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立花

第八下 · 단락 6 · 780524 29코마 R부터

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左近將監源宗茂は、筑前國の住人立花丹後守鑑連入道道雪が男也、立花大友、同じ流の源氏とこそ聞えけれ、彼等が先祖大友左近將監能直は、掃部頭中原の親能が子謂ゆる齋院の次官なり實は右大將賴朝卿の御子、母は大友四郞大夫經家が娘なり、能直鎭西の奉行として、初て豐後國に下向す、其子利根二郞親秀、大炊助に任ず、親秀四代の孫左近將監貞宗、二人の男子あり、兄は左近將監貞載、弟は式部亟氏泰、是より兩家相別れて、貞載が流、筑前國に在て立花と名乘り、大友が被官となる、氏泰が流は、本國に住して、豐後の大友とは申けり、貞載建武四年正月十一日2、楊梅東洞院の戰に、結城判官親光を討て、將軍尊氏卿の御感を蒙る、吉光の脇差を賜ひしとなり然りとは申せども、貞載又痛手負て、同き十四日に死してけり、其子左近將監宗匡1、父に繼て、筑前國立花の城に在り、丹後入道道雪は、宗匡が七代の孫なりけり
  1. — 인명 지면 그대로. 사실관계 미확인
  2. — 지면 그대로. 楊梅東洞院 싸움에서 立花貞載가 結城親光을 친 것은 통설 建武3.1.11(1336)
是れその系圖に見えし所なり、貞宗が子息、如何なれば兄は立花と名のり、弟は家を繼きしにや、思ふに貞載死して後、其子幼なければ、弟の氏泰、家を繼きしにや、如何さま故あるべし、世遠くして、精しき事を知らず、又世に傳ふる所は、左近將監宗茂は、道雪入道が實の子にはあらず、高橋主膳入道紹運が嫡子なり、此紹運も誠は大友が一族、高橋の家つぎしなり、精しき事は、此下に見えたり、初め天正九年嘉麻穗波の戰に、戶次丹後入道道雪、紹運入道が嫡子生年十六歲にして、軍せし樣を見て、此子勇士の器なることを相して、明れば天正十年に、彼が父紹運に請ひ受て、己が世嗣とす、これ左近將監宗茂なりと云ふ、又道雪を戶次入道と云ふ、立花山の城に在れば立花と云ひしと云ふ、系圖には見えず
宗茂初めは統虎と名乘大友義統名の字を與へしにや天正十三年九月十一日、父の入道年積て七十三歲、筑後國高良山の陣中にて病死せり、統虎家を繼きて、立花山の城に在り、明れば十四年の秋、今歲の七月、統虎が實父紹運も、島津が爲に討れ死すと云ふ嶋津が多勢、豐後國に發向して、我が城の邊り近く打過く、統虎城より打て出で戰ひ、首餘多斬て引返し、又高鳥居の城を攻め破り、城の大將星野兄弟を先として、首數百切て捨つ、豐臣關白この由を聞召し、當時嶋津が軍勢、大友が國々に攻め入て、此處彼處の城々、落されしに、統虎僅の勢を以て、己が城落されぬだに、双なき高名にあんなるを、ましてや多勢の敵を破ること一度ならず、尤神妙の至なりと、御敎書を賜て賞せらる、十五年の秋、九州二島悉く平きしかば、統虎頓て御家人に召加へられ、筑後の國下三郡の地附て、柳河の城賜り、十三万石餘と云左近將監になされ、名改めて宗茂と名のる、今年肥後國に凶徒起り、守護人佐々に背く、宗茂佐々に加勢し、凶徒等一々討ち滅し、彼國を平く佐々陸奧守成政、此時に罪を蒙りて誅せらる、十六年宗茂上洛す、殿中御前近く召され、されば去年汝に肥後國賜らんとせしかども、汝が家子郞等、嫌ひ申すと聞えしかば賜らず、此度の勸賞に、四國九國の中にあらん闕國、望み申せ、汝が乞ひに因て賜るべしと仰せらる、宗茂畏て、宗茂只今殿下の御恩蒙りて、手の軍勢三千餘人、假令いかなる御大事あらんにも、一方を承らんに、勢に不足は候はじ、されば又國も郡も更に望み申さんとも覺えず、天晴今生の思出に、殿上の仙藉を許され候はゞやと望みしかば、關白大に御感あつて、頓て執し申させ給ひしかば、從四位下して侍從にこそはなされけれ、關白殿常に東國に本多平八郞忠勝あり、鎭西に立花左近將監宗茂あり、天下一双の勇士なりと感し仰せられしとなり
文祿の初め、朝鮮に押渡つて大明の總督李如松が軍を討破り、三國に名を顯す、慶長五年の秋、大坂の催促に隨ひ、軍勢を引具し伏見の城を攻め破り、勢田の橋を固め、大津の城を攻落す、關が原の戰、味方の軍敗れぬと聞て、本國に引返し、己が城に立籠る、鍋島が軍勢押し寄すと聞て、城中より打て出で、散〱に防き戰ふ、斯る所に、黑田入道如水、加藤肥後守清正、馳せ來て兩陣に使立て、互の戰を止め、二人宗茂に向て樣々に敎訓し、城をば清正が兵を止て守らせ、宗茂に先陣うたせて、薩摩國に發向し、肥後と薩摩との間なる佐敷水股に陣を取る、島津義久入道龍伯、既に降を乞ひぬれば、戰を决するに及ばず、引き返す、黑田加藤、自らの勳賞に申換へて歎きしかば、宗茂が罪を宥められて、所領をば悉くに收公せらる、其後關東に伺候して將軍家に近侍し、御咄の衆十二人の第一たり、陸奧國にして所領の地下し賜ふ、
奧州南鄕三萬石の地、慶長十八年に下賜ひしと云ふ、又創業記に關東にて二萬石を賜ふと云々、又一說には慶長十五年七月廿七日、陸奥國棚倉にて一萬石を賜と云ふ、何れか誠なるか、又一說に宗茂本國を失ひ、肥後の高瀨と云ふ所に留滯し、明年の春上洛す、京に在ること三年の後、慶長八年關東に下り、高田の寶泉寺に寄住し、其後將軍家に召出され、駿河に參りて、御書院番頭になされ、三萬石を賜るべしとありしに、大御所、古き功の者なれば、所領の多少は、存ずまじ、何方にても城を賜るべけれと、仰せ出されしかば、奧州棚倉の城に一萬五千石付て賜りしといふなり、
大坂前後の戰に、將軍家に隨ひ奉り、元和六年八月九日、本領賜ひて、再び柳河の城に還住す、十万八千石改て飛驒守に任す、寛永十四年の十月、肥前の國天草1の凶徒、追討の爲、子息左近將監忠茂具して、馳せ向ひ、明る十五年の冬、致仕入道して、立齋と號し、同き十九年十一月廿五日、七十六歲にて卒す、侍從忠茂宗茂が世嗣、實は主膳正直次が二男、伯父宗茂が家を繼く、初め元和八年十二月廿六日元服し、將軍家の御諱字賜ひ、從五位下に叙し、左近將監に任す、天草の賊徒起りし時、父と共に馳せ向ひ、父が讓り受て後、寛永十八年正月元日、從四位下に叙し、正保四年六月、佛郞國の蕃舶、肥前國硫黃が島に着く、忠茂鎭西の人々と同しく、兵船を揃へて、彼舶を圍む、賊船にあらされば、彼舶をば返されたり、明曆三年十二月廿七日、侍從に任し、萬治二年十二月、飛驒守に任し、寛文四年閏五月七日、致仕入道して、好雪と號し、延寳三年九月十八日、六十四歲にて卒す、嫡子左近將監直茂、萬治二年十二月廿七日從五位下左近將監になされ父が讓を受て後、寬文四年十二月廿八日、從四位下に叙し、飛驒守になる、二男彈正貞晟、父が所領分賜ひぬ、直茂に十万九千石餘、弟直晟に五千石を分つと云主膳正源種次は、故主膳正直次が嫡男なり、直次實は豐後の大友が家人高橋主膳正鎭種入道紹運が男とぞ聞えける初め高橋彌七郞統增と申けり後に主膳正直次と云ふと九州記に出づ抑も高橋が家と申は大藏朝臣春實の末葉にて足利殿の御時、すゑ置かれし筑紫三撿斷の一なり、建武年中尊氏卿、都の戰ひ利なくして、筑紫の地に落ち下り、軍勢を催し、攻め上り給ひし時、九國の守護として、仁木一色高橋を止めらる、高橋光種始て此職になされしより、子孫打續きて、撿斷の職に在り、名字の地なれば、筑後の國高橋に城を搆て住す、其子孫又要害の地を擇て、筑前國岩屋寶滿山に移る、大友が家起るに從ひ、三撿斷の家悉く其威を失て、鎭西の國人等、多くは大友が被官となる、天文の末に及んでは、仁木一色絕え果て、高橋計りぞ殘りける、光種が七代の孫長種、死して嗣なし、高橋が家の子、屋山北原福田伊東の者共、大友に一族乞て主の家繼がせんとす、左衞門督義鎭、此由を聞て、一族一萬田左京大夫が男に、彼家を繼がせ、高橋三河守大藏鑑種と名乘らせ、永祿二年四月十日、寶滿岩屋は、彼家の本城なればとて、二千餘町の地を附て賜び、筑前十五郡の事を執行はしむ、其後一萬田罪なうして、忽に誅せらる、鑑種義鎭を恨みて、永祿十年の春、寶滿の城に立籠り、安藝の毛利に謀を通じ大友に背く、義鎭安からぬ事に思ひ、軍勢を差向て城を攻む、同き十二年の正月、多々良濱の戰に、毛利が勢かけ負て、鎭種力を2失ひ、終に降人に成て出づ、本領は悉くに沒收せられ、僅に豊前國企救一郡を賜り、小倉の城に遷され、入道して宗專とぞ號しける、宗專が家子北原伊賀守鎭久、已が主恨む事あつて、國を去り、大友に參て、主にて候ふ入道、屋形を恨みまゐらすこと、猶も怠らず、此定にては入道が家滅ひんこと遠らず、あはれ御一族を賜て、別に高橋の家起し候ばやと望む、義鎭入道宗麟、大に悅び、元龜元年、吉弘左京大夫鑑理が舍弟主膳兵衞鎭理に、高橋が本領御笠の郡賜て、岩屋寶滿二つの城を守らす、鎭理其年廿三歲、高橋主膳正大藏鎭種と名乘て、此より高橋兩家なり未だ年三十に滿たずして入道し、紹運と號し我身は岩屋の城に在り、子息彌七郞、寶滿の城を守る、天正十三年九月十三日の夜、筑紫上野介廣門が爲に、寶滿の城を襲はれ、敵城中にみち〱、防くべき力なく、家子郞等彌七郞を守護して、岩屋の城に落ち去りぬ、明る十四年七月十日、筑紫も又島津が爲に攻られて、勝尾の城を落され、降人になつて出づ、此時を窺つて、高橋再び寶滿の城に入る、時に彌七郞十五歲と云ふ同き月廿七日、父の入道紹運、島津が勢に攻められ、岩屋の城落され、家子郞等八百餘人討死し、入道も自害しぬ、三十九歲敵又寶滿の城に押寄せ、高橋をたばかつて生捕にこそしたりけれ、島津が家譜には、此等の事天正十三年の事とせり、明れば十五年の秋、豊臣關白、鎭西を平げ給ひし時、島津が許より、高橋を召され、父入道、殿下の御爲に、己が城を守て主從殘らず討死を遂けしこと深く感じ仰せられ、九國政務の事始に、筑後の國三池郡、高橋に賜り、叙爵して主膳正にぞ任じける、朝鮮の軍起りて、彼國に押し渡り、此處彼處に戰ひ、石田三成等が亂の時、伏見の城を攻め落し、大津の城をも攻めにけり、舍兄立花左近將監宗茂も、上方に與みしければ、兄弟同しく本領を沒収せらる、慶長八年の春、將軍家宗茂直次兄弟を召されて、所領の地賜り、直次常陸國筑波郡柿岡の地を領しけり、五千又汝等二人兄弟たり、同じ名字に改めよと仰せ下さる、直次是より源氏になつて立花と名のり、大坂前後の戰に將軍家に隨ひ奉る、元和六年の秋、宗茂本領賜ひし時、直次も同しく召さる、病既に急にして參らんずるに叶はず、幾程なくして卒す、明る七年の春、嫡子種次を召して本領を賜ひ、再ひ筑後國三池の郡を領し、一万石叙爵して主膳正に任し、年廿七歲にて卒す、年月また聞かず其子和泉守種長、父に繼き致仕入道して道運と號し、七十歲にして卒す、其子主膳正種明家を讓らる、
  1. — 지면 그대로. 天草는 肥後国. 島原·天草 일揆를 한데 부른 것으로 보임
  2. — 지면 그대로. 여기 「鎭種」은 永禄12年 항복한 高橋鑑種을 가리키므로 같은 쪽 앞의 「鑑種」과 어긋남. 「鑑種」의 저본 오식으로 보임(紹運의 실명 鎮種과 혼동한 듯)