人物索引 › 松平忠吉
松平忠吉
本文表記 守殿・下野守殿・薩摩守殿・此殿・三位中將源忠吉・尾張の中將・福松丸・忠康・忠吉
井伊 第四上 · 13
- p006…らせたれと、云はん事の、口惜しう候へば、ひらに御許しあれと、望みしかば、下野守殿を海道の大將軍とし、後に薩摩守殿と申參らせし御事なり、軍奉行には、…
- p006…へば、ひらに御許しあれと、望みしかば、下野守殿を海道の大將軍とし、後に薩摩守殿と申參らせし御事なり、軍奉行には、井伊本多を差向けらる、扨こそ九月十…
- p006…の軍、美濃國關が原にして勝負を决す、直政手の者共に下知して軍させ、我身は下野守殿の御陣に參り、守殿い、直政か聟君なり、殿は此度ぞ御軍は始めな…
- p006…勝負を决す、直政手の者共に下知して軍させ、我身は下野守殿の御陣に參り、守殿い、直政か聟君なり、殿は此度ぞ御軍は始めなる、御勢をば爰に留め…
- p006…陣は、福嶋が給て候を、先懸けんとし玉ふは誰そ、狼藉なりと押止む、直政是は下野守殿、先陣の人々の軍するやう、御覽あるべきにて、井伊の侍從が、御供に侍ふなり…
- p006…らずとて、道を開く、そこを、つと馳ぬきて、敵の中に切て入り、散〱に戰ひ、守殿高名をさせ給ひければ、打破り駈け通つて、守殿と一所に馬を立て、息つき居た…
- p006…の中に切て入り、散〱に戰ひ、守殿高名をさせ給ひければ、打破り駈け通つて、守殿と一所に馬を立て、息つき居たり、かゝる處に、嶋津兵庫入道惟新、負軍して、…
- p006…方がと問ふ、こゝを通る敵の事に候と、いひもあへぬに、直政馬を馳て追かく、守殿も續きて駈け給ふ、嶋津が兵、取て返し戰ふ、守殿組打して御手負はれ、直政も…
- p006…ぬに、直政馬を馳て追かく、守殿も續きて駈け給ふ、嶋津が兵、取て返し戰ふ、守殿組打して御手負はれ、直政も鐵炮に中りて馬より落つ、嶋津も終に逃れてけり、…
- p006…組打して御手負はれ、直政も鐵炮に中りて馬より落つ、嶋津も終に逃れてけり、守殿も直政も、手深からねば、御供して御陣に參る、德川殿は、直政が守殿具し參ら…
- p006…てけり、守殿も直政も、手深からねば、御供して御陣に參る、德川殿は、直政が守殿具し參らせ軍せし事ども、深く悅ばせ給ひけり、…
- p007…敵悉くに敗る、嶋津希有に命のがれ落行く、直政はしめより入道と見けれども、守殿の御供はしつ、繼く御方もなし、入道壹人が生き延びたればとて、何程の事か有…
- p007…有しが、頻りに敵のよしをいひしかば、直政こらへず追かけて戰ひしが、果して守殿も直政も手負はれぬ、危かりし事なり、直政が士、骨法なしと人みな瓜彈きした…
加藤 第七下 · 5
- p002…東國に向ふ、御方の人々と同じく引返して上方に向ふ、海道先陣の大將軍には、下野守殿を向けられ、井伊本多軍奉行を承る、先陣の人々、尾張國清洲の城に集て、德川…
- p002…きに議定せり、去程に八月廿二日、追手搦手、二手に分つて、岐阜の城に向ふ、下野守殿は、尙清洲の城に御陣をぞ召されける、明れば廿三日、岐阜の城に押寄せて、既…
- p002…一攻に攻め破れやとて、つめの城に攻め上る、嘉明窃かに井伊本多と計らうて、守殿を迎へ參らせ、我身先陣に進み、兎角ためらふ程に、程なく守殿馳せ付かせ給ひ…
- p002…多と計らうて、守殿を迎へ參らせ、我身先陣に進み、兎角ためらふ程に、程なく守殿馳せ付かせ給ひてこそ、城をば遂に降しけれ、兩御所、嘉明が人々を催して、岐…
- p002…てこそ、城をば遂に降しけれ、兩御所、嘉明が人々を催して、岐阜城を攻め、又守殿を待て城を落せし事を、深く悅せ給ひしとなり、世には村越が來りし時答へ申せ…
薩摩守殿 第十一 · 23
- p001…三位中將源忠吉は尾張の中將と申す德川殿第四の御子なり、大相國家と御母を同じくせさ…
- p001…三位中將源忠吉は尾張の中將と申す德川殿第四の御子なり、大相國家と御母を同じくせさせ給ひ、御童名は…
- p001…と申す德川殿第四の御子なり、大相國家と御母を同じくせさせ給ひ、御童名は福松丸と申しまゐらす、初め東條の甚太郞家忠の世嗣とならせ給ひ、忠康と申しまゐら…
- p001…、御童名は福松丸と申しまゐらす、初め東條の甚太郞家忠の世嗣とならせ給ひ、忠康と申しまゐらせ、其後下野守從五位下になされ、文祿元年二月武藏國忍の城を賜…
- p001…追討のため、下野國に至り給ふ時、上方の軍勢また起りぬ、德川殿御代官として守殿海道の大將承らせ給ひ、井伊本多を軍奉行とし、御方の大名引具して攻上り、ま…
- p001…に井伊本多つけて、岐阜の城に差向けらる、味方すでに勝軍しつと聞えしかば、守殿も馳せ向ひ給ひ、中納言秀信が降を受け城をば味方に守らせらる、…
- p002…守殿海道先陣の大將軍賜らせ給ひ、岐阜の城おとされし事、諸記には詳ならず、大に…
- p002…が家人黑田が記せし關原記に詳なり、岐阜おちし後、德川殿の上らせ給ふほど、守殿は淸洲に御陣ありしにや、岐阜に御陣ありしにや、いまだ詳ならず…
- p003…德川殿登らせ給ひ、美濃國關が原にして東西の戰を决せらる、守殿御方の軍勢をひきゐて向ひ給ひ、井伊が手より軍旣に始ると見えしに、兵部少輔…
- p003…軍勢をひきゐて向ひ給ひ、井伊が手より軍旣に始ると見えしに、兵部少輔直政、守殿の御陣に參り、先陣の人々が軍するやう見せ參らすべきため、直政御迎に參りぬ…
- p003…かゝる所に嶋津兵庫入道義弘負け軍して此所を落て行く、直政これを追かくる、守殿も續て馳せ給ふに、嶋津が郞等松井三郞兵衞尉と名のつて、守殿に馳せ向ひ、も…
- p003…れを追かくる、守殿も續て馳せ給ふに、嶋津が郞等松井三郞兵衞尉と名のつて、守殿に馳せ向ひ、もつてひらきてうつ太刀を、弓手の袖に受け留めて、松井が馬手の…
- p004…の記にも、初め井伊御供して福嶋が陣の脇より馳せ出で、嶋津が陣に切て入る、守殿松井を討たせ給ふ由を載す不審なり、井伊が手は浮田が先陣と戰ふ、嶋津が陣は…
- p004…に向ひ陣して、細川黑田等の人々と戰ひ、其後本多中書が爲に破られたり、井伊守殿の御供して、嶋津が陣に馳せ入て戰ひしにはあらず、兵庫入道が負け軍して落足…
- p004…龍伯入道が參らせし兵庫入道が聞書も、是れに同し、〇又按ずるに、初め井伊が守殿の御供せし時は、則ち我手の者の、浮田が勢と軍する中に馳せ入りて、軍の樣を…
- p004…給ふ樣にはすべき、必なきの理なり、さればこそ嶋津がおちあしの時も、井伊は此殿の御供せし故に、追ふべしともせざりしを、郞等にもと甲斐の武田が家人たりし…
- p004…頻りに追打すべしと勸めし故に、こらへずして追懸けしといふ、此時に至てこそ守殿も自らの御高名はありけれ故に本文には初の御軍の事をば略してしるしぬ、…
- p006…して御前に參り、賤しきものゝ辭に、逸物の鷹の兒は逸物なりと申す者の候が、守殿のけふの御振舞ひ目を驚かして候ふと申しければ、德川殿それもよき鷹匠のとり…
- p006…よつて、逸物にもなるなりと、仰せられて御氣色よかりしと云ふ、按ずるに此時守殿廿一歲なり、…
- p007…四位下の侍從、同き十年四月十六日三位の中將、同き十一年薩摩守になり給ひ、忠吉と御名を改めらる、同き十二年二月六日關東に參り給ふ、同十三日の頃より御違…
- p007…石川主馬稻垣將監等、殉死し畢んぬ、これを當家になりて殉死せし初と云ふ此殿の北方は井伊侍從が娘なりしかど御世嗣ましまさねば御跡たえぬ…
- p008…守殿かくれ給ひし月の十七日、もとの御家人小笠原監物、增上寺にて殉死す是は去年…
- p008…人小笠原監物、增上寺にて殉死す是は去年勘氣蒙りて當時は陸奥松嶋に居たり、守殿かくれ給ひぬと聞て、昨日馳せつきて御供したるなり、監物が小侍佐々木內記と…
小笠原 第十一 · 4
索引は本文を読んで人物・地名などに項目IDを付けたものです(標本点検の適合率約98.6%)。同名の別人は括弧で区別し、本文表記と異なる比定は注記に記しました。 詳しく