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家一覧 › 第十二上 › f174

中村〔後賜松平〕

第十二上 · 段落 3 · 780526 36コマ Lから

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この家によく出る人物・地名

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地名 4 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

天正十二年一氏此城に在て、根來の者共襲ひ來りしを打破りし事、創業記に見ゆ、其他見る所なけれども創業記誤るべからず、又按ずるに此ころ孫平次一政は死せしならん、太閤記等に十三年の春根來寺を亡されし時の中村は、一氏にあらずや
天正十三年七月近江國水口の城に移る、一氏一生の高名多き中にも、同き十八年北條を討たれし時、山中の城の先登し忽に城を攻め落し、關白の御感かうむり、勳功の賞として駿河國を賜り、我身は國府の城に在て舍弟彥右衞門尉一榮して、沼津の城を守らしむ、一氏十二万二千二百石一榮に三万石をわかつこれ內々は德川殿關東に移らせ給ひしかば、一氏して其境を守らせ給はん爲なりけり、一氏も某かくて候はんには、關東の事は何の御心にかゝらせ給ふ事も、あるまじきにて候と申せしとこそ聞えたれ、されば德川殿も假初の御鷹狩にも、彼境をば避け給ひ又一氏も境をば接しながら、敢て隣國の好をも通せず、太閤薨し給ひなん年の七月、中老の職になされ天下の政務に預りぬ、幾程なくて大坂の奉行人、德川殿失ひ參らせんと謀るに至て、一氏郞等藪內匠助を德川殿に參らせ、一氏初め故太閤の仰を承り關東を鎭めんがため我國を守る、されば人臣の義、方外の交なきが故に、年頃無禮を顯しぬ、敢て君に向て怨を結ひ參らせんにはあらず、殊には又一氏身既に煩はしく、愚息猶幼けなし、幸に我國御領に隣り候へば、一氏が無らん跡にも必君に依て我家の安否を謀るべしと、兼て一族郞等らに戒め侍りき、然るに今思はずも斯る御大事を承りぬ、一氏に於ては御方として、敢て二心を存ず可らず候とぞ申ける、德川殿聞召され子息の事まづ承りぬ、次には年來の御振舞ひ賴しうこそ思ひ候ひつれ、如何で恨を殘すべき、今又承る所の如き、悅び思ふ所なりと答へさせ給へば、一氏大に悅びて同職の輩と善きに計ひ參らせし程に、事既に平らきぬ、慶長五年の夏德川殿、上杉中納言御追討あらんとて奧に下らせ給ひし時、一氏既に病の床に臥して、おのが城にあり、德川殿途より村越茂助直吉を御使にて、彼病を問はせ給ひ、子息一學に御刀を賜ひぬ、長光六月廿五日彼城に至らせ給ひしかば、家人橫田内膳が家を假の御館として樣々の御設けし、我身も輿にかき載せられて御館に參り、一氏重病に犯されて此度御供に侍はぬこそ遺恨に侍れ、子息いまだ幼なし、舍弟一榮に軍勢つけて參らすべきにて候と申す、誠に苦しげなる有樣にて、申す事も定かには聞えず、此時新村大藪小倉三人の一族郞等御家人に參らせしといふ引出物多く賜て出で立たせ給ひぬ、舍弟彥右衞門一榮沼津の城にて御儲し、やがて一氏が軍勢ひきゐて御跡に從ひ參らす、一氏幾程なくて卒しぬ、上方の軍起りしかば、一榮又海道より馳せ登りて、犬山の城に向ひ大柿の城を落す、關が原の合戰終てのち、此年十一月一氏が子息わづか十歲、伯耆の國を賜る、十七万五千石彼亡父が志に報い給ふ所とぞ聞えける、其後右大將家の台德院殿の御事御前にて元服の儀ありて、御家號幷に御諱字賜ひ叙爵させて松平伯耆守忠一と召され、又大御所の御養君を彼妻となさる、松平因幡守康元の娘大御所の御外姪なり忠一十五歲の年の暮、家の老橫田內膳が常に諷諫の言を盡せしを怒て、饗宴に事よせ米子の城に召して、自ら彼を斬る、橫田は斬られて走り出づるを近藤善右衞門馳せ向て打留む、橫田が小童是を見て主の刀を拔て、忠一に切て懸る、大野宗葉押隔つ童は終に安井清次郞道家長右衞門が爲に討れてける、橫田が嫡男主馬助この由を聞て、父が飯山の城に立籠る、忠一が家人橫田に組みする者少からず、忠一大に怒つて軍勢を差向く、隣國の周章大方ならず、堀尾山城守忠晴は、出雲隱岐の軍勢を以て忠一を援く、城中に籠る所の兵一人も、命いきんと思ふ者なければ、寄手討たるゝもの數を知らず、柳生五郞右衞門尉但馬守宗矩が弟なり所緣につきて城に籠る、かれが切先に廻る者、手負ひ、討たるゝ者少からず柳生も終に藤井助兵衞が爲に討たれぬ、城中の兵も殘り少く討ちなされ、城に火かけて悉く腹切つて死す、大御所このよしを聞召され、御氣色を損し安井近藤大野道家四人を召され、事の由を一々御尋ね極められ、安井天野道家1は誅に伏し道家は大御所より姫君に付けられし人なり近藤をば助けらる、是は內々橫田が討たるべしと聞て、忠一を諫めしに忠一更に用ゐず、幼き人の自ら大剛の兵討たれんこと危き事に思ひ、長刀とつて座の側に忍び居て、終に横田を討ちたりし故とぞ聞えたる、此後忠一關東へ參る、江戶に入る事を免されず、品川の宿に籠居し日數經てのち、召されて兩御所に見參す、程なく慶長十四年五月十一日廿歲にて世を早うし、世嗣なければ家絕えたり、
  1. — 底本のまま。同じ段落の他の二か所は「大野」。底本の誤植とみられる。未確認