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第十二上 · 단락 7 · 780526 25코마 L부터

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지명 9 6 6 5 5 4 3 2 2 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1

出羽守源義光は鎭守府將軍前陸奥守義家の三男、足利式部大夫義國の孫、上總介義兼に六代、伊豫守家兼が次男修理大夫兼賴が後胤也、兼賴初め足利殿の仰を蒙て出羽の按察使に補せられ、延文元年八月六日最上郡に下向して山形の城に住す、是より子孫當國の事を司り、十代の孫義光に至る、義光十六歲にして父義守に從ひ、高湯といふ溫泉に浴すとて行くことあり、或夜强盗數十人彼の旅舘に亂れ入る家子郞等散々に拒き戰ふ、義光眞先に進み二人に手おはせ一人と引組んで刺殺し、殘る奴原追ひ散す、義守大に悅ひ重代の重寶笹刀と云ふ太刀を貞宗か作る所也義光にぞ讓りたる、是は義守が十七歲の時楢下口の合戰に高名して、父義定が許より此太刀讓られし佳例とこそ聞えけれ、義光父が家を繼きて、同國谷地の住人城取十郞義國を亡し、寒河江八沼天童上山鮭延等の地を打隨へ、天正十四年大寶寺が家を滅して庄内三郡を合せて領してけり、
同き十八年の秋豊臣關白、關東に下り給ひし時、義光最初に御陣に馳せ加る、かねて都に使を參らせて、殿下に隨ひ奉りしかば、本領安堵子細あらず、初め織田殿の御時より、德川殿にも常に音信を通しければ、義光此度馳せ參りしと聞えしかば、德川殿の御使酒匂の邊に出迎うて迎へ入れらる、明れば十九年の秋、奧の九戶が叛きし時、德川殿信夫郡大森といふ所に御陣を召さる、義光次男太郞四郞又左馬助年僅に十歲なるを具して、御陣に參り御家人に參らす、德川殿大名の子息を御家人となされし始なれば、悅ばせ給ふこと斜ならず、彼男が十三歲の時、關東に召され文祿三年正月元服させ御諱字賜り、家親と名のらせ、頓て御推擧あつて駿河守從五位下になさる、又九戶が亂の時、關白秀次いまだ三好中納言と申し參らせ、追討のため下向ありて、最上の郡に陣し給ひし時、義光御徒然を慰め參らせんとて、寵愛の息女を參らす、秀次深く悅び給ひ、やがて都に具し給ひて御寵愛淺からず、文祿四年七月關白御腹めされし時、義光が娘も誅せられ、義光關白の謀叛に與せし聞えあつて、國既に亡ぶべきに究る、德川殿の御計らひに依て罪免され、義光悅ふこと大方ならず、如何にもして此恩報じ參らせんと思ふ明れば慶長元年閏七月十二日の夜、大地夥しく震て伏見の城悉くに破れ崩る、爰に有合ふ大名、皆々太閤の御所に馳せ集る、義光一人家子郞等引具して、はだせ馬に打乘て德川殿の御舘に馳せ來る、斯る時には人の心も計り難し、御舘出でさせ給ふ事あるべからず、如何なる不思議候とも、義光かくて候はんには、御心やすう思召さるべう候と申て御舘を守る、其後太閤自ら茶點して德川殿に參らせらるべきよし仰せらる、事怪しう聞えしかば、義光急き御所に參りて、德川殿に近付き相構へて今日の事、御心せさせ給ふべし、義光これに侍らば、何の御恙か渡らせ給ふべき、去ながら思ふ所はべれば事終らん後、とく歸らせ給ふべきにて候と申す、頓て御供して罷り出づ、幾程なくて太閤薨し給ひ、上杉中納言景勝石田治部少輔三成と心を合はせ、德川殿失ひ參らせんとて、我國に下りて密に近國の大名を催す、義光の許へ使立て、大坂の味方に參るべき由を云ひ送る、義光宗徒の一族郞從と相謀り同心のよし返答し、德川殿に早馬を參らせて斯くと申す、景勝最上が御方に參るべしと聞て大に悅び、先づ物の具の料とて黃金二万兩を贈くる、義光是を領して家の子郞等らに分ち與ふ、頓て德川殿景勝追討の爲に御下向あるに及んで、南部秋田を先として、山北の輩を引具して景勝が國に攻め入らんとす、上方又軍起つて德川殿引返させ給ふよし聞えて、寄騎の輩悉くに引かへす、景勝初め義光にたばかられぬる事を怒て、軍勢を差向け義光が城々攻め落す、關が原の合戰、上方の人々負軍しつと聞て、景勝が軍勢引返すを是處彼處に追詰め〱千五百八十餘人が首切つて、谷地の城を降し庄內の城を落す、明れば六年七月景勝德川殿に降りし後、義光して酒田の城を取らせ給ひしに、守の兵敢て下け渡さず、義光三男清水大藏大輔義成を差向け攻め落す、其勸賞に庄内の三郡山北の地悉く加へ賜ひもと二十四万石是より五十二万石と云ふ官左近衞權少將に進み位從四位下に昇る、義光多くの男あり、嫡男修理大夫義康、二男駿河守家親三男清水大藏大輔義成四男山野邊右衞門大夫義忠といふ、如何なる故にや義光義康父子いつとなく不快に成て、義康國を去て高野に遁れぬ、義康高野に遁るといふは系圖の旨なり、實は殺されしなり、最上記又世に傳ふる傳記を考ふるに、其事大同にして小異あり、最上記に載せしは、義光義康父子の近習の輩、互に威を爭ふこと止まず、義康の近習の輩折にふれて、守殿は御齡既に傾かせ給ひ君は御年盛りにならせ給へども、國讓らせ給ふべくとも聞えず、駿河守殿は年ころ關東伺候の人なれば、國をば彼人に讓らせ給ふべきにもや候はんと申ければ、義康もさもこそあらめと思ひ恨めしき事に覺えてけり、義光にも又義康怨み申さるゝ旨ありしと、告ぐる者ありしほどに、父子の間互に心よからず、或時義康光明寺といふ一向派の寺に遊ひ、酒興の餘り近習の小侍と戯るとて、誤て刀のぬけて股に傷くことありしを、義光に告ぐる者あつて、義康君を恨み給ふ心日々に深く、彼寺に趣き御自害ならんとしつる所を、人々取止め參らすとて疵つかせ給ひぬ、かゝる上は如何ならん不思議もや、思召したゝせ給はんずらん、御心得あるべしと申ければ、義光大に怒て父子の對面を許さず、一族の輩を初めて家の老などいふ者、父子の間色々に和けしかども、あへて聽かず、義光關東に參りし時、密かに此由を大御所に申ければ、大に驚かせ給ひ、凡そ人の子たらんものは、父母の事故なからん事こそ願ふべけれ、それに國讓らるゝ事遲しとて、父を恨み身死しなんとする不覺さよ、此上は力なし汝の心に任すべき所なり、去ながら道かに父子の間なり、如何でかゝる事のありぬべき、よく〱事の由を糺しあきらむべき所なり、相構べて事を誤て、後に悔ゆる事ある可らず、さるにても此後汝の家繼がすべき子は誰なるならんと仰ありしに、駿河守家親して繼かせ申すべしと申す、家親は幼より大御所に仕へ參らせて御覺もよかりしかば、此人いかにも然るべき由を仰せらる、義光頓て國に歸り義康が許に使立てゝ、此度關東に參りしに、大御所かねて我等が父子の間、心よからぬを聞召し及ばれ、親しき間の和かざるは、疎きが爲に侮らる、これ家衰ふべき基なり、たとへ其子の誤る事あらんにも、父が身など是をゆるさゞらん、早く父子たらんこと初の如くなるべしとの仰せ蒙りぬ、急き參るべしとありしかば、義康大に悅て彼使に打連れて來る、義光對面に及はず、暫くまづ高野山に趣き對面の期を待つべしと、國を追ひ出す、兼てより戶井半左衞門尉といふ者に、足輕の兵多く附けて義康が通らん道の邊に隱し置く、義康かゝる事ありとは知らず、供の侍わづかに十四五人打連れて其所を過くるを鐵砲を揃へて打ちし程に、玉二つ來て臍の下を後へ通しければ、眞逆樣に馬より落ち起き上らんとせしかども、大事の手なれば、働き得ず、大きなるこわねにて、口惜き次第かな、我に仇せし奴原一人も世にはあらせじ者をと、云ひもあへず腹かき切て死しにけり、供の侍これを見て死狂ひといふまゝに、散々に切て回り、一人も殘らず討たれぬ、幾程なく戶井は大坂に謀を通ぜし事顯れ、一族悉くに誅せらる、かくて義康に近く仕へし輩、多くは罪蒙つて誅せられし中に、里見民部が子權兵衞尉は、義康が許に常に親しう參りければ、父の民部に賜り腹切らすべしとありしに、祖父越後守これを聞て罪なくして、誅せられん事、尤不便の至なりとて、子息民部と共に權兵衞尉引具し家子郞等共に五百餘人、國を去て行く、抑も此里見越後守と申すは、さる古兵にて世に隱れなき剛の者なれば、加賀中納言利長の家に召されて三万石を賜ふ、義光安からぬ事に思ひ、利長の許に使立て彼者召使はるべからざる旨を云ひければ、里見もやがて加賀を去る、上總介殿又越後守を召して二万石を賜ふ、義光又介殿へ使を參らせて、申す事前の如し、里見こゝにも溜り得ず、終に高野山に登りて入道す、義光里見が許に使立て旣に出家入道せし上は、いかで罪をも免るさゞらん、此上は何か苦しき本國に歸るべしと、色々にたばかりて召返し、里見が一族悉くに宗徒の家人等に預けて、義光が卒せし時、我死して後七日を過きば、里見が一族皆誅すべしと言ひしかば、駿河守家親は父が遺言に任せぬ、里見誅せられて後、彼が調度の中より秀賴公の御手印を取り出す、清水大藏大輔相語らひ義光失ふべき由を聞召し、悅ひ思ひ給ふ所なり、其事なりなん後は大藏大輔が官加階は、其望に任せられ又越後守には庄內の三郡に、本領そへて下し賜ふべき由を載せられたり、〇又世に傳ふる傳記には、里見權兵衞尉は義光に双なき近習なり、義康近く召仕ふ侍原八左衞門といふ者あり、里見も原も大坂よりの仰を受けて、里見は義康の事を父義光に讒すれば、原は義光が事を子義康に讒す、義康既に誅せられて後、義光始て義康が罪なきことを知て、後悔すれども叶はず、遂に原里見が一族悉くに誅しぬ、里見が祖父越後守父民部一族郞等引具し、國を去て加賀と越後とに仕ふれども、それも叶はず、高野山に登り入道せしを捕へて悉くに誅しけり、大坂より里見に賜りし御文を見て、清水も里見に心合はせ義康を失ひ、我をも失はんとするなりとて、大藏大輔をも腹切らす、此も實は大藏は夢ばかりも知らざりし事なりけり、○按ずるに最上記には、義光卒する時遺言してければ、里見は駿河守家親が代に誅せられて、大坂の御手印出たりと計りしるして、清水が誅せられし事を載せず、世に傳ふる傳記には、義光里見を誅して又清水をも誅すと云ふ、いぶかし、
斯て義光齡既に傾き、慶長十八年の夏の頃より心地例ならず、死すべきこと近づきぬと思ひければ、最期の御暇乞ひ申さんとて、九月の初に俄に國を立て駿河に參りぬ、大御所其志の切なるを感し給ひ、輿に乘りながら門に入る事を免されて參る、御藥を始め種々の賜物ありて歸さる、關東にも參るべきよし申ければ、將軍家へ御書添へて遣はさる、同十月半、本國に歸て今は思ひ置く事なしとて、病の床に打臥して、明る慶長十九年正月十八日六十九歲にして卒す、二男駿河守家親家を繼ぐ、大坂の軍起りしには關東を鎭めよとて、御跡に留めらる、幾程なくて元和三年三月六日三十六歲にして卒し、其子源五郞義俊十二歲にして家を繼ぐ、家人等が相論の事起て、國穩ならざれば同き七年十月1近江の國に移されて、近江と三河との中にして合て一万石を給ひし也出羽の地をば沒収せらる、
  1. — 지면 그대로. 最上義俊의 改易·近江 이봉은 元和8年 8月이 통설
初め駿河守家親、鷹狩の爲に城を出て歸るさに、家人楯岡甲斐守が家に入て酒宴の事あり、其座より俄に煩ふ事ありて終に卒しぬ、是はおとな鮭延越前守、楯岡と心合せて駿河守が弟山野邊右衞門大夫が、兄の家人にてあるを主にせんとて、家親に毒を進めしと云ふ沙汰せし程に、松根備前守といふ老、關東に參て此事を訟ふ、御糺問の事共ありしに、其證さだかならされば、松根をば筑後の國に流されて、柳川の立花飛驒守が預りとなる、其後島田彈正米津勘兵衞御使を承て、出羽の國に下向し、家の老九人心を一つになして、源五郞義俊たすくべしと仰せ下さる、山野邊右衞門大夫鮭延越前守二人申しけるは、今仰せ下されし旨の忝きに依て、仰に從ひ參らすといへども、此後も又讒人の出來て訴ふること止むべからず、然らん時に至ては、いかで其罪を遁るべき、詮ずる所二人が身に於ては、速に身の暇を給て國を退き候ふべしとぞ申ける、將軍家此由を聞召し、抑も最上の城といふは、陸奥出羽越後に交りて東國第一の要害たり、然るに義俊いまた幼弱にして、家人等が間又心よからず、如何で此所を守るべき、義俊成長に及はん迄は、暫く國を献るべしとて、近江の國に移されしなり、又一說に初め島田米津御使として下向せし時、鮭延越前守二人に就きて密に訴へしは、源五郞義俊は天性愚かにして身又煩はしければ、家繼ぐべき器にあらず、故出羽守義光が子、世に遺る所は山野邊右衞門大夫義忠一人なり、義光が舊功忘れさせ給はざらんには、かの義忠を以て家繼せらるべうもや候と申けれど、島田米津これを用ゐず、これに因て鮭延敢て仰に隨はず、山野邊又これに同じと云ふ、後の說は誠しからず、前の說の如くなるべし、
其後義俊身常に煩はしく籠り居て、寛永八年十二月廿六歲にて卒し、其子刑部義智わづかに二歲なれば、所領の地又減ぜらる、