ、明利重綱か所領合せて五十万石なり同き八年九月十二日、嘉明六十九歲にして卒す、式部少輔明成、家を繼く、寬永十一年七月十六日、從四位下侍從になされ、武家補任には元從四位下とあり、同き廿年五月三日、遁世して、所領の地、悉く收公せらる、
明成が遁世せし事は、父の時より家の老に堀主水と云ふ者ありけり、明成は父に似ずして、世人の嘲り笑ふ政事などありしを、かの堀、事に觸れては諫むる事もありけん、主從の間不快なりき、堀が從者と或者の從者と、爭論の事出來たり、堀が從者、非據たる由を明成决斷す、誠は堀の從者の申す所、理ありければ、堀重ねて、これを訴ふ、故に堀勘當せられて、剩さへ職事を奪る、堀やすからぬ事に思ひ、舍弟多賀井又八郞眞鍋小兵衞と三人、宗徒の郞等八人、妻子從類すべて三百餘人、寛永十六年四月十六日寅の刻ばかりに、若松の城を出て、中野といふ所にして、鐵炮を放ち、辰の時ばかりに、倉兼川に至り、往來の橋を燒斷ちて去りぬ、明成此由を聞て、討手を差向けしかど、打漏しぬ、堀は鎌倉に忍ひ居たりしに、討手むかふと聞えしかば、高野山に趣く、明成使者を立て、速に搦め取つて出さるべきよしを云せけるに、此山には來らぬよしを答ふ、明成大に怒て、おのが所領に替て、かの家人を追捕せん事を訴へて、既に軍兵を高野山に差向けんとす、堀こゝにも、たまりかねて、紀伊殿の御領に隱れ居たり、明成やがて紀伊殿に此由を申て、討手を差向く、堀かくと聞て關東に忍び下り、一封の書を奉りて、おのれ罪なき由を申し開く、左大臣家此よし聞し召され、申す所ことわりあるに似たれども、身既にかの家の司として、初めに兵を擧て城を去り、火を放つて橋を燒く、これ君臣の禮を失ひ、國家の法を亂る、其罪これ輕からずとて、明成が乞ふに依て、兄弟三人を賜る、明成大に悅び、同十八年の三月、堀が兄弟三人を、芝浦の別業にして誅しぬ、旣に所領に申し替へ、家人を願ひのまゝに下し賜て誅しぬる上は、かくてもあるべき事ならねば、同廿年に至りて、身の病多く國務に堪へず、かるが故に所領の地、悉く奉る由を申して、遁世せしなり、嘉明が三男は監物明信といひて、兄の明成が家の老にてありしが、家亡びし後、京に籠り居て死せしといふ
明成の室は保科彈正忠忠直1の女にて、大御所の御外姪なるを、大相國家の仰として尾張大納言義直卿の御養君として、配せ給ひしが寛永十三年の春、かくれ給ひき明友が母は、賤かりしに依つて憚る所やありけん家人堀部主膳といふ者の子としたりしを、左大臣家、知しめされ、父が時より見參に入りしとなり、其後明友叙爵して、內藏助に任ず、明成、子息が所領に下り、入道して休意と號し、年七十にて、寛文元年正月廿一日に死しける、
  1. — 底本のまま。加藤明成の室は通説では保科正直(弾正忠)の娘なので「忠直」は正直の誤記とみられる
明利男子四人までありしに、明利が存らへし中、子息ども見參に入れざりしかば家絕えぬと世には云ふなり、明利が卒せし時、兄式部少輔明成、家人堀が事にて家亂れしかば、それらの事に罪せられて、其事となく家絕えしにや、明成が家亡びし冬に、明利が嫡男彌三郞を召し出されて、三千石賜ひしが、廿三歲にて死したり、子なければ所帶收公せらる、二男平八郞は舍兄に先立ちて死したり、三男三左衞門、四男源左衞門、程へて後、御家人に召出され、祿米千俵づゝ賜ひしなり、