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伊東
この家によく出る人物・地名
人物 伊東義祐 23伊東祐兵 17豊臣秀吉 10足利尊氏 7伊東祐充 6島津義弘 5伊東貞祐 4伊東祐国 4伊東家臣伊東武蔵守 4島津義久 4黒田孝高 4伊東祐慶 3伊東氏祐 3足利義稙 3伊東家臣福永伊豆守 3伊東家臣伊東左兵衛佐 3大友義鎮 3徳川家康 3高橋元種 3伊東祐実 3工藤時信 2工藤祐経 2伊東祐時 2伊東祐堯 2
地名 日向国 9薩摩国 6京都 5九州 4豊後国 4関東 3日向国飫肥 3伊予国 3日向飫肥城 3大隅国 2日向国日知屋 2日向野尻城 2摂津国大坂 2上方 2日向宮崎城 2日向佐土原城 2日向国穆佐 2日向国倉岡 2日向国高岡 2日向国綾 2伊豆国伊東 1讃岐国 1伊豆国 1肥前国杵島郡 1
曾孫大和守氏祐、足利殿の御時、肥前の國杵嶋の地頭職を承る、系圖に出つ又曰く尊氏將軍、諱字賜て、氏祐と名乘ると、○按ずるに安藝守貞祐が時、旣に尊氏將軍に從ふ由、系圖に記し、其曾孫大和守氏祐、又將軍の諱字賜ふと云ふこと不審、尊氏將軍の治世、二十五年の間に、伊東の家四代を經し事、いかゞあるべき、其子大和守祐武、肥前國進庄西浦宇良村田等の地頭職を賜る、其子大和守祐堯に當て、日向薩摩大隅の國人等、嶋津澁谷を除くの外、悉く伊東が家人たるべき由、寛正三年三月十四日の御下文の旨に任せ、違命の輩を打隨へて鎭西に威を震ふ、島津家譜に云く、祐堯が時、文明十二年、日向の國人佐土原、三宅、富岡、平田等十二頭の敵を討滅し、同き十七年四月廿八日七十七歲にして卒し終んぬ、
其子大和守祐國、
嶋津家譜に出づ、家の系圖には、義祐は祐充が子の如くに見えき、是は家繼きし次第に依りて記せるなるべし、又島津家譜に、義祐初め祐清と云ふ、家の子伊東武藏守、福永が振舞を惡て、祐充が卒せし後、同年九月二日、彼の父子四人を討つ、祐清武藏守が恣に福永父子を討ちし事を怒て、昔の亂に落ち失せし若侍共を、招き集て、武藏守を討つ武藏守が子左兵衞佐、兵を率して祐清と戰ふ、祐清叶はず日知屋といふ所にて、船に乘りて、都の方へ落ち行かんとす、鹽見日知屋、財部田代等の士共、弓削民部少輔等と議して、左兵衞佐を誅せんとす、左兵衞佐たまりかねて、米良山陰を賴て落行けば、同き十一月十六日、祐清本國に歸ることを得て、大膳大夫に任し、義祐と改め名のる、
天文六年四月二日、從四位下に叙し、同き十年八月廿四日、大膳大夫に任し、十五年三月三日從三位に昇り、入道の後、伊東三位の入道とぞ申ける、去程に義祐が祖父故大和守祐國は、去りし文明の未1、當國飫肥の戰に、島津が爲に討れしかば、あはれ如何にもして、父祖の仇を報はばやと思て、天文十年十月、薩摩國に發向す、是より伊東島津が軍起りて、戰更に止むことなし、鬼が城陽野の城を始として、日井新山の城を攻め落し、島津が宗徒の侍大將、多く討る、同き廿年の九月、島津終に中直りして、互ひの軍、暫く止む、弘治三年の頃より、伊東島津、又大隅の地を爭ひ、永祿六年の夏に至て、兩家再ひ軍起り、三位入道卒して後、嫡男左京大夫義益、父に繼き、永祿十二年七月十一日、四十歲にて卒してけり、島津家譜には二十四歲と云ふ元龜三年の夏、島津兵庫頭忠平、後に義弘日向の國に向ふ、伊東が軍勢、飯野の邊に出て迎ひて戰ひ、宗徒の兵五百餘騎討死す、家人福永丹波守野村伊賀守等、心變りせし程に、天正五年十二月七日の夜、島津が軍勢、野尻の城に入り、明れば八日、修理大夫義久、野尻に陣を取る、伊東の兵たまりかねて、戶崎の城を落去りぬ、城內に殘り留る所の軍兵、多くは、皆福永が一族なれば、忽に後矢を射ける程に、三位入道が孫民部大輔祐兵、戰に及ばずして、一族郞等引具して、帆北と云ふ所より、山傳へし、豐後國に落行き、由緣に付て、大友を賴みて、本國に歸らんことを謀る、明れば天正六年九月、大友左衞門督義鎭入道宗麟、數万騎を引率して、日向の國に向ひ、同十一月十二日、耳川の邊にて、島津兄弟と戰ひ、一戰に利を失ひ、散々になつて引返す、伊東も今は賴む方なくして、明る七年の四月、豐後の國を去て伊豫の國に渡り、此處に三年の春秋を送りてけり、
- 文明の未 — 底本のまま。「文明の末」の誤植とみられる
按ずるに、伊東が家の事、島津家譜に記する所、殊に詳なり、故に其說を取て記す、但し大友記龍造寺記、并に九州の事、記せる諸記等を、合せ考ふに伊東が日向を失ひしは、三位入道が時の事とす、中にも大友記に記する處、詳なるに似たり、曰く、天正四年十二月廿八日、三位入道、豐後の國に落來て、大友が双なききりもの田原近江入道紹忍に就て、宗麟を賴む、頓て國東の郡に、居所しつらひて、請じ入れらる、斯る所に、如何なる者の所業にや、のみしらみ鼠となりて三位殿、田原の下を、はひ廻りけりと讀みて、三位が家の門に書き付てければ、口惜き事に思ひて、密に豐後を忍ひ出て、伊豫の國へ渡り、夫より又周防の國に渡て、山口と云ふ所に、居住し、天正十二年の冬、都の方に趣き、終に彼所にて卒す、三位が子息左京大夫義益は、父に先立て卒す、三位が舍弟民部大輔祐兵、兄の入道、國を失ひし後、是も都に住みしが、豐臣太閤に仕へ參らせて、終に本領を安堵すと云々、此說は島津家譜とは、大に異なり、又樂書の事も、三位が子孫を嘲りても、三位殿とは、よむべきものなり、某が見し伊東が系圖に、三位が卒せし年月、見えざれば、如何にも說き難き事なり、
天正十年の正月、祐兵伊豫國をも立ち出て、都の方に上る、此年の夏、織田殿御父子、明智日向守光秀が爲に討れ給ひ、豐臣太閤未だ筑前守と申て、當時は山陽道におはせしが、急き軍勢を率ゐて、都に上り、山崎の邊にて、光秀と戰ひ給ひし時、祐兵も秀吉の御陣に馳せ加り、高名を顯しければ、秀吉大に感し給ひ、河內の國にして、所領一箇所を下し賜ふ、同き十五年、關白島津を御退治の時、伊東は彼國の案内者なればとて、大和大納言秀長卿の御手に附けられ、先陣を承て、日向國に向ふ、伊東累代の家人等、此所彼所より馳せ集りて、程なく軍勢數千人に及ぶ、島津兵庫頭義弘、負軍して、薩摩國へ引返す、關白の御勢も、筑前筑後を打隨へ、肥後國を經て、是も薩摩の國に攻め入り給ふ程に、嶋津兄弟、終に降人になつて參る、關白伊東が軍功、拔群なりとて、頓て本領日向國飫肥曾井淸武等の地賜て、飫肥の城にぞ住しける、朝鮮の軍起りて、彼國に押渡り、軍すること凡そ七年、太閤薨し給ひしのち、慶長四年正月十一日、豐後守に任す、系圖に出つ
明れば五年の夏、德川殿奧の景勝中納言を退治の爲、御下向ありし時、祐兵折節大坂に侍ひしが、井伊侍從に就きて、急き軍勢を召上せ、御跡を慕て馳せ下るべき由を申す、德川殿御消息をなされて、感し仰せ下さる、斯る所に、上方又軍起りて、德川殿傾け參らせんとす、九州の中にしては、黑田如水入道計りぞ、東國無二の御方たるべきと思ひければ、祐兵密に入道が許に、使者を立て、祐兵に於ては、堅く東國に組みし參らすべしと、思ひ定めて候、本國に馳せ歸りて、九國の敵とや戰はん、又大阪に在て、兵をや起すべき、入道殿の御謀こそ承らめと、云せければ、如水入道、和殿が小勢、上方に在て軍起さんこと、然るべからず、速に本國に下りて、軍起さるべうもや候とぞ答へける、祐兵さらばとて、打立たんとする所に、忽に病の床に臥て、己れ國に歸らんこと叶ふべからず、子息左京亮祐慶が、今年十一歲になりしに、家子郞等付て、本國に差下す、國に在合ふ家子郞等、急き軍勢催し、九月晦日、飫肥の城を立て、稻津掃部大將たり高橋右近將監が宮崎の城を攻め落し、島津中務大輔が佐土原の城に押寄す、佐土原の後卷せばやとて、薩摩の國の軍勢、數多打出つ、此處彼處に戰て、終に一度も不覺なく、穆佐倉岡高岡綾合等の地、打隨へ、飫肥の城に引返す、斯て關が原の戰、事終て後、高橋旣に降人に成て、本領を賜りし程に、伊東が攻取りし所の宮崎の城を、右近將監に返し與ふべき由を、仰せ下さる、又島津も、本領安堵御免ありし程に、穆佐倉岡高岡綾合等の地をも、龍伯入道が許に、返し與ふ、自ら戰て攻め取る所の地、皆悉く本主に返しけるこそ本意なけれ、斯て今年十一月十一日、豐後守祐兵、病終に愈る事なくして卒す、六十歲とぞ聞えける、嫡子左京亮祐慶、本領を賜て、五万七千石と云修理大夫に任し、寛永十三年四月四日、四十八歲にて卒し、嫡男大和守祐久、家を繼く、五万四千石二男主膳正祐豐、父が所領分ち賜ふ、三千石、後に加恩の事有て、すべて五千石を領せし也大和守祐久、四十九歲にして、明暦三年十月廿七日に卒し、嫡子左京亮祐由、父に繼く、五万石二男監物祐實、父が所領を分ち賜ふ、三千石寛文三年六月十三日、祐由三十一歲にて世を早し、子無りしかば、舍弟監物祐實を世嗣とす、祐實兄が家を繼き、五万四千石これ自ら分賜りし領をすべて寛文三年十二月廿八日に叙爵し、出雲守に任す、