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가문 목록 › 第十二上 › f173

田中

第十二上 · 단락 6 · 780526 35코마 R부터

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이 가문에 자주 나오는 인물·지명

인물 17 13 7 4 3 3 3 3 3 3 3 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1

지명 3 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

兵部少輔橘長政は初は吉政と云ひし也武家補任に長政とあり伯耆介宗弘が男なり、本國は近江の人、先祖累代高島郡田中と云ふ所にぞ住してける、長政初め久兵衞尉吉政と申て豐臣家に仕へ、秀次關白いまだ三好殿と申せしより彼家に附けられ、本國甲賀郡八幡山2の城を賜り、三万石兵部少輔從五位下になされて、天正十八年の秋、參河國岡崎の城に移る、三万石を加へられて六万石を領す一說に四万石を加へらると云ふ此時西尾の城修し築き子息民部少輔長顯に一万石分ちて守らしむといふ文祿の初め三好殿、養父殿下より關白職ゆづられ給ひ、いつしか御志滿ちて驕生じ、善からぬ御振舞のみ多かりけり、吉政折にふれて諫め參らせしを厭ひ思召し、攝津の地河堤の1の事、奉行せよと遂に外樣にこそ出されたれ、程なく太閤の爲に罪かうむらせ給ひ、彼の御家人等も悉く誅せられにけり、吉政ばかりぞ太閤の御感には預りける、慶長五年の秋德川殿、上杉中納言追討のため御下向ありし時、吉政も隨ひ奉る、上方又軍起りしかば、吉政關東の味方として海道より打つて上る、
  1. — 지면 그대로. 열 끝 「の」와 다음 열 첫머리 「の」가 겹친 저본 衍字로 보임
  2. — 지면 그대로. 八幡山城은 近江国 蒲生郡에 있다
吉政が男民部少輔長顯も、父と共に奧に向ふ、吉政引返して海道を上る時、長顯をば質として江戶の城に留む、長顯軍に隨はざる事を憤りて、父に訴へけれども許さず、長顯手勢三十騎計りを引具し忍び出で、父に先立つて馳せ上る、吉政道にて此由を聞て大に驚き、池田の侍從にかくと告く、輝政おのが吉田の城守らせし竹村彥右衞門が許に早馬たてゝ、長顯を押止むべき由を下知す、長顯吉田の城をば避けて本坂越を過ぐる所を、竹村追懸けて謀事を運らし吉田の城に伴はんとせしに、輝政より又飛脚到來して止むるに及ぶべからずと云ふ、是は德川殿、長顯が志の程を感し許させ給ひしに依つて、田中は父子共に向ふと云々、
兵部少輔が嫡子民部少輔長顯は、父との間快らず、二男を以て世嗣とす、大相國家の御諱字賜ひ筑後守忠政といふ、長顯は此後都に上り飢寒にたに堪へずして空しくなる、其子民部と云ふ、それが男二人兄をば丹羽久左衞門、弟をば丹羽新助と云ふ、久左衞門後には田中宇右衞門と名のりて、弟と共に田中大隅守に仕へたりと云ふ、又一說に筑後守忠政則ち是れ民部少輔長顯なり、大相國家の御諱字賜て名を改めしといふ、前の說とは大に異なり、〇又創業記を考ふるに慶長十一年正月廿日の比、兵部少輔長政が子主膳廿歲なり、近く召仕ふ小童を切らんとして、それが爲に斬られて死す、此人心荒々しくして人を斬ることを好み、旣に五十三人まで斬りしと記せり、子の主膳といふは民部少輔が弟にや、此家の系譜を見ねば子息等が事、いまだ詳ならず故に民部少輔が事をも本文に略す、
忠政が家絕てのち一族田中久兵衞吉興、御家人となされて二万石を給ふ、是も程なく死す、子なけれは、菅沼織部正定盈の二男して家つがす、主殿頭定官といふ、定官又罪蒙ることありて所帶を沒收せられ、其後召返されて別に所領を賜ひ、御書院番頭になさる、其子大隅守定房といふ、この久兵衛といふは筑後守忠政が兄なりともいひ、又兵部少輔吉政が弟なりともいふ、兩說なり、弟の忠政家繼て兄の吉興が繼がざりしこと如何なる故にや、不審、又兵部少輔吉政初め久兵衞尉と申す其弟の兄の名を名乘らん事も覺束なし、其家の系譜を見ざれば、姑らく疑をかくのみ、