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加藤

第十二上 · 단락 11 · 780526 21코마 R부터

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지명 10 8 8 7 6 4 4 4 3 2 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1

一說に御堂殿の御裔の中納言忠家の次男正家の十代の後、二郞清方が子因幡守清信、尾州犬山に住し齋藤道三に屬す、織田殿と戰ひし時討死す、其子彈正清忠同國愛知郡中村に住し三十八歲にて死す、三歲の幼子あり虎之助と云ふ、これ清正なり、母は秀吉の母と從弟なり、其頃秀吉江州長濱にて五万石を領し給ひしに、虎之助五歲の時、母長濱に具し行きて賴みしかば、秀吉の母の許にて人となり、十五歲にて元服し、百七十石の所領を秀吉より賜ひしと云ふ、
此時清正十九歲なり、所領の地百石を加へられしと云ふ也、さらば清正の卒せし年は四十九歲にてやありけん、世に傳ふる所の如きは五十一歲にして、慶長十六年に卒せしとなり、若し後の說の如くならんには、天正九年は廿一歲の時の事なるべし、
十年三月備中の國冠の城落ちし時、眞先に城に乘入り、同き年の六月山崎の合戰に先を懸け、十一年正月龜山の城にして善き敵の首を取る、近江新六といふ者五月志津が嶽の戰に先登七騎の其一にして首取つて參り、戶岐隼人が首を得たり天下に其名を揚けてけり、時に三千石の地加へ給はりしなり十三年の秋秀吉關白に成り給ひし時、叙爵して主計頭に任す、十六年閏五月肥後の守護佐々陸奥守成政が國除きし跡、主計頭清正小西攝津守行長二人に分ち賜ひ、各三十万石といふ清正熊本の城に入る此年の冬國人等が立籠りたる志岐天草の城、皆攻め破て一國を平均しぬ、清正一生の武略多き中にも、文祿の初太閤朝鮮を討たれし時、鍋島相良の人々と咸鏡道に攻め入り、清正一勢猶進みて北道兵使韓克誠を鏡城に虜にし、世に傳ふる節度使はこの韓克誠が事なり猶北道に深く入て引返し世に傳ふる兀良哈に入りしと云ふは此時の事なり又臨海順和兩王子を會寧に虜にし、我身は安邊府に在りながら、威鏡の二十二官を打從へ、平安道にも打入るべしと聞えしかば、朝鮮の君臣大に愁へ、大明の將士大に恐る、此時大明の馮仲纓清正の陣に使たりしとも云ふ也かゝる所に日本大明和親の事起りて、王城に在りし味方悉くに釜山港に引返し、兩王子をも朝鮮に返さる、清正和親事ゆくべからず、我功必空かるべしと思ひ、おのが一勢安康を打破り又味方の人々と晋州を攻め落す、初め朝鮮を討たれしに、加藤主計頭清正小西攝津守行長、二人を先陣と定めらる、行長最初に王城に入る事を得たれども、平壤の城を落され、散々に打成されて王城に引き返す、清正は北道を打破り兩王子を生捕つて、太閤の御感斜ならず、行長深く耻ち憤り、石田治部少輔三成と謀て清正を失はんとす、三成また年ころ清正と間よからねば、小西と心合せて清正が事を讒言す、太閤三成が申す旨に依つて、清正を誅せられんが爲に、本朝に召返さる、慶長元年七月廿八日清正大坂に着て伏見に參り、おのが家に籠り居り、閏七月十二日の夜半、大地夥しく震ひて、畿內畿外悉くに山崩れ水涌きて、伏見の城破れ崩る、清正最初に馳せ參て嚴しく警衞したりければ、太閤の御感を蒙て遂に罪ゆるされぬ、案の如く和親事破れ、同き二年七月清正行長また先陣承て、王城近く攻め入る、十月八日慶尙道に引返し、蔚山の城を築て城いまだ成らざるに、大明の經理楊鎬李如梅高策李芳春等、勢を率ゐ朝鮮の兵を合せて來り攻む、按するに此時大明の兵二十万と云ふ實は大明の兵三万五千三百廿六人朝鮮の兵一万二千五百人都合四万七千八百廿六人也さるをかく事ゝしく言傳へしなり清正淺野左京大夫幸長太田飛驒守一吉等と、僅かなる勢を以て、日々夜々に防き戰ひ、明れば三年正月三日味方の人々後卷して、寄手の勢を打破れば、城中の兵は希有にしてこそ助かりけれ、蔚山の事諸記まち〱なり又清正が朝鮮にての武功數ふるに暇なければ大略をしるしぬされば朝鮮の軍一度起りしより、兵連なること前後七箇年の間、本朝の人々所々の戰功皆取り〱なりしかど、清正一人大明朝鮮のために、名を呼ばれ或は詩に作りて謠ひ、或は神となして祭らる弓矢とつての譽古今に並ふ者ぞなき、按するに大明萬曆よりこのかたの書に、清正が名を稱する事擧けて數ふべからず、崑山の王志堅といふ者は、倭王と稱して歌を作る、又朝鮮國慶尙全羅道等の水營の軍官、年毎に日を占ひて諸營戰艦を集め、海に浮みて海神を祭る事あり、蒭にて人像を造り、是を射て海に鎭む、彼國の人は秘しぬれども、よく聞けば是れは清正を咒咀する事にてありけり、その人像は清正にかたどる、彼國の能く射る者といへど、恐れて終に中つる事叶はず、いづれの頃にや一人射て中てたりしを、双なき高名といひけるに、忽ち物に狂つて飛ひ走る、其親戚清正を祭ていろ〱と罪を謝しければ、其後人心地にはなりぬ、此後人いよ〱恐れて中たらん事を恐る、本朝寬文の中頃に、例の祭とて水營の戰艦共海に泛みしに、海上風忽に吹き落て波わき艦多く摧け破れぬ、これ清正の崇りなりとて、大に恐れしといふ事を、對馬の國人に窃かに承りぬ、
同き三年八月太閤薨し給ひ、此年十月に至て本朝の軍勢悉くに歸りぬ、是より行長清正と功を爭て訟起り、清正等七人の大名一つに成て、石田治部少輔三成を討たんとす、德川殿中和らけ給ふに因つて、三成職解て己が所領に引籠りしかば事平らく、同き五年の秋德川殿、奧の中納言景勝を討ち給ふ時、大坂の軍起りて德川殿を滅し參らせんとす、此時清正關東に使參らせて、御方仕るべき由を申せしかば、德川殿悅ばせ給ひ肥後國悉く賜ひ、急き近國を攻め從ふべき旨を仰下さる、八月十二日に賜ふ所の御書の寫を見たり、津田小平治佐々淡路守仰を傳ふべき由を載せらる、清正この二人に就きて、御方たるべき由を申しけるにや、〇世には清正初め山岡道阿彌に就きて、德川殿の奧に下り給はん事を諫め止め參らせ、上方に軍起るべき由を申しけるに、德川殿用る給はず、清正は急き本國に歸て九州を鎭むべしと仰せらる、清正重て奧に向ふべしと望む、御許し無ければ、急き本國に歸ると云々、此說覺束なし、初め慶長四年の春清正等が石田討たんとせしを、德川殿制し給ひしより、清正と德川殿との間心好からず、同じ秋加賀の利長國へ歸りし後、清正も肥後の國に歸る明れば五年の夏六月六日、景勝討たるべき由を仰せ下されて、同十六日に大坂を立たせ給ひき、此時清正は大坂には在らず○又毛利傳記を見るに、東西の軍起りしかば、清正桑山式部を使として中納言輝元へ申さるゝは、今度內府と三成と軍起りぬ、中納言殿三成に與みし給ふと承りぬ、清正大和國を一圓に下し給はらば、急き馳せ上て關東に攻め下らんには、內府に從て奧に下りし上方の大名は、皆清正に與みし候ひなん、內府亡し給はん事は、清正が身一人に任せ給ふべき所也と申さる、桑山輝元の家人に知る人なし、宰相秀元の侍沼田小左衞門といふ者を知てければ、沼田につきて此事を謀る、沼田やがて桑山を輝元の家人福原式部堅田兵部に逢せて、福原堅田して輝元にかくといふ、輝元これを聞て御使の旨承りぬ、大和の國の事元より增田右衞門尉が領にて彼人郡山の城に在り、輝元が計らひにて和殿に取つて參らせんこと難し、和殿は大坂の御爲に忠盡さるべき御事なれば、味方に參り給ひなん後は、望み給ふこと叶はずといふ事あるべからず、早々馳せ參り給ふべしとぞ答へける、桑山密に沼田に向ひて、あつたらしき味方失ひ給ふものかな、大坂の御爲なれば、輝元增田と謀り給ひ、清正が望に任せ大和國給はらんには、御軍必利ありぬべし、此定にては清正御味方には參るべからずと、いひて肥後國に歸りしと云々、此說誠なるからんには、清正初めは大坂に與みせんと思ひしかど、望かなはざりしに因て、關東に組せしにや、清正が宇土の城に向ひしこと、十月八日の事なり、九月十五日關が原の戰終りし後、廿三日を隔つ、東國の軍勢勝軍せしを聞て後に軍せしも知らず、一說に清正軍を出せしことは、九月十五日とも申すなり、
清正黑田勘解由入道如水と心を合はせ、關東の御方をして同國宇土八代の城を攻め落し、二箇所共に小西攝津守か城也筑後國柳川の城に向ひ立花左近將監宗茂を味方になし、黑田鍋島立花と共に薩摩の國に發向す、關東の御下知に依つて戰に及はず、軍をば返す兼て仰せ下されしに違はず肥後國悉く清正に下し賜ひ、肥後守になさる、五十一萬五千石、を領す同き十六年三月廿八日前右大臣殿秀賴の御事上洛ありて、大御所へ參り給ふ、此日肥後守清正侍從輝政池田紀伊守幸長淺野三人御供にぞ參られける、
此日秀賴還らせ給ふ時、伏見より御船に召さる、清正御設けして御酒勸め、御暇給はりて我家に歸り、懷よりちいさき刀取り出し鞘より拔て、押戴き頻に淚を流しつゝ、太閤の御恩報い參らする事、今日既に訖んぬと獨語いひけるとなり、これよりさき大御所の仰せにて、清正が娘を常陸介殿の北の方と定められ、又將軍家の御養女を彼の男虎之助に賜ふべしと仰せ下さる、かくて清正年五十一にして此年六月廿四日に卒す、子息虎之助父に繼く、いまだ幼弱なりしかば、藤堂和泉守高虎兩御所の仰せ承り、同七月肥後國に下りて國務を沙汰し、明れば正月十五日駿河の國府に歸り參る、虎之助程なく元服し肥後守從五位下になされ、將軍家の御諱字を賜つて忠廣と名のる、同き十八年將軍家の御養君、彼の家に入らせ給ふ、實い蒲生飛驒守殿の嫡女にして大御所の御外孫女なり忠廣十八歲姫君十二歲の御時なりと云ふ大坂の軍起りし時、御和睦事成りしのち肥後の國の兵船、室兵庫の間に着く、此所より戾さる、再度軍起りしには九國の大名は、島津が參らざらんうちは、參るべからずとありしかば、遂に國を出です、寬永三年八月忠廣四位の侍從になさる、同き九年に大相國家薨し給ひし後、幾程なく罪蒙りて六月朔日忠廣、出羽の國庄内に移されて、一萬石給ひしなり酒井宮内大輔忠勝に預けられ、息男豊後守光正は金森長門守可賴に預けられ飛驒の國に趣く、
世に傳ふる忠廣配所の作とて、人間萬事定不定、身似明星西又東、三十一年如一夢、醒來莊內破簾中と云ふ詩あり、あはれなる辭なり、但し三十一年とは誤まらずや、武家補任に死する時五十七歲とあれば、罪蒙りし時は三十六歲の時なり、若し此詩の辭に謬りなくは、卒せし年五十二歲なり、〇忠廣の罪定かならず、世に傳ふること色々の說あり、皆誠しからず駿河大納言殿の傳と合はせ見るべし、
忠廣罪蒙りて廿二年、承應二年閏六月に至て遂に配所に死してけり、子息光正が死せし年いまだ詳ならず