謹て事の樣を按ずるに
關が原の一戰に、天下悉く
德川殿に歸せし事、たとへば
周の武王の一度戎衣し給ひしと云ふに、をさ〱劣る可らず、初め
大坂にて失ひ參らせんとせしこと、一たび二たびのみにあらず、終に
秀賴の仰なる由にて、
上方の諸軍勢馳せ集りて事起りしかど、此時かの御年わづかに八歲にならせ給ひぬ、たとへ彼の
御母この謀に與からせ給ふとも、女の御身なれば、
兩御所御恨を留め給ぶべきにもあらず、只彼の姦臣等を誅せられしのみにて、かの御事をよく崇め置かせ給ひしは、
武庚祿父を殷に封ぜられしにこそ似たれ、いかに
故太閤の御子なればとて、此後に及て天下を下げ讓り給はんは、
燕王子噲の國を讓りしに同じかるべし、たとへ聖人をして此時に當らせ給ふとも、いかでかゝる事し給ひて世亂り給ふべき、それに
正則がやゝもすれば、黨を結び盟を司どつて、東西の御中を隔て天下を亂さんとす、これのみならず、
參河守殿へ參りて申せし言葉の末を聞くに、
守殿をして
管蔡となし參らせんとせし由なり、其罪誠に淮夷徐戎の
武庚祿父と共に叛きしよりも猶深し、たとへ
正則よく其土民を用ゐる事ありとも、凡そ聖人にあつても其誅をゆるし給ふべからず、まして暴惡かくの如くなりしをや、然るに
大御所かくれさせ給ひ、
將軍家世しろしめされし初、かの官をも位をも昇せ進め給ひしは、かの舊功を忘れ給はぬ事を示し給ひて、其心の改らん事を謀り給ひしなるべし、然からずんば、これ彼の功に酬い給ひし極めにて、此後まさに罰行はるべき時の境ならんか、
かぼとの心1をも辨へず、僅の城一つを堅くして、天下に敵せんと思ひし事のうたてさよ、かく頻りに罪を免されしこと、
正則一人の舊功を思召ての事にはあらじ、天下の草創の初なれば、反側の人々の心を安んじ給はん爲にこそあらめ、さらば
正則が
關原の戰の時、初に味方申せし事は如何にぞや、それも
黑田甲斐守長政の勸めしに依るといふ事を記せる記あれど、疑はしければ長政の傳の下に精しく辯しぬ、是は當時
正則の心に
石田三成が計らひと知てければ、例の腹あしさに、日頃恨を積みし人に隨はん事を耻ち憤り、又
三成が謀ならんには、此後は我身も滅されん事、踵を旋らさじと思ひしが故なり、されば
關原の戰に功多しとは云ふべし、何故に當家に忠盡さんとは思ふべき、又
大坂の軍起りし時、諫書參らせしことも
兩御所の御疑ひ無らんやうに、一々に拵へて如何にもして自ら御供して馳上り
大坂の方人して、如何なる謀をも運らさんと思ひしとこそ覺ゆれ、愚なる身にだにかく思ふに、まして
兩御所、彼人を大忠の人とは如何で思召さるべき、然るに
兩御所かれが大忠を思ひ給へども、其國の土民等が歎きを哀れませ給ひし故に、かく罪せられしなどいふは、古の人の云ひけん腐儒の論にてこそあらめ、抑も
正則故太閤の御事を慕ひ參らせて、
大坂に忠を存ぜしは、其罪にはあらず、天命の既に改りぬるを知るなど云ふは、尋常の人の及ぶべきにはあらず、其下は速に世を避くるには若かじ、それも勇才謀略ある人は善しとも思はじ、さらば死の一事のみあるべきにや、其餘は暫く論ずべからず、これ
正則は只管勇のみありて謀なき人の、妄に動きて禍を招きし者なり、誠に
豐臣家に忠を思ふならんには、兼てよりも謀を運らし、彼御方の絕え給はざらん樣を謀らん事、
大坂の軍起りし日、諫め參らせし書の如くにこそあらまほしけれ、
正則が男
備後守正勝が妾の腹にまうけし子あり、
左兵衞正長といふ、本國にて生れて母又賤しければ知れる人なし、祖父流されし時に、
都に忍ひ登り、入道して
宜齋と號す、この
入道の子を
市松と名づく、後に
將軍家に召出されたりし
左兵衞といふは、此
市松の事と聞えき、