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加藤清正
본문 표기 清正・加藤主計頭清正・加藤・加藤肥後守清正・虎之助・淸正・加藤淸正・加藤主計頭淸正・肥後守清正加藤・肥後守藤原清正・主計頭清正・肥後守清正
水野 第三 · 1
- p003…千石を領すと云々かしこを出て、また人を切て迯去ともいふなり、加藤主計頭清正が家にゆきて仕ふ、千石を領すと云又こゝをも去りて、こゝにても、人…
榊原 第四上 · 1
- p005…康勝加藤淸正が娘に相具してけれど、それには子なくして、妾の腹に男子一人あり、平十郞と…
加藤 第七下 · 2
藤堂 第七下 · 1
- p001…ら財を以て城の層樓造り出して奉る、世に殿主といふなり、十六年の夏、加藤肥後守清正卒し、息男未だ幼稚なりければ、高虎仰を承り、肥後の國に趣き、彼の國務を沙…
嶋津 第八上 · 6
- p003…を止む、頓て本國に引返へす、程なく福嶋左衞門大夫正則、淺野彈正少弼長政、加藤主計頭清正、肥後の國に下りて、國人等悉く誅せらる、宇土修理亮顯孝が舍弟顯輝、また宇…
- p003…父子の妻子、悉く取て、船五十餘艘に取乘り、日向の國に着きにけり、去程に、加藤肥後守清正、關東の御方として、同國宇土の城を攻む、小西攝津守行長が城なり、嶋…
- p003…西攝津守行長が城なり、嶋津が軍勢、また小西を助けて、肥後の國に向ひ、清正が佐敷の城を攻む、清正宇土を攻め落し、八千人を率ゐて、先陣し、黑田如水入…
- p003…、嶋津が軍勢、また小西を助けて、肥後の國に向ひ、清正が佐敷の城を攻む、清正宇土を攻め落し、八千人を率ゐて、先陣し、黑田如水入道、三千人にて後陣を打…
- p003…、關が原の軍、破れぬと聞て、嶋津か軍勢、佐敷の城より引き返へす、龍伯敢て加藤黑田に向つて軍せず、福嶋左衞門大夫正則に就て訴へけるは、義久初より德川殿…
- p003…め訖んぬ、御下知を待て、速に嚴科に處すべき所なりと申す、さらばとて、まづ加藤黑田が軍勢をば、召返へさる、其後龍伯入道、大坂に馳せ上りて、罪なきよし申…
鍋島 第八上 · 4
- p006…文祿の初より、朝鮮の事起る、直茂加藤主計頭清正と共に、先陣を承り、王城に攻め入て、咸鏡道を打從へ、和親の事、破れし後、…
- p006…留米の城を降して、侍從秀包が居城なり、柳川に向ひ、立花と戰ふ、黑田加藤、柳川に馳せ來り、兩陣に使たてゝ軍を制し、立花を勸めて降參させ、加藤が兵…
- p006…黑田加藤、柳川に馳せ來り、兩陣に使たてゝ軍を制し、立花を勸めて降參させ、加藤が兵して、彼の城を守らせ、清正如水、鍋島立花の軍勢を押合せ、薩摩の國に發…
- p006…に使たてゝ軍を制し、立花を勸めて降參させ、加藤が兵して、彼の城を守らせ、清正如水、鍋島立花の軍勢を押合せ、薩摩の國に發向す、嶋津また降を乞ひぬれば、…
立花 第八下 · 3
大村 第九下 · 3
蒲生 第十二上 · 1
- p003…いふ者を討ちぬ、宗徒の家人等此事を訴へしかば、四郞兵衞は肥後國に流されて加藤主計頭清正に預けらる、石田に親しかりしに因て死刑を免かれしなり此秀行の母上は…
福嶋 第十二上 · 1
- p007…せ參る、十六年三月豐臣家上洛あつて大御所に御見參の時、侍從輝政池田肥後守清正加藤紀伊守幸長淺野三人御供に參りしに、正則は病氣と稱して大坂に殘り止…
加藤 第十二上 · 56
- p001…肥後守藤原清正は初の名は虎之助、生國は尾張國の人、豐臣太閤の外戚に就きて親しかりき…
- p001…肥後守藤原清正は初の名は虎之助、生國は尾張國の人、豐臣太閤の外戚に就きて親しかりき…
- p002…討死す、其子彈正清忠同國愛知郡中村に住し三十八歲にて死す、三歲の幼子あり虎之助と云ふ、これ清正なり、母は秀吉の母と從弟なり、其頃秀吉江州長濱にて五万石…
- p002…忠同國愛知郡中村に住し三十八歲にて死す、三歲の幼子あり虎之助と云ふ、これ清正なり、母は秀吉の母と從弟なり、其頃秀吉江州長濱にて五万石を領し給ひしに、…
- p002…なり、母は秀吉の母と從弟なり、其頃秀吉江州長濱にて五万石を領し給ひしに、虎之助五歲の時、母長濱に具し行きて賴みしかば、秀吉の母の許にて人となり、十五歲…
- p004…此時清正十九歲なり、所領の地百石を加へられしと云ふ也、さらば清正の卒せし年は四十…
- p004…此時清正十九歲なり、所領の地百石を加へられしと云ふ也、さらば清正の卒せし年は四十九歲にてやありけん、世に傳ふる所の如きは五十一歲にして、…
- p005…叙爵して主計頭に任す、十六年閏五月肥後の守護佐々陸奥守成政が國除きし跡、主計頭清正小西攝津守行長二人に分ち賜ひ、各三十万石といふ清正熊本の城に入る此…
- p005…除きし跡、主計頭清正小西攝津守行長二人に分ち賜ひ、各三十万石といふ清正熊本の城に入る此年の冬國人等が立籠りたる志岐天草の城、皆攻め破て一國を平…
- p005…に入る此年の冬國人等が立籠りたる志岐天草の城、皆攻め破て一國を平均しぬ、清正一生の武略多き中にも、文祿の初太閤朝鮮を討たれし時、鍋島相良の人々と咸鏡…
- p005…中にも、文祿の初太閤朝鮮を討たれし時、鍋島相良の人々と咸鏡道に攻め入り、清正一勢猶進みて北道兵使韓克誠を鏡城に虜にし、世に傳ふる節度使はこの韓克…
- p005…と聞えしかば、朝鮮の君臣大に愁へ、大明の將士大に恐る、此時大明の馮仲纓清正の陣に使たりしとも云ふ也かゝる所に日本大明和親の事起りて、王城に在り…
- p005…事起りて、王城に在りし味方悉くに釜山港に引返し、兩王子をも朝鮮に返さる、清正和親事ゆくべからず、我功必空かるべしと思ひ、おのが一勢安康を打破り又味方…
- p005…のが一勢安康を打破り又味方の人々と晋州を攻め落す、初め朝鮮を討たれしに、加藤主計頭清正小西攝津守行長、二人を先陣と定めらる、行長最初に王城に入る事を得たれども…
- p005…に入る事を得たれども、平壤の城を落され、散々に打成されて王城に引き返す、清正は北道を打破り兩王子を生捕つて、太閤の御感斜ならず、行長深く耻ち憤り、石…
- p005…を生捕つて、太閤の御感斜ならず、行長深く耻ち憤り、石田治部少輔三成と謀て清正を失はんとす、三成また年ころ清正と間よからねば、小西と心合せて清正が事を…
- p005…行長深く耻ち憤り、石田治部少輔三成と謀て清正を失はんとす、三成また年ころ清正と間よからねば、小西と心合せて清正が事を讒言す、太閤三成が申す旨に依つて…
- p005…と謀て清正を失はんとす、三成また年ころ清正と間よからねば、小西と心合せて清正が事を讒言す、太閤三成が申す旨に依つて、清正を誅せられんが爲に、本朝に召…
- p005…間よからねば、小西と心合せて清正が事を讒言す、太閤三成が申す旨に依つて、清正を誅せられんが爲に、本朝に召返さる、慶長元年七月廿八日清正大坂に着て伏見…
- p005…す旨に依つて、清正を誅せられんが爲に、本朝に召返さる、慶長元年七月廿八日清正大坂に着て伏見に參り、おのが家に籠り居り、閏七月十二日の夜半、大地夥しく…
- p005…夜半、大地夥しく震ひて、畿內畿外悉くに山崩れ水涌きて、伏見の城破れ崩る、清正最初に馳せ參て嚴しく警衞したりければ、太閤の御感を蒙て遂に罪ゆるされぬ、…
- p005…れば、太閤の御感を蒙て遂に罪ゆるされぬ、案の如く和親事破れ、同き二年七月清正行長また先陣承て、王城近く攻め入る、十月八日慶尙道に引返し、蔚山の城を築…
- p005…二千五百人都合四万七千八百廿六人也さるをかく事ゝしく言傳へしなり清正淺野左京大夫幸長太田飛驒守一吉等と、僅かなる勢を以て、日々夜々に防き戰ひ…
- p005…打破れば、城中の兵は希有にしてこそ助かりけれ、蔚山の事諸記まち〱なり又清正が朝鮮にての武功數ふるに暇なければ大略をしるしぬされば朝鮮の軍…
- p005…り、兵連なること前後七箇年の間、本朝の人々所々の戰功皆取り〱なりしかど、清正一人大明朝鮮のために、名を呼ばれ或は詩に作りて謠ひ、或は神となして祭らる…
- p005…る弓矢とつての譽古今に並ふ者ぞなき、按するに大明萬曆よりこのかたの書に、清正が名を稱する事擧けて數ふべからず、崑山の王志堅といふ者は、倭王と稱して歌…
- p005…て人像を造り、是を射て海に鎭む、彼國の人は秘しぬれども、よく聞けば是れは清正を咒咀する事にてありけり、その人像は清正にかたどる、彼國の能く射る者とい…
- p005…は秘しぬれども、よく聞けば是れは清正を咒咀する事にてありけり、その人像は清正にかたどる、彼國の能く射る者といへど、恐れて終に中つる事叶はず、いづれの…
- p005…射て中てたりしを、双なき高名といひけるに、忽ち物に狂つて飛ひ走る、其親戚清正を祭ていろ〱と罪を謝しければ、其後人心地にはなりぬ、此後人いよ〱恐れて中…
- p005…水營の戰艦共海に泛みしに、海上風忽に吹き落て波わき艦多く摧け破れぬ、これ清正の崇りなりとて、大に恐れしといふ事を、對馬の國人に窃かに承りぬ、…
- p006…き三年八月太閤薨し給ひ、此年十月に至て本朝の軍勢悉くに歸りぬ、是より行長清正と功を爭て訟起り、清正等七人の大名一つに成て、石田治部少輔三成を討たんと…
- p006…、此年十月に至て本朝の軍勢悉くに歸りぬ、是より行長清正と功を爭て訟起り、清正等七人の大名一つに成て、石田治部少輔三成を討たんとす、德川殿中和らけ給ふ…
- p006…奧の中納言景勝を討ち給ふ時、大坂の軍起りて德川殿を滅し參らせんとす、此時清正關東に使參らせて、御方仕るべき由を申せしかば、德川殿悅ばせ給ひ肥後國悉く…
- p006…賜ふ所の御書の寫を見たり、津田小平治佐々淡路守仰を傳ふべき由を載せらる、清正この二人に就きて、御方たるべき由を申しけるにや、〇世には清正初め山岡道阿…
- p006…を載せらる、清正この二人に就きて、御方たるべき由を申しけるにや、〇世には清正初め山岡道阿彌に就きて、德川殿の奧に下り給はん事を諫め止め參らせ、上方に…
- p006…ん事を諫め止め參らせ、上方に軍起るべき由を申しけるに、德川殿用る給はず、清正は急き本國に歸て九州を鎭むべしと仰せらる、清正重て奧に向ふべしと望む、御…
- p006…けるに、德川殿用る給はず、清正は急き本國に歸て九州を鎭むべしと仰せらる、清正重て奧に向ふべしと望む、御許し無ければ、急き本國に歸ると云々、此說覺束な…
- p006…む、御許し無ければ、急き本國に歸ると云々、此說覺束なし、初め慶長四年の春清正等が石田討たんとせしを、德川殿制し給ひしより、清正と德川殿との間心好から…
- p006…なし、初め慶長四年の春清正等が石田討たんとせしを、德川殿制し給ひしより、清正と德川殿との間心好からず、同じ秋加賀の利長國へ歸りし後、清正も肥後の國に…
- p006…給ひしより、清正と德川殿との間心好からず、同じ秋加賀の利長國へ歸りし後、清正も肥後の國に歸る明れば五年の夏六月六日、景勝討たるべき由を仰せ下されて、…
- p006…六日、景勝討たるべき由を仰せ下されて、同十六日に大坂を立たせ給ひき、此時清正は大坂には在らず○又毛利傳記を見るに、東西の軍起りしかば、清正桑山式部を…
- p006…ひき、此時清正は大坂には在らず○又毛利傳記を見るに、東西の軍起りしかば、清正桑山式部を使として中納言輝元へ申さるゝは、今度內府と三成と軍起りぬ、中納…
- p006…申さるゝは、今度內府と三成と軍起りぬ、中納言殿三成に與みし給ふと承りぬ、清正大和國を一圓に下し給はらば、急き馳せ上て關東に攻め下らんには、內府に從て…
- p006…、急き馳せ上て關東に攻め下らんには、內府に從て奧に下りし上方の大名は、皆清正に與みし候ひなん、內府亡し給はん事は、清正が身一人に任せ給ふべき所也と申…
- p006…從て奧に下りし上方の大名は、皆清正に與みし候ひなん、內府亡し給はん事は、清正が身一人に任せ給ふべき所也と申さる、桑山輝元の家人に知る人なし、宰相秀元…
- p006…あつたらしき味方失ひ給ふものかな、大坂の御爲なれば、輝元增田と謀り給ひ、清正が望に任せ大和國給はらんには、御軍必利ありぬべし、此定にては清正御味方に…
- p006…り給ひ、清正が望に任せ大和國給はらんには、御軍必利ありぬべし、此定にては清正御味方には參るべからずと、いひて肥後國に歸りしと云々、此說誠なるからんに…
- p006…方には參るべからずと、いひて肥後國に歸りしと云々、此說誠なるからんには、清正初めは大坂に與みせんと思ひしかど、望かなはざりしに因て、關東に組せしにや…
- p006…めは大坂に與みせんと思ひしかど、望かなはざりしに因て、關東に組せしにや、清正が宇土の城に向ひしこと、十月八日の事なり、九月十五日關が原の戰終りし後、…
- p006…りし後、廿三日を隔つ、東國の軍勢勝軍せしを聞て後に軍せしも知らず、一說に清正軍を出せしことは、九月十五日とも申すなり、…
- p007…清正黑田勘解由入道如水と心を合はせ、關東の御方をして同國宇土八代の城を攻め落…
- p007…の御下知に依つて戰に及はず、軍をば返す兼て仰せ下されしに違はず肥後國悉く清正に下し賜ひ、肥後守になさる、五十一萬五千石、を領す同き十六年…
- p007…年三月廿八日前右大臣殿秀賴の御事上洛ありて、大御所へ參り給ふ、此日肥後守清正侍從輝政池田紀伊守幸長淺野三人御供にぞ參られける、…
- p008…此日秀賴還らせ給ふ時、伏見より御船に召さる、清正御設けして御酒勸め、御暇給はりて我家に歸り、懷よりちいさき刀取り出し鞘よ…
- p008…る事、今日既に訖んぬと獨語いひけるとなり、これよりさき大御所の仰せにて、清正が娘を常陸介殿の北の方と定められ、又將軍家の御養女を彼の男虎之助に賜ふべ…
- p008…と定められ、又將軍家の御養女を彼の男虎之助に賜ふべしと仰せ下さる、かくて清正年五十一にして此年六月廿四日に卒す、子息虎之助父に繼く、いまだ幼弱なりし…
색인은 본문을 읽고 사람·지명 등에 개체 ID를 붙인 것입니다(표본 점검 정밀도 약 98.6%). 같은 이름의 다른 사람은 괄호로 구분했고, 지면 표기가 다른 비정은 문맥 주석에 적었습니다. 자세히