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中川

第九下 · 段落 6 · 780524 75コマ Rから

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この家によく出る人物・地名

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地名 5 4 3 3 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

修理大夫源秀成は、瀨兵衞尉淸秀が二男、右衞門大夫秀政には弟なり、祖父佐渡守重淸、元は桓武の平氏なり、鎭守府將軍平良文が六代、秩父下野權守重純が三男、高山三郞重遠が末孫、世々常陸國に住す、重淸が時に至り、都に上り又攝津の國に趣く、當國多田の源氏、左衞門尉淸村が末葉、中川左衞門尉某、己が娘に重淸に配せて、其家讓りしかば、本姓改て源氏となり、中川とは名乘たり、天正元年七月1、將軍義昭、織田信長と、御不快の事起る、近江國甲賀の住人和田伊賀守惟政、將軍の御方として攝津國に陣す、信長和田を始として、敵の大名、悉く榜に記し、何某々々が首とりたらんには、賞行はれんこと、如何程々々と書て、陣頭に立てられたり、一說に此榜は荒木攝津守村重が、建てしとも云なり、瀨兵衞尉淸秀、此時は織田殿の大將荒木攝津守村重が手に屬す、此榜を打見て、筆執て、和田が名の上に點をかく、見る人奇異の思をなす、此夜子の刻計りに、終に伊賀守惟政が首とつて、見參にこそ入れにけれ、村重大に驚き、如何で和田をば、かく容易く討てありつると問ふ、淸秀さん候、淸秀心に思ひけるは、敵味方の戰、明日に决すべし、さらば討るゝ者、互に少かるべからず、明日同しく死せん命、此夜の中に、捨てなんには、和田が首、取得ん事、いと安かるべし、敵一定明日の戰を、大事にや思ふべき、定て此夜物馴たらん兵をして、淀川の淺深を踏み見んに、惟政さる大將なり、物見の輩をのみ、賴むべからず、必ず自らも來り見ん、大將の出立は、疑ふ所あるべからず、あはれ打取て、くれんず物を、たとへ惟政が首とり得ず、討れたらんにも、多くの敵の中に入て、大將の首取らんとて、討死して候はんは、佳名は朽ちじと思ひ定め、敵近付かぬ先に、川渡て伺はんと、水を渡り、あなたの岸の柳陰に、伏し隱れて待つ、案の如く、和田二陣に控へて出て來る、淸秀密に彼陣に紛れ入り、終に首を打取て、水中に飛入り、遁れ出て參りぬと申ければ、聞く人大に感じあへり、
  1. — 底本のまま。和田惟政が中川清秀に殺された白井河原の戦いは通説では元亀2.8.28(1571)で、天正元年の義昭·信長対立の記事に結びつけたのは時点が合わない
世には、此時いづくともなく、山伏一人來て、和田が鎧冑馬物具の色、よく敎て討せし由を記せし書もあり、淸秀斯く思ひ謀りて、命を捨て、討得て免れしこと、勇と謀と又水練たりしとかや、是等の事ども、如何なる神助よりも奇特の事にや、まして、此時年尙若かりぬべし、世の人、斯く眼のあたりの奇異の振舞をば、如何にとも思はず、言葉を飾り、事を神にす、愚なる事の一條なり、又此時淸秀和田が名に點かけて、家に歸り、我妻に向ひ、事の由を語りて、生きて再ひ歸りなば、又こそ見參すべけれと、云ひしに、妻いさゝかも、欺きたる氣色もなく、さらば軍の首途、祝ひ給へとて、海老の羹もの薦め、酒もりして出立ちしと云ふ、これも女には珍しき事にや、
又其嫡子藤兵衞尉秀政を婿君となされ、播磨國三木の城をぞ賜ひける、同き十年五月、淸秀明智長岡池田等と、山陽道の先陣を承て、攝津國に歸る、斯る所に、六月二日、織田殿御父子、都にて明智光秀が爲に討れ給ひ、筑前守秀吉も、山陽道より馳せ上り、尼が崎に會合して、三七殿と初めまゐらせ、丹羽池田等と、軍評定して、光秀を誅せんとす、淸秀二陣に定まる、同十三日、山崎の合戰に、眞先懸て、光秀が軍勢を討破り、光秀終に討れてけり、今日の戰、淸秀が功、第一なりければ、三七殿自ら淸秀が手を取て、今日の功、いつの世にかは忘れんと、涙を流して仰せけり、此時秀吉は、肩輿に乘ながら、瀨兵衞骨折々々と云て過く、淸秀此を見て、はや筑前守、天下を掌にせんと思ふ色、既に面に顯れたりと云しとかや、
程なく、羽柴柴田が軍起り、明れば十一年二月、淸秀秀吉の方人して、近江國志津嶽のあなた、餘語の湖の邊に陣を取る、佐久間玄蕃允盛政が爲に襲はれ、軍兵餘多討れて、自も散々に戰ひ、近藤無一に討れたり、嫡子藤兵衞尉秀政、初め信長の姫君に添ひ參らせ、播磨國三木の城を賜り、其後羽柴殿に隨ひ、叙爵して右衞門大夫に任す、系譜に見ねし所、かくの如し、世には父が跡を繼き茨木の城、領せし樣に傳ふ此後筑紫關東の軍に隨ひ、文祿元年、朝鮮に押渡て、王城に攻め入る、水原と云ふ所に、要害を搆て籠り、明れば二年、或日軍中の徒然に、供人少々引具し、鷹狩して遊ぶとて、朝鮮の伏兵の爲に、討れ死す、生年二十五歲と聞えたり、按するに秀政が事は、大明の書にも見えたり、家人等驚き、有の儘に申さんには、太閤の御氣色よからず、我家必ず亡ぶべしと僉議し、秀政要害の地に城郭を搆へんがため、自ら出て、よからん地を巡り見る所に、朝鮮の伏兵に、出合て戰死すとぞ告たりける、頓て舍弟秀成に、三木の城賜て、秀政が世嗣となさる、此年五月、大友左兵衞督義統、罪を蒙りて、豐後の地、闕國と成りしかば、御家人等に分ち賜ふ、竹田の城をば秀成に賜て移りにける、七万四百石其後叙爵して修理大夫になさる、初の名小兵衞同き四年、朝鮮に押渡り、大明の兵と戰ひ、討ち破て、其身も痛手を負ひ、高名顯して歸朝す、太閤薨し給ひ、東西の軍起り、修理大夫秀成、德川殿の御方として、同國臼杵の城に軍勢を差向け、太田飛驒守政信と戰ふ、關が原の合戰、上方の軍敗れぬと聞て、太田は城を去てけり、秀成年四十二歲、慶長十七年八月十四日卒す、其子内膳正久盛、初名秀征家を繼く、大坂の軍起りし時、馳せ向て城を攻む、再ひ兵起りしには、參るに及はず、承應二年三月十八日、六十歲にて卒す、其子山城守久淸、家を繼き、寛文六年四月晦日、致仕入道して入山と號す、其子佐渡守久恒、父が所領を讓らる、