大坂前後の戰に、
將軍家に隨ひ奉り、
元和六年八月九日、本領賜ひて、再び
柳河の城に還住す、
十万八千石改て
飛驒守に任す、
寛永十四年の十月、
肥前の國天草1の凶徒、追討の爲、子息
左近將監忠茂具して、馳せ向ひ、
明る十五年の冬、致仕入道して、
立齋と號し、
同き十九年十一月廿五日、七十六歲にて卒す、
侍從忠茂宗茂が世嗣、實は
主膳正直次が二男、伯父
宗茂が家を繼く、初め
元和八年十二月廿六日元服し、
將軍家の御諱字賜ひ、從五位下に叙し、
左近將監に任す、
天草の賊徒起りし時、父と共に馳せ向ひ、父が讓り受て後、
寛永十八年正月元日、從四位下に叙し、
正保四年六月、
佛郞國の蕃舶、
肥前國硫黃が島に着く、
忠茂鎭西の人々と同しく、兵船を揃へて、彼舶を圍む、賊船にあらされば、彼舶をば返されたり、
明曆三年十二月廿七日、
侍從に任し、
萬治二年十二月、
飛驒守に任し、
寛文四年閏五月七日、致仕入道して、
好雪と號し、
延寳三年九月十八日、六十四歲にて卒す、嫡子
左近將監直茂、
萬治二年十二月廿七日從五位下
左近將監になされ父が讓を受て後、
寬文四年十二月廿八日、從四位下に叙し、
飛驒守になる、二男
彈正貞晟、父が所領分賜ひぬ、
直茂に十万九千石餘、弟直晟に五千石を分つと云主膳正源種次は、故
主膳正直次が嫡男なり、
直次實は
豐後の
大友が家人
高橋主膳正鎭種入道紹運が男とぞ聞えける
初め高橋彌七郞統增と申けり後に主膳正直次と云ふと九州記に出づ抑も
高橋が家と申は
大藏朝臣春實の末葉にて
足利殿の御時、すゑ置かれし筑紫三撿斷の一なり、
建武年中尊氏卿、
都の戰ひ利なくして、
筑紫の地に落ち下り、軍勢を催し、攻め上り給ひし時、
九國の
守護として、
仁木一色高橋を止めらる、
高橋光種始て此職になされしより、子孫打續きて、撿斷の職に在り、名字の地なれば、
筑後の國高橋に城を搆て住す、其子孫又要害の地を擇て、
筑前國岩屋寶滿山に移る、
大友が家起るに從ひ、三撿斷の家悉く其威を失て、
鎭西の國人等、多くは
大友が被官となる、
天文の末に及んでは、
仁木一色絕え果て、
高橋計りぞ殘りける、
光種が七代の孫
長種、死して嗣なし、
高橋が家の子、
屋山北原福田伊東の者共、
大友に一族乞て主の家繼がせんとす、
左衞門督義鎭、此由を聞て、一族
一萬田左京大夫が男に、彼家を繼がせ、
高橋三河守大藏鑑種と名乘らせ、
永祿二年四月十日、
寶滿岩屋は、彼家の本城なればとて、二千餘町の地を附て賜び、
筑前十五郡の事を執行はしむ、其後
一萬田罪なうして、忽に誅せらる、
鑑種義鎭を恨みて、
永祿十年の春、
寶滿の城に立籠り、
安藝の
毛利に謀を通じ
大友に背く、
義鎭安からぬ事に思ひ、軍勢を差向て城を攻む、
同き十二年の正月、
多々良濱の戰に、
毛利が勢かけ負て、
鎭種力を2失ひ、終に降人に成て出づ、本領は悉くに沒收せられ、僅に
豊前國企救一郡を賜り、
小倉の城に遷され、入道して
宗專とぞ號しける、
宗專が家子
北原伊賀守鎭久、已が主恨む事あつて、國を去り、
大友に參て、主にて候ふ
入道、
屋形を恨みまゐらすこと、猶も怠らず、此定にては
入道が家滅ひんこと遠らず、あはれ御一族を賜て、別に
高橋の家起し候ばやと望む、
義鎭入道宗麟、大に悅び、
元龜元年、
吉弘左京大夫鑑理が舍弟
主膳兵衞鎭理に、
高橋が本領
御笠の郡賜て、
岩屋寶滿二つの城を守らす、
鎭理其年廿三歲、
高橋主膳正大藏鎭種と名乘て、
此より高橋兩家なり未だ年三十に滿たずして入道し、
紹運と號し我身は
岩屋の城に在り、子息
彌七郞、
寶滿の城を守る、
天正十三年九月十三日の夜、
筑紫上野介廣門が爲に、
寶滿の城を襲はれ、敵城中にみち〱、防くべき力なく、家子郞等
彌七郞を守護して、
岩屋の城に落ち去りぬ、
明る十四年七月十日、
筑紫も又
島津が爲に攻られて、
勝尾の城を落され、降人になつて出づ、此時を窺つて、
高橋再び
寶滿の城に入る、
時に彌七郞十五歲と云ふ同き月廿七日、父の
入道紹運、
島津が勢に攻められ、
岩屋の城落され、家子郞等八百餘人討死し、
入道も自害しぬ、
三十九歲敵又
寶滿の城に押寄せ、
高橋をたばかつて生捕にこそしたりけれ、
島津が家譜には、此等の事天正十三年の事とせり、明れば
十五年の秋、
豊臣關白、
鎭西を平げ給ひし時、
島津が許より、
高橋を召され、父
入道、
殿下の御爲に、己が城を守て主從殘らず討死を遂けしこと深く感じ仰せられ、
九國政務の事始に、
筑後の國三池郡、
高橋に賜り、叙爵して
主膳正にぞ任じける、
朝鮮の軍起りて、彼國に押し渡り、此處彼處に戰ひ、
石田三成等が亂の時、
伏見の城を攻め落し、
大津の城をも攻めにけり、舍兄
立花左近將監宗茂も、
上方に與みしければ、兄弟同しく本領を沒収せらる、
慶長八年の春、
將軍家宗茂直次兄弟を召されて、所領の地賜り、
直次常陸國筑波郡柿岡の地を領しけり、五千又汝等二人兄弟たり、同じ名字に改めよと仰せ下さる、
直次是より
源氏になつて
立花と名のり、
大坂前後の戰に
將軍家に隨ひ奉る、
元和六年の秋、
宗茂本領賜ひし時、
直次も同しく召さる、病既に急にして參らんずるに叶はず、幾程なくして卒す、
明る七年の春、嫡子
種次を召して本領を賜ひ、再ひ
筑後國三池の郡を領し、
一万石叙爵して
主膳正に任し、年廿七歲にて卒す、
年月また聞かず其子
和泉守種長、父に繼き致仕入道して
道運と號し、七十歲にして卒す、其子
主膳正種明家を讓らる、