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筒井
この家によく出る人物・地名
人物 筒井順慶 32筒井定次 16松永久秀 16織田信長 11中坊秀祐 8筒井定慶 6織田信忠 5豊臣秀吉 5徳川家康 4筒井順昭 3松永久通 3佐久間信盛 3明智光秀 3箸尾高春 3筒井順盛 3筒井順政 2井戸良弘 2香原五郎 2筒井家臣山中 2大野治房 2筒井順永 1筒井順賢 1筒井順興 1三好義継 1
地名 大和国 6伊賀国 6大和国奈良 5大和多聞城 5摂津国大坂 5大和信貴山城 4大和郡山城 3関東 3大和国辰市 2摂津石山本願寺 2京都 2伊勢国 2美濃国関ヶ原 2伊賀上野城 2上方 2摂津大坂城 2畿内 1大和興福寺 1大和筒井城 1大和布施城 1河内国 1大和東大寺 1三河国 1摂津天王寺 1
榮舜房順昭が世に當りて國中悉く打從ふ
元龜二年八月辰市の戰に、順慶終に松永を打破り首を獲ること五百、久秀が一族郞從多く討れ手負ふ者又五百餘、三年五月順慶織田殿の御方に參る、此年三月松永父子三好左京大夫義繼と心を合せ、志貴多門等の城に立籠る、同年十二月右衞門佐久通、久秀が子多門城を去て降を乞ひぬ、四年四月久秀又織田殿に參る、信長頓て兵分ちて多門城を守らせ、當國を鎭められしかば筒井松永又戰ふに及はず、此年則ち天正と改元す天正二年三月順慶國人等引具し、上洛して信長に見參し、同き年七月人質を參らせ、三年二月織田殿の養女を迎へて息定次の室とす、此年五月信長三河國に向ひ、武田四郞と戰ふべしと聞えて加勢參らす、鐵炮の者共五十人と云五年七月信長番兵を停めて、多門の城を壞り捨てらる、此年八月久秀、大坂の城を攻て天王寺に陣取りしが、忽ち心變りして信貴城に引籠る、信長使して仰せらるゝ旨あれど猶從はず、さらばとて右衞門佐が質として參らせし幼なき子供二人が首切て、子息城介信忠、討手の大將軍として松永が城に發向あり、順慶同じく相隨ふ、爰に筒井が譜代相傳の侍一人、初め順慶が本領失ひし時、松永が家に仕ふ、入道究竟の謀こそ出來たれと、密に彼郞等を招き寄て返忠あらん事を云ひけるに、此郞等いかで累代の主君の仰をば背き參らすべきと領掌す、久秀運の究め彼郞等を使として大坂の城に加勢こふ、此使大坂には行かずして、順慶が陣に來て斯と告く、筒井頓て軍勢二千人を引すぐつて大坂の加勢に出立たせ、夜に紛れて河內國平野の方へ遣して、彼使と共に信貴の城にぞ入れにける、信忠の御陣に此由を申ければ、十月十日の曉諸手の寄手一同に攻め寄す、城中の兵散々に防き戰ひしに、城中忽ち火起つて筒井が軍勢二千人、此處彼處に切り廻る、松永內外のかたきを防きかねて、終に腹切つて死してけり、
六年八月信長の仰として郡山の城一つを止て、國中の城々皆壞り捨つ同き十一月大和國悉く筒井に宛て行はる、順慶頓て入部して郡山辰市等が首を刎ぬ、是は松永に心を合せて順慶に叛きし者共なり、九年九月伊賀國の戰に從ひ、十年三月國中の軍勢引具して信濃の國に向ふ、武田亡びて又四國の地に向ふべしとて本國に歸り、六月二日既に打立に及び、織田殿父子京にて明智日向守光秀が爲に失せ給ひぬと聞て順慶大安寺辰市東九條法華寺の邊に陣取り、井戶一勢を引分けて光秀が加勢とす、四日の事也井戶、攝津播磨の多勢攻め上ると聞て引て歸る、十日の事也光秀筒井が心變りしやと思ひて、使して申ける旨あり、藤田傳吾を使とす其使來れるは十一日の事也順慶返答にも及はず、一紙の起請文書て裏切すべきよし羽柴筑前守秀吉の許に云ひ送り、村田今井其使たり自ら七千人を率ゐて、宇治道を經て京に入らんとす、十四日先陣打立ち順慶十五日に打立つ山崎の戰既に事終りぬるに及んで、三七殿の御陣にぞ參りける秀吉順慶が味方せしさま、言甲斐なしと思ひしかど、筒井元より有勢の者にして近江伊賀伊勢尾張等の戰に、常に味方にありて其功も亦少なからねば本領を安堵せし事、織田殿の時に變らず、天正十二年五月長嶋の戰に、忽に身煩ふこと出で來て、本國に歸り幾程なくて死す、年三十六歲とぞ聞えける、猶子の四郞定次家を繼く、
多門院日記に天正十二年六月、順慶勢州長嶋の城を攻め、八月四日の夜郡山に歸れり、必定死去也と見えたり、さらば陣中に死去せしなり、一說に八月十一日に死すといふ、いぶかし、又初め順慶秀吉に申て香原五郞を世嗣にせんとす、五郞從はざりしかば、四郞をして家繼がせしと見えたり、世には四郞は順慶が妹の箸尾が妻となりて生みし所なりといふ也、大和記には順慶が妹の夫箸尾宮内少輔は、只一子あり關が原の後、箸尾所領を失ひしに松倉所緣に就きて養ふ、大坂の事起りし時、箸尾重代の家人等が勸めに因り城中に籠り、城敗れし後本國に隱れ居て死すといふ、又いぶかし、又一說順盛が子なりといふ、永正の頃に聞えし成身院明舜坊順盛が外、順盛といふ者いまだ聞きし所あらず、
十三年七月秀吉關白になられし日、定次侍從に任し、閏八月伊賀の國を賜ひ上野の城に移る、十二萬石を領す鎭西關東朝鮮等の軍に從ひ大閣薨じ給ひし後、慶長五年の夏、中納言景勝追討のため德川殿御下向ありし時、定次も奧に下る上方の軍又起りぬと聞えて、德川殿の仰蒙りて本國伊賀の國に馳せ上る、かゝりし所に上方の多勢、大坂を立て、先づ伊賀國に攻め入る、定次が國に留めし兵共、寄手の多勢に恐れ上野の城を下げ渡す、定次路次にて此由を聞き、云甲斐なき奴原が振舞かな、この上は本國に歸らん事その詮なしとて、海道の御方と一つになつて岐阜の城を攻め落し、赤坂に陣を取り關が原の先懸して敵の多勢を打破る、此事終て十一月、德川殿より本領を賜はりければ、再び伊賀國を領す、同き十三年六月家人中坊飛驒守秀祐が爲に訴へられ、定次駿河の國府に召され、罪蒙て其身は關東に召戒められ領國をば收公せられ、筒井數十代の家、此時に至て絕えにける、
仕丁記に據るに、定次慶長十三年七月廿八日切腹す、其罪の由さだかならず、創業記に見えしには、定次常に被官等にも對面せず、山中にわけ入て鹿狩のみして明し暮しければ、家人等かくては亡びんこと遠からずと思ひ訴へし所なりとのみしるされぬ、又かの記に定次が事訴へし中坊が事をもしるして曰く、定次が罪かうふれる明る年、慶長十四年二月廿九日中坊飛驒守、伏見にて殺されぬ、定次が被官山中と云ひし者、おのが主亡びし後、伊勢の國に下り九鬼長門守が許に居たり、古き友なれば中坊が所に來て、今宵しも夜更くるまで物語して、中坊は奧に入て臥す、山中は中坊が子と一つ所に臥したり、何者の仕業にありけん、飛驒守が首を二太刀に切て落しぬ、中坊が家臣等曾てこれを知らずと云云、今の御家人の中坊はこれが後也○筒井主殿助某は、順慶が猶子なり、伊賀守定次が家亡びし後、筒井が一族やあると尋ねさせ給ひしに、順慶が猶子に主殿助某と申すが當時大和國に侍ふと聞召し、頓て御家人に召出され山邊郡に四千石の地を賜り、紀伊守になされ、寄騎の侍三十六人附けて郡山の城を守らしむ、かくて元和元年四月大坂の兵再び起りし時、箸尾布施万財細井井土等を始として、當國の浪人悉く大坂の城に馳せ集り大野主馬が手に屬す、彼等は國の案內者なればとて、大野二千の軍勢を引具して同十六日大和國に發向し闇峠に打臨み鴻島の邊にて勢を兩つに分ち九條奈良の邊りより押入り、民家に火を放ちて一度に閧をどつと作る、主殿助この由を見て、敵何万騎あらん取籠められては叶はじと、一支へもなく、城を落ちて山中に匿れ居たり、防ぐべき兵一人もあらざれば、寄手思ふさまに、此處彼處燒き拂ひ商人等が首共打切つて、南都の方に向ひしが、東國の先陣にて大和路に向ひし軍勢、馳せ向ふと聞て大坂の城に引返す、主殿助それより南都に落ち行きしが、兩御所の御氣色よからぬと聞て、終に自害して失せたりけり、其名或は定昌といひ又定慶といふ、詳なる事を知らず