兵部少輔橘長政は初は吉政と云ひし也武家補任に長政とあり伯耆介宗弘が男なり、本國は近江の人、先祖累代高島郡田中と云ふ所にぞ住してける、長政初め久兵衞尉吉政と申て豐臣家に仕へ、秀次關白いまだ三好殿と申せしより彼家に附けられ、本國甲賀郡八幡山2の城を賜り、三万石兵部少輔從五位下になされて、天正十八年の秋、參河國岡崎の城に移る、三万石を加へられて六万石を領す一說に四万石を加へらると云ふ此時西尾の城修し築き子息民部少輔長顯に一万石分ちて守らしむといふ文祿の初め三好殿、養父殿下より關白職ゆづられ給ひ、いつしか御志滿ちて驕生じ、善からぬ御振舞のみ多かりけり、吉政折にふれて諫め參らせしを厭ひ思召し、攝津の地河堤の1の事、奉行せよと遂に外樣にこそ出されたれ、程なく太閤の爲に罪かうむらせ給ひ、彼の御家人等も悉く誅せられにけり、吉政ばかりぞ太閤の御感には預りける、慶長五年の秋德川殿、上杉中納言追討のため御下向ありし時、吉政も隨ひ奉る、上方又軍起りしかば、吉政關東の味方として海道より打つて上る、
- 地河堤の — 底本のまま。列末「の」と次の列の冒頭「の」が重なった底本の衍字とみられる
- 甲賀郡八幡山 — 底本のまま。八幡山城は近江国蒲生郡にある