帶刀高階吉晴は武家補任には高階氏と記せり或人の云ふ在原氏也といつれか實なる尾張國上郡供御所の住人中務少輔吉久が男也、吉久國人三十六人の內にして、上四郡の事を知行す、吉晴童名は仁王丸、生年十六の春夜軍のありし時、眞先かけて善き首一つ取てけり、人みな實とも思はず、明る日岩倉の敵と戰ふ、味方散々に打なされて引返す、仁王丸只一人、馬より下りて敵の方に向ひ立ち居たり、伯父修理亮これを見て大に驚き、など味方に後れぬらん、只とく引かへせと云ふ、されば若黨の山田がいまだ來らぬが怪しう候と答へて、遂に具して歸りしかば、さては昨夕の高名も疑ふ所もなかりけりと、人皆大に感じあへり、明れば十七歲の夏の頃、髻あげて茂助と名のり、秀吉朝臣の勸めにて織田殿に召され、頓て秀吉の手に屬せらる、
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堀尾
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인물 堀尾吉晴 45豊臣秀吉 20徳川家康 15水野忠重 11堀尾忠氏 8加賀井重望 8織田信長 7徳川秀忠 4堀尾忠晴 4堀尾吉久 2小瀬甫庵 2石田三成 2前田利家 2豊臣秀頼 2堀尾修理亮(吉晴伯父) 1堀尾家臣山田 1前田玄以 1浅野長政 1増田長盛 1長束正家 1豊臣秀次 1宇喜多秀家 1毛利輝元 1小早川隆景 1
지명 遠江浜松城 4越前国 4摂津国大坂 3奥州 3関東 3美濃岐阜城 2近江佐和山城 2三河国池鯉鮒 2下野国宇都宮 2下野国小山 2東海道 2出雲松江城 2尾張国供御所 1尾張国岩倉 1近江長浜城 1近江横山城 1播磨国 1播磨国姫路 1丹波国黒井 1若狭高浜城 1近江国坂本 1越前府中城 1越前国府中 1遠江国浜松 1
此時太閤近江の國長濱の城を領せられ、吉晴始て百五十石を領せしといふ、又三百石を領すとも云ふ○按ずるに吉晴が事、小瀨甫庵が記せる太閤記に詳なり、小瀨は吉晴を眼のあたり知れる人なれば、傳ふる所誤らじ、又世に傳ふる傳記に見えし所、彼記に少しく異なり、吉晴童名仁王丸、小太郞と改て秀吉朝臣に從ふ、淺井が兵起りし時、秀吉の使として岐阜の城に參て、此由を織田殿に告て歸る時、只一騎橫山の城に向ひ、淺井が物見の兵と戰て、首取つて秀吉に參らす、秀吉大に感じ給ひ小太郞具して岐阜に參り、彼首を献られしかば、織田殿小太郞が振舞ひ誠に一騎當千と謂つべし、今よりは信長めし仕ふべき者なりと仰ありて、御刀を賜ひぬ、此後常に秀吉の手に屬す、秀吉筑前守從五位下になり給ひし時、吉晴茂助と改む、凡そ信長よりも秀吉よりも勸賞を給ひしこと數多たびといふ、此說太閤記に吉晴秀吉の勸めにて織田殿に仕へ、又秀吉の手に屬せしといふ事の由、詳かなるに似たり、又織田殿狩し給ふ時、大なる猪と組みて遂に刺殺せし者を御覽し驚き給ひ、名を尋ね給ひしかば、堀尾茂助と申せしにより、御家人に召加へられ足輕大將になさる、其後秀吉朝臣に仕ふといふ說あり、誠とし難し
吉晴十六歲より軍して大小の戰に逢ふこと四十餘年が間、或は自ら先懸けし、多くの敵を討ち或は士卒を下知して、城を落し陣を破る、されども自らは其功に誇る事を深く耻ちて、子息にだにも定かには語らず、おのづから世に顯たる高名廿二箇度、天正五年の秋秀吉播磨の國を領せられし時に、姫路の地わかち賜ふ、千五百石其後丹波の國黑江の地1に移り、三千五百石同き十一年五月始て若狭國高濱の城を賜ひ、一万千石又坂本の地に移る、二万石同き十三年七月近江國佐和山の城を賜ふ、四万石同き十八年の秋遠江國濱松の城に移る、十二万石と云初め豐臣家關白に任じ給ひし時、家に五人の奉行職を置かる、前田玄以淺野長政增田長盛石田三成長束政家等なり其後秀次關白の御事ありし年、大名五人を撰て天下の政を輔けしめらる、
- 國黑江の地 — 지면 그대로. 丹波 「黑井」의 저본 오식으로 보임. 미확인
文祿二年天下に政令を敷かれし時に、德川殿前田利家浮田秀家毛利輝元小早川隆景連署せらる、時に五人の大名衆と云ひし由、北川二郞兵衞が記に出づ、それを五大老と稱せし事は、太閤薨し給ひし後、大坂の奉行等が言ひ出せる事にて、德川殿も彼家の老と稱せし家司也といはんが爲なり、然るを又今の世にも其心を得ぬ人の、皆五大老と言ひもし筆にも顯す、大に僻事なり、德川殿は此時既に大臣の位に昇らせ給ふ、むかし昭宣公の初て關白にならせ給ひしより、此かた關白の家に大臣を以て臣とせし例やある、又大織冠始て內大臣にならせ給ひしより、内府たる人の家臣たりし例あるべからず、世既に澆季に及ひ、人皆不學なりといへども、かく名の正しからざるこそ淺ましけれ、
太閤薨し給はん年の七月、三人の中老職を定めらる、吉晴その選に入られたり、是は我が子幼弱の程は天下の政務、家の奉行等、五人の大名に問うて執り行ひ、或は各の異見を執て異論の事あらば、三人の輩其間を和くべき爲とぞ聞えける、按ずるに中老の職と稱せしも、太閤薨し給ひしのち、大老と云ひしに對して起りし名なるべし、又太閤のかく十三人の人々を選んて、其職を三つに分ち定め置かれし事、めでたき御計ひなりけりと、今も世に云ふ人あり斯て世も治りたらんにこそ、めでたき御計ひともいふべけれ、薨じ給ひし日より、奉行等の中たに其心同じからず、天下の人爭ひ訴ふる事絕ゆる時なく、三年を出でずして世既に亂れぬ、古の人は政の門多きは國必亂るといひき、某が思ふ所はいよ〱巧みにして、いよ〱拙しといひしは、これらの類にやあるべき、
太閤薨じ給ひて纔か五月にだに滿たず、大坂の奉行等、利家大納言を勸めて德川殿失ひ參らせんとす、吉晴が計ひに因て德川殿の御心の儘に事平きぬ、德川殿悅ばせ給ふ事斜ならず、御家絕えざらんうちは其志の程忘れ給ふまじきとの御誓あるべしと聞えければ、吉晴大に畏れて固く辭し申ければ、御代官として井伊侍從直政が許より起請文書て送る、此後も世既に亂れんとする事、度々に及びしかど、吉晴いみじく謀て事故なく平く、德川殿かく天下の動きなき事、彼が功尤も鮮からず、賞せられずんばある可らずと仰られしかば、慶長五年二月豐臣家の仰として、越前の國府の城を吉晴に加へ賜ひぬ、六万石の地加へられ本領合て十八万石也此年の夏德川殿、奧の上杉追討のため御發向ありと聞て、吉晴も隨ひ參らせんとて、越前の國府より濱松の城に來る、六月廿三日濱松を過させ給ひし時、晝の御餉献る、吉晴をば爰より越前に歸されて、子息信濃守忠氏をば奧に具せらる、
吉晴濱松の城を立て越前に趣く、一說此時吉晴入部のため初て越前に趣くと云七月十九日の夕、參河國池鯉鮒の宿に着く、水野和泉守忠重、刈屋の城より此所に出向て旅の儲けす、加賀井彌八郞秀望來り合ひ、酒終つてのち秀望忽ち忠重を斬て倒す、吉晴すかさず秀望と引組み取て押へて刺殺す、水野が郞等、事俄に起て主のかたき何れとも知らず、太刀拔き連れて切て入る、吉晴が身に疵かうむること凡そ十七箇所、されども去るしたゝか者にて、ちつとも痹まで、足を延て燈ふみ消し大庭に飛て下る、水野が郞等太刀長刀の鞘をはづして、家の邊に滿ち〱たり、如何にしてか來りけん吉晴が侍一人奈良伊織つと參り、吉晴を肩に掛け家の後を廻り助け出して板戶索め出しかき載せて行く、吉晴郞等に向ひ和泉守痛手おひぬ、我を彼城に具すべしといふ、仰せ承りぬと答へて濱松の城にこそ歸りけれ、大事の手おはざれば死するには及はず、
加賀井彌八郞木村彌一右衞門と二人、秀賴の御使として關東に參る、是は德川殿御對面あらん時、さし殺し參らすべき爲なり、德川殿御心地例ならずとて出させ給はざりしかば、二人力なく引返へす、加賀井は道にて吉晴に行逢ひ、其當時は御使の身なれば大坂に歸り參りぬ、御使の事終らば必內府に從て奧に向はんと存す、彼御家人に知れる人なし、吉晴の執し給はん事を賴み入りぬといふ、吉晴聞て吉晴も北國に趣きぬ、和殿又下らん時爰にあらず、和泉守忠重は德川殿に親しき人なり、此人をこそ賴み給ふべけれと答ふ、加賀井いまだ忠重を知らずといふ、吉晴聞て今宵は池鯉鮒の宿にして忠重にあふべし、いざさせ給へとて打連れて來りしなり、されば水野殿の郞等、吉晴うたんとせしも理りなり、水野殿の家來竹本左內といふ十三歲なりし小童、かたはらに在り事の由よく見おほせて、かくと云ひしを鈴木與八郞聞て、加賀井が所爲とは知つてけりと云ふなり、按ずるに加賀井が關東に使として下りし事、いまだ實記には見えず、不審、
此時吉晴が男信濃守忠氏は、中納言殿に隨て宇都宮に陣す、初め小山の御陣に飛脚到來して、和泉守殿吉晴が爲に討れ給ひぬと聞ゆ、德川殿大に驚せ給ひ急き此由を宇都宮の御陣に告けらる、中納言殿聞召され、吉晴父子君に背き參らすべき者にあらず、たとへ承る事の如くなりとも、彼男に於ては二心を存ずべき者に侍らねば、召禁むるに及ばざるかの由、答へさせ給ひしが、重て事のやう詳に聞えしかば、中納言殿の人の心よく知召されし事を、皆人感じあへり、信濃守忠氏此由を傳へ聞て、忝き事に思ひしが上方又軍起りぬと聞えて、東國下向の人々悉く小山の御陣に召されて軍評定ありし時、海道の大名等おのが城々に兵粮こめて、德川殿にさげ渡し參らせ、人質共吉田小田原等の城に納れし事、信濃守忠氏が計ひとぞ聞えける、此時忠氏廿二歲さる智謀深き人なりしと云詳なる事は山內土佐守が傳に見ゆかくて忠氏先陣の人々と同しく、海道より馳せ上つて軍す、關が原の合戰終つてのち、德川殿彼の父子が功を賞せられ、同き年十一月出雲隱岐兩國を下し賜ふ、二十三万五千石餘吉晴は近曾の疵うれへて子息に國ゆづり、松江の城に籠り居けり、松江の城は吉晴始て築きし所也忠氏國を受けて出雲守に任し、同き九年八月四日廿七歲にて父に先立て卒す、其子小太郞年わづかに六歲にて父に繼ぐ、祖父吉晴其孫幼なければ、再ひ國務を沙汰し年積て六十九歲、同き十七年1六月十七日に卒す、小太郞今年十四歲、去年三月元服の儀ありて將軍家の御諱字賜り、忠晴と召され從四位下に叙し山城守に任し、同き十九年の冬、軍勢引具して大坂の城に向ふ、かたき信貴野の邊に打出で上杉が勢と戰ふ、山城守忠晴其時十六歲、上杉と先を爭つて、多くの敵を打破る、再ひ軍起りしにも、馳せ向ひ戰て首切つて献る、十三寛永三年八月十九日侍從になされ、同き十年九月廿日三十五歲にして卒す、子なかりしかば家絕えぬ、
- 同き十七年 — 지면 그대로(다음 열 「六月十七日に卒す」). 堀尾吉晴의 몰년은 통설 慶長16年 6月 17日