修理大夫源秀成は、瀨兵衞尉淸秀が二男、右衞門大夫秀政には弟なり、祖父佐渡守重淸、元は桓武の平氏なり、鎭守府將軍平良文が六代、秩父下野權守重純が三男、高山三郞重遠が末孫、世々常陸國に住す、重淸が時に至り、都に上り又攝津の國に趣く、當國多田の源氏、左衞門尉淸村が末葉、中川左衞門尉某、己が娘に重淸に配せて、其家讓りしかば、本姓改て源氏となり、中川とは名乘たり、天正元年七月1、將軍義昭、織田信長と、御不快の事起る、近江國甲賀の住人和田伊賀守惟政、將軍の御方として攝津國に陣す、信長和田を始として、敵の大名、悉く榜に記し、何某々々が首とりたらんには、賞行はれんこと、如何程々々と書て、陣頭に立てられたり、一說に此榜は荒木攝津守村重が、建てしとも云なり、瀨兵衞尉淸秀、此時は織田殿の大將荒木攝津守村重が手に屬す、此榜を打見て、筆執て、和田が名の上に點をかく、見る人奇異の思をなす、此夜子の刻計りに、終に伊賀守惟政が首とつて、見參にこそ入れにけれ、村重大に驚き、如何で和田をば、かく容易く討てありつると問ふ、淸秀さん候、淸秀心に思ひけるは、敵味方の戰、明日に决すべし、さらば討るゝ者、互に少かるべからず、明日同しく死せん命、此夜の中に、捨てなんには、和田が首、取得ん事、いと安かるべし、敵一定明日の戰を、大事にや思ふべき、定て此夜物馴たらん兵をして、淀川の淺深を踏み見んに、惟政さる大將なり、物見の輩をのみ、賴むべからず、必ず自らも來り見ん、大將の出立は、疑ふ所あるべからず、あはれ打取て、くれんず物を、たとへ惟政が首とり得ず、討れたらんにも、多くの敵の中に入て、大將の首取らんとて、討死して候はんは、佳名は朽ちじと思ひ定め、敵近付かぬ先に、川渡て伺はんと、水を渡り、あなたの岸の柳陰に、伏し隱れて待つ、案の如く、和田二陣に控へて出て來る、淸秀密に彼陣に紛れ入り、終に首を打取て、水中に飛入り、遁れ出て參りぬと申ければ、聞く人大に感じあへり、
- 天正元年七月 — 底本のまま。和田惟政が中川清秀に殺された白井河原の戦いは通説では元亀2.8.28(1571)で、天正元年の義昭·信長対立の記事に結びつけたのは時点が合わない