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福嶋

第十二上 · 단락 13 · 780526 10코마 L부터

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지명 26 19 12 10 6 5 4 4 3 3 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1

左衞門大夫源正則は、尾張の國の住人福嶋與左衞門尉某が嫡男なり、初め豐臣太閣播磨の國の守護たりし時、正則童なりしより側近く召仕はる、正則は豐臣家にゆかりの人といふいまだ詳なる事を知らず天正六年播磨の國三木の城を攻められしに、正則生年十八歲初めて高名ありしより、鳥取山崎等の戰に功あらずといふことなく、生年廿三歲にして近江の國志津が嶽の先懸けし、七騎が中の第一にて不次の賞を賜り忽ちに身を起し、この年天正十一年十二月1に叙爵して左衞門尉になさる、此戰のとき字は市松、一番に首取りて參り五千石の地給ひしなり小牧雜賀の軍に隨ひ同き十三年の夏四國の地平らきし後、伊豫の國賜つて今治の城を領す、十万石同き十五年筑紫の陣に隨ひ十六年肥後國宇土の一揆を平らげ、同き十八年關東の軍には韮山の城攻め破り、文祿の初め朝鮮に押渡り外國に名を奮ふ
  1. — 지면 그대로. 福島正則의 叙爵(従五位下 左衛門大夫)은 天正13年 7月 秀吉 関白 임관 때라는 것이 통설
文祿四年七月關白秀次の御事ありし後、正則尾張國清洲の城に移る、二十万石又四位の侍從になされ羽柴の氏を許さる、慶長三年八月太閤薨し給ひて後、德川殿の御養君を松平因幡守康元の娘にて德川殿の御外姪なり正則が嫡男刑部少輔正之の妻に定められしより事起りて、大坂の奉行等加賀大納言利家を勸めて德川殿失ひ參らせんとす、これ奉行等と謀り給はで私に仰せ合されし事を咎めしとなり正則御方として最初に德川殿の御館に馳せ參る、程なく事平きし後、正則等また石田治部少輔三成を討たんとせしに、德川殿中和らけ給ひしに因て事また平きぬ、明れば慶長五年の秋德川殿、奧の上杉追討のため御下向ありしかば、正則父子同じく馳せ下りて下野國宇都宮に陣取る、大坂の奉行等が兵起りて上方又大に亂る、德川殿東國下向の大名を悉く小山の御陣に召され、上方また亂れぬと聞ゆ、人々の家悉く大坂にあり、家康この事を思ふに心苦し、まして人々の心のうち思ひやりぬ抑も弓矢とる身の習ひ、今日みかたと見えしも、明日はかたきとならん事めづらしからず、されば今人々の敵に組みし給はん事も、家康いかで恨を遺すべき、家康もし勝軍したらん後、人々の見參に入らん時、今までのよしみ忘るべからず、とく〱これより引返へして大坂に歸り給ふべしと仰せらる、人々いまだ申し出す旨もなかりし所に、正則一人進み出で申けるは、上方に軍起りし事、風聞の及ぶ所は、大坂の奉行等が秀賴の仰を蒙りて、天下の軍勢を催すとこそ承れ、秀賴御年わづか八歲にこそならせ給へ、いかで斯る御結搆やあるべき、是は偏に三成が計らひにて天下を亂さんとする條、疑ふべからず、人々の心は如何にもあれ、正則に於ては關東の御方として、彼の凶徒等を誅伐仕るべう候と申ければ、有合ふ所の大名一人も殘らず、皆正則が申す旨に從ふ德川殿悅ばせ給ふ事淺からず、正則やがて海道の先陣して打て登り、美濃の國高須竹鼻の城を打破つて岐阜の城を攻め落し、關が原に戰て多くの敵を討ち滅し、毛利嶋津等を降して天下悉くに德川殿に歸せし事、正則が功莫大なり、されども此人心猛く行ひ暴くして人の命を斷つこと昆蟲を殺すとも思はず、まして此度の功にや誇りけん、不思儀の振舞し多かりけり、關が原の軍終てのち、德川殿近江國草津の宿に至り給ひ、洛中物靜かならずと聞召し、狼籍を鎭められんが爲、正則等して都に上らせらる、正則が侍の、使すとて跡にさがつて馳せ行くに、日岡の關過くるとき番の兵と口論に及ふ事ありしが、おのが主に追附きて使の事終てのち、身の暇たまはり引返して彼兵と戰ひ死せんとて、事の樣を申す、正則馬うち立て是を聞き以の外に氣色損し、やゝあつて後、あつはれ汝主の使なればとて耻を忍んで歸り參り、身の暇乞てのち大勢に向て戰て死せんとすと思ふ、神妙の至なり、正則思ふ子細あり我に從て來れとて、都に引具し彼侍を召て汝一定死せんなと問ふ、仰にや及ぶべきと答ふ、よし〱さらば夫にて腹を切れ、正則が身汝に代て德川殿より彼關守らせられし伊奈が首とつて汝に手向けんずものをとて、首打落し伊奈圖書が許に贈り、正則が侍伊奈殿に恨み申すべき事ありとて腹切りぬ、御實撿のため彼首を參らす、其心を得らるべう候といふ、伊奈其使に事のやうを聞き、我手の兵に問ふにこそ斯る事のありしとは始て知てけれ、仰承りぬとて使をば歸し、井伊本多と相議して番の兵六人が首斬つて贈る、伊奈は御先手の足輕大將なり正則いよ〱怒に堪へず、其首悉く打返して凡そ天下の人に貴あり賤あり、貴きが賤しきに同じからず、賤しきが貴きに異なる事、誰かは是を知らざるべき、正則が侍の首まゐらする所に、賜ふ所の首は悉く足輕の兵とこそ見えつれ、其品尤均しからず、抑も正則身不肖には侍れども、德川殿の御方として御先を懸け隨分の微功を顯せし事、全く正則身の功にあらず、これ然しながら家の子郞等らが、命を捨て身を顧みざるに依りし所なり、それに今正則が侍を以て御手に屬せし足輕に准ぜらるゝ所、正則天下に於て面目を失ひ訖んぬ、又正則が參らせし所は侍の首只一つ、報ひ給はらん所の首多き事を望むにあらず、是等の首たまはらんこと、其詮なし、速に返し參らするとぞ申ける、井伊本多これ聞て大に驚き、正則が宣ふ所理至極しぬ、さらば伊奈が手に屬せし寄騎の侍が首切て參らせん、伊奈と中直りし給はらんには、公私の大幸何事か是に過ぎんやと言ければ、正則家子郞等らに疎まれて重てはか〱しき軍せんこと叶ふまじ、今は德川殿にも正則よしとも思召さじ、此後御門下に伺候せんも詮なしとて引籠る、此時福嶋陣替の事ありといふ德川殿此由を聞召して、正則が申條その理なきにあらず、伊奈が計らひ不當なりと怒らせ給ひしかば伊奈腹切て死す、井伊兵部少輔直政頓て其首持せて正則が陣に行き向ふ、正則是を見て井伊殿の御力に依て正則耻すゝいで候とて悅びける、此年十一月安藝備後兩國を正則に賜ふ、今度の戰功を賞せらるゝ所なり、四十九万八千石
此時或人井伊侍從に向ひ、正則おのが功に誇つて、伊奈に腹きらせし人なるに、御恩他に異なるこそ心得ねと言ければ、天下の爲に大忠を致せる人なり、伊奈又家人たる上は、かくあるべきこと勿論なり、去ながら人でとに一生が中あやまち無からんこと叶ひ難し、さればかく御恩の深きこと、正則の愼み厚かるべき事なれと言ひしとかや、
明れば六年參河守殿越前の國賜はらせ給ふ、入部なされしに正則自ら北庄に行き向ひ賀し申さる、守殿の宗徒の御家人に向ひ、正則この後も常に門下に伺候せんに家なうても叶ふべからず、家作るべき地給はらばやと望て、其後また正則年來のよしみ忘れ參らせず、守殿天下の御大事あらんには正則必御味方仕るべし、さりながら太閤の仰せ置るゝ旨はべれば、正則が身秀賴の世にましまさん限りは、心にも任すべからずと語りて暇給はつてぞ歸りける、
同き八年二月德川殿征夷將軍の宣旨蒙らせ給ひし時、正則四位の少將になされ、同七月右大將家の、大相國家此時右大將たり姫君、大坂に入らせ給ひし時、上方の大名悉くに起請文書て秀賴公に參らす、これ正則が計らひし所とぞ聞えける、同き十年五月右大將家拜賀の御時、大御所も都へわたらせ給ひしかば、豐臣家に御對面のため、上洛の事催させ給ひしに、淀殿御憤深くして豐臣家に御腹めさせ、御身も失せさせ給ふべしと聞えて、京大坂の間以の外物さわがしくなる、是も上方の大名の中に內々此由を勸め申す人ありと聞えき、此程より西海南海山陰山陽の大名等、城を高うし池を深うして、戰艦夥しう作り出す、世の中何となく騷しくなり行くに、十二年の冬正則嫡子刑部少輔、狂疾出で來ぬとて取て押込め、終に首を刎て其妻德川殿の御養君を返し參らす、明れば十三年の春、豐臣家疱瘡煩はせ給ふと聞て、上方の大名忍ひ〱に大坂に馳せ集る、中にも正則最初に馳せ參る、十六年三月豐臣家上洛あつて大御所に御見參の時、侍從輝政池田肥後守清正加藤紀伊守幸長淺野三人御供に參りしに、正則は病氣と稱して大坂に殘り止る、十九年五月廿日加賀中納言利長薨して後、子息利光朝臣この年三月大坂より父の卿に送りし牒狀を得て、密に大御所に献せらる、其文を御覽あるに豐臣家御年既に盛りにならせ給ひぬ、すべからく早く大坂に參て、助け參らせらるべき所なり、今城中にある所の兵粮七万斛、又正則等が年頃蓄へし所三万斛、其餘金銀寶貨、軍の支料乏かるべからずと載たりけり、斯ては世の亂れんこと近きにあらんと、御心を勞らせ給ふ程に、此年の九月大坂の軍起りぬ、正則を始として加藤肥後守忠廣等が大坂に在りし米穀、悉く城中に參らす、此時江戶の城增し築かる事あつて、上方の大名多くは此役に從ふ、正則同じく關東に在り、十月七日竹中伊豆守重利、關東より駿河に馳せ參る、大御所重利を召されて汝は正則に親しう相語ふ者なれば、我が爲に又關東に趣て正則に申さんには、此度大坂の軍起りしこと、秀賴の心とも覺えず、是は偏に織田有樂大野木村渡邊等が計らひにこそあるべけれ、抑も正則元より故太閤のゆかりに就きて秀賴にも親しく、又家康父子にも疎からず、されば正則が身に取ては何れの方に組みせんとも思ひわかじ、正則たとひ我が父子に組しぬとも、味方の疑ひなど無らざらん、たゞ須らく正則は關東に止て息男備後守に軍勢つけて參らすべき者かと仰せ下さる、同月十一日大御所駿河の國府を立たせ給ひ、同十三日中泉に至らせ給ふ時、正則が使者竹中が書を帶して馳せ參る、重利正則が旨を述て曰く仰せ謹て承りぬ、抑も此度大坂の兵起りし事、尤も不思儀といひつべし、されば仰せ下さるゝ如く、秀賴の母子かゝる事思召し立て給ふべしとも思はれず、近習の輩が計らひに因りしこと疑ふ所あるべからず、ていれば彼の御母子を諫め參らせんが爲に、二人の使者立てゝ消息を通し候ひぬと申す、本多上野介正純、正則が大坂へ參らする文とつて見るに、此度大佛修造の事に就きて兩御所を怨み給ふべき御結搆、これ只事とも覺えず、ひとへに御家運かたぶかせ給ふべき時至りぬるにこそ侍れ、只すべからく御母子の御心を改められ、御過ちを謝し申されんが爲、御母上をして駿府江戶の間に參らせ置かるべき所なり、正則年ころ關東の御恩蒙る身となつて二心を思はず妻子又關東にあり、今諫め參らする旨に從はせ給はざらんには、正則天下の軍勢に先立ちて馳せ向ひ、速に御勢を打破りて參らせん、其時に至て悔ませ給ふ事ありとも其甲斐あるべからず、御家運のめでたく渡らせ給はんも、さなからんも、御計らひにこそよるべけれと載せたり、同十六日又正則が使者、大御所の岡崎の御陣に馳せ參り一通の書を献る、これ正則先陣を賜て馳せ向ひ速に彼の阿黨等を誅すべき由を望み申す所なり、大御所正則が申す所神妙なり、只其儘に關東に在て妻子悉く城中に參らせ置くべしと仰ありて、使をば返されたり、廿二日永原の御陣に竹中伊豆守重利を召され、急き正則が國に馳せ下り備後守正勝と共に、彼軍勢を催して大坂に向ふべしと仰せ下さる、明れば廿三日都に入らせ給ひし日、正則が使大坂より歸り參る、秀賴の御母子答へさせ給ふ旨もなしと申て關東に馳せ下る、十一月十一日將軍家都に入らせ給ひ、黑田筑前守長政、加藤左馬助嘉明、正則と同じく關東に止められしとぞ聞えける、同廿九日備後守正勝、重利と打連れ軍勢引率して大坂に馳せ來り、豐臣家より正勝に賜りける、數通の御書を獻て城を攻む
程なく御中直りの事調りて後、明る元和元年の夏再ひ軍起りしとき、黑田加藤は將軍家に隨て馳せ向ひしかど、正則をば關東に止めらる、明れば二年四月大御所薨しさせ給ひ、大相國家御代知召され、正則が舊功を思召されけるにや常に彼が積惡を免されしのみに非ず、三年六月參議從三位になされ、然るに此人惡行日々月々に超過して安藝備後の土民等、悉く虐政に苦み安き心もなく、剩へおのが住む廣島の城を恣に增し築きて、天下の大禁を犯しければ、元和五年の六月二日と申すに、國悉く收公せられて津輕の地に移さる、同七月二日津輕は餘りに遠き境なればとて越後魚沼郡の地二万五千石信濃川中嶋の地四万五千石の國にて所領給はりしに、正則頗る御使に對捍の事ありし程に、罪いよ〱重くなつて信濃の國へぞ流されける、子息備後守正勝も父と同じく流されて、明る六年九月十四日に死しぬ、正則配所に在ること凡そ六年、寬永元年七月十三日六十四歲にて死してけり、
正則國除かれし時の事、後に中將直孝朝臣の語りし所を、石谷將監貞清入道の記せしは詳なり、此時上には都に入らせ給ひ、正則は關東に留る、かくて藤堂和泉守高虎本多上野介正純同美濃守忠政酒井雅樂頭忠世土井大炊頭利勝安藤對馬守重信板倉伊賀守勝重等を召て、正則が國除くべきのよし仰せ下さる、七人の議し申す所異同ありて、事極らさること四五日を經て、伊賀守謀りて掃部頭其年若く候へども人の足跡踏み附くべき者にあらず、召し問はるべしと申す、其明けの日直孝を召させられ大炊頭仰に依て事の由を陳べたり、直孝が存ずる所、聞召さるべきよし仰あをしかば、人々の議に異なるべきにしも候はずと申す、されど先づ其存ずる所を申すべしと、重て仰せられしに及で、直孝存ずる所は正則を都に召されて其罪を數へられて申披くべき事あらんには聞召さるべし、若し又本國に罷下りて申すべき旨あらんには、それ又望に任せらるべき所なりと仰下され候はんか、然らざらんには御使一兩輩を關東に差下され、御糺明の事仰せ傳へしめられ對捍の事候はんには、御留守に侍らふ人々して誅せられんに過ぐべからずと申す、高虎聞て直孝年若く候ひて、古の小路軍といふ事いまだ存知候はず、大きなる屋敷に兵者あまた引籠り、切つて出でんは仕にくき合戰なる者をと申す、直孝聞きも敢へず、やあ御邊には夫等の軍いづこにしてや仕たまひけるらん、小路軍といふ事昔には聞けど誰その軍せしといふ者を見ず、昔駿河の國にして今川の家人飯尾信濃守1といふ者討たりし時、此事ありしとは云ふなれど、當時それらの軍せしといふ人は聞かずといふ、先々それらの問答は暫らく置きて明日又議せらるべしと仰あつて御暇給はり、主計頭正就井上して密に直孝に仰らるゝ旨あり、明日とく參るべきとなり、さらば裏の門より入り來るべしとの御事にて罷出る、直孝思へらく、此事决せずして日既に久しく、世に聞ゆる事もこそあれ、我今其議に召加へられて人々の疑うけん事、然るべからずと思ひ、其夜一紙の起請文を書て夜明るを待て參る、正就御門の內に立迎へて導き行き、常の御所の南の椽に至る、直孝袖の內より起請文取り出し、指の血を注き正就して參らす、やがて御前に召されて昨日申せし所また別に思ふ所も出來しにやと仰せらる、昨日申せし所の外又存ずる旨も候はずと答へ申す、其時我初より思ふ所、汝が申す所の如し、各申す所同じからねば、事久しく决せざりき、けふは汝が議せし所の如く事决しつべし、その旨を存ずべしと仰せ出されて罷出で、やがて又人々に隨て參れり、關東への御使には牧野右馬允忠成を下され、花房志摩守を副らる、これら正則に親き輩なり、若し事あらん時の爲に物に心得し者共下さるべきにて久世三四郞廣宣坂部三十郞廣勝に、小栗又市阿部四郞五郞堀田勘左衞門山田十大夫等の御使番を副られしなり此時關東には松平下野守殿蒲生殿の御事最上源五郞義俊等の大名留りて守る、正則が振舞によつて、彼館攻めらるべきよし仰せ下されしと申す、正則が館の上なる愛宕の山の上には久世坂部等を始として、御先手の人々鐵砲たて並べて彼館見下し、事起りなば忽に打破るべき有樣なり、御使の人々彼館に行き向ふ、正則仰の旨承りて、やゝあつて後、大御所世にまします時ならんには、正則申すべき事もありなまし、當代に向ひ參らせて何事をか申すべき、とにもかくにも仰にこそ隨ふべけれと答へ申ければ、聞く人感淚をぞ催しける、大相國家も此由を聞召され、哀れにや思召されけん、津輕の地は遠境なればとて信濃の國川中嶋に安置せられ、越後信濃の國々にて所領を賜ふ、又安藤對馬守重信永井右近大夫直勝、御使を承て安藝國に向ひ正則が家人等に速に國々を下げ渡すべき由を下知す、加藤左馬助嘉明森美作守忠政本多美濃守忠政松平阿波守至鎭松平宮内少輔忠雄生駒讃岐守正俊松平土佐守忠義等、軍勢を引具して彼の國々に向て城々を受取らんとす、正則が家人等路次まで使を出して、正則罪蒙り領せし國々收公せらるべき由謹て承りぬ、抑も此國々正則上より賜はる所なりといへども、正則が家人等は、又正則が命を受けて守る所なり、然るに今正則が命にあらずして國を下け參らせん事、人臣の道かくある可らざるに似たり、詮する所正則が命を乞うて彼が下知に隨ふべき所なりと申ければ、永井申す所その理ありとて、速に此由を正則が許に告ぐ、正則自ら筆とりて、早く其國々さげわたし參らすべき由を下知しければ、家人等悉くに國を去る、酒井宮内大輔忠勝本多縫殿頭康俊等、廣嶋の本城を守れば、本多美濃守忠政第二の城を守て國々の軍勢は引返しぬ、○世に傳ふる雜記等には此時大相國家都にまし〱正則關東に在て御使を下され、又彼國へも御使行き向ひしといふ事を知らず、正則國に在りし樣に記せり、誤れるなり、又一說に元和七年大相國家2都にまし〱、女御入內の御事ありし時のなりと、忘るせるもあれど、元和五年の事たること疑ふべからざるか
  1. — 지면 그대로. 駿府에서 살해된 今川 가신 飯尾氏는 飯尾連龍(豊前守, 永禄8年)이 통설
  2. — 지면 그대로(본서가 물리치는 一說). 徳川和子의 女御 入内는 元和6年 6月이다
又或人の申せしは、正則が許へ御使に行き向ひしは鳥居左京亮忠政なり、忠政此仰を承り、おのが家に歸り供人少々引具して彼館に向ふ、供の侍共に申せしは忠政思ふ所あれば、たとへ忠政命を落す事ありとも、相搆て汝等戰に及ぶ事ある可らずと固く誓はせて行く、正則に對面して仰の旨を傳ふ、正則やゝ有て答へ申すべき事あり、暫く待ち給へとて內に入る、彼の館のうち殊の外物騒しくなりしかど、忠政は只常の氣色にて彼の出居に居て正則が出來るを待つに、二時ばかりが後、正則長袴着して刀をも帶せず、幼き娘の手を携へて出て來り、忠政に打向ひ正則はさしも當家には忠ある者に侍れば、いかなる事ありとも七代が中は罪ゆるさるべき身の、正則が一生の程をだに過ぎ得ず、かゝる仰承るこそ恨めしけれ、されば正則が妻子等一々に刺殺し和殿と刺違へて死なんずと思ひ極め、既に刀を拔きてまづ彼等を殺さんとする事、千度百たひに及べども、いつくに刀をたつべしとも覺えず、此上は力なし、とにもかくにも仰にこそ隨ふべけれ、年來の情に彼等が事よきに賴み參らするにて候と申せしなり、忠政はかく取沈めたる人なりといふ事を承りぬ、此事いぶかし、正則が許への御使牧野花房たる事、既に其時執政よりの奉書案にも見えたり、忠政が事見る所なし、されども此時に下されし奉書案を見るに、初め津輕の地に徙さるべき由の奉書は、六月二日に下す所なり牧野花房を御使として下さるゝよしの奉書は、同月九日に下す所なり、日を隔つること旣に六日なり初め下されし奉書を帶して、彼館へ打向ひし人を知らず、忠政この奉書を帶して彼館に行向ひしにや、又其後越後信濃等の國にて所領給はるよしの御使と、又信濃の國へ流さるゝ由の御使と、兩度の御使あるべし、是等の御使に忠政行き向ひしにや、かの時を去る事わづかに六十餘年、事の明かならざる事かくの如し、これ史官の備らざるによる所か○或記に正則が罪蒙りしは、大御所の御遺命なり、正則當家に大忠ありしこと度々に及びしかど、その國中の土民等悉く虐政に苦しむこと水火の中にあるが如し、されば斯る人を我に大忠ありとて、私の爲に心引かれ多くの人の主たらしめんは、天下を知らすべき人の公の心にあらずとありし程に、大相國家執政の人々と再度三度謀らせ給ひ、遂に流刑に處せられしなり、有難き御心なりけりと記せり、是れ世の人の信じ用ゐる事なり、兩御所の正則が舊功を忘れさせ給ひて、罪に處せられしと、後の世にぞ知り參らせんことを忌み憚りて、正則が事をよく知らぬ人の、かく辭を飾りし所なり、尤も受け難きことなり、此書にしるす所は、駿府政事錄創業記幷に考異、秀康卿家譜等の實錄幷せ取りて、世の浮きたる說をば採らず
謹て事の樣を按ずるに關が原の一戰に、天下悉く德川殿に歸せし事、たとへば周の武王の一度戎衣し給ひしと云ふに、をさ〱劣る可らず、初め大坂にて失ひ參らせんとせしこと、一たび二たびのみにあらず、終に秀賴の仰なる由にて、上方の諸軍勢馳せ集りて事起りしかど、此時かの御年わづかに八歲にならせ給ひぬ、たとへ彼の御母この謀に與からせ給ふとも、女の御身なれば、兩御所御恨を留め給ぶべきにもあらず、只彼の姦臣等を誅せられしのみにて、かの御事をよく崇め置かせ給ひしは、武庚祿父を殷に封ぜられしにこそ似たれ、いかに故太閤の御子なればとて、此後に及て天下を下げ讓り給はんは、燕王子噲の國を讓りしに同じかるべし、たとへ聖人をして此時に當らせ給ふとも、いかでかゝる事し給ひて世亂り給ふべき、それに正則がやゝもすれば、黨を結び盟を司どつて、東西の御中を隔て天下を亂さんとす、これのみならず、參河守殿へ參りて申せし言葉の末を聞くに、守殿をして管蔡となし參らせんとせし由なり、其罪誠に淮夷徐戎の武庚祿父と共に叛きしよりも猶深し、たとへ正則よく其土民を用ゐる事ありとも、凡そ聖人にあつても其誅をゆるし給ふべからず、まして暴惡かくの如くなりしをや、然るに大御所かくれさせ給ひ、將軍家世しろしめされし初、かの官をも位をも昇せ進め給ひしは、かの舊功を忘れ給はぬ事を示し給ひて、其心の改らん事を謀り給ひしなるべし、然からずんば、これ彼の功に酬い給ひし極めにて、此後まさに罰行はるべき時の境ならんか、かぼとの心1をも辨へず、僅の城一つを堅くして、天下に敵せんと思ひし事のうたてさよ、かく頻りに罪を免されしこと、正則一人の舊功を思召ての事にはあらじ、天下の草創の初なれば、反側の人々の心を安んじ給はん爲にこそあらめ、さらば正則が關原の戰の時、初に味方申せし事は如何にぞや、それも黑田甲斐守長政の勸めしに依るといふ事を記せる記あれど、疑はしければ長政の傳の下に精しく辯しぬ、是は當時正則の心に石田三成が計らひと知てければ、例の腹あしさに、日頃恨を積みし人に隨はん事を耻ち憤り、又三成が謀ならんには、此後は我身も滅されん事、踵を旋らさじと思ひしが故なり、されば關原の戰に功多しとは云ふべし、何故に當家に忠盡さんとは思ふべき、又大坂の軍起りし時、諫書參らせしことも兩御所の御疑ひ無らんやうに、一々に拵へて如何にもして自ら御供して馳上り大坂の方人して、如何なる謀をも運らさんと思ひしとこそ覺ゆれ、愚なる身にだにかく思ふに、まして兩御所、彼人を大忠の人とは如何で思召さるべき、然るに兩御所かれが大忠を思ひ給へども、其國の土民等が歎きを哀れませ給ひし故に、かく罪せられしなどいふは、古の人の云ひけん腐儒の論にてこそあらめ、抑も正則故太閤の御事を慕ひ參らせて、大坂に忠を存ぜしは、其罪にはあらず、天命の既に改りぬるを知るなど云ふは、尋常の人の及ぶべきにはあらず、其下は速に世を避くるには若かじ、それも勇才謀略ある人は善しとも思はじ、さらば死の一事のみあるべきにや、其餘は暫く論ずべからず、これ正則は只管勇のみありて謀なき人の、妄に動きて禍を招きし者なり、誠に豐臣家に忠を思ふならんには、兼てよりも謀を運らし、彼御方の絕え給はざらん樣を謀らん事、大坂の軍起りし日、諫め參らせし書の如くにこそあらまほしけれ、正則が男備後守正勝が妾の腹にまうけし子あり、左兵衞正長といふ、本國にて生れて母又賤しければ知れる人なし、祖父流されし時に、都に忍ひ登り、入道して宜齋と號す、この入道の子を市松と名づく、後に將軍家に召出されたりし左兵衞といふは、此市松の事と聞えき、
  1. — 지면 그대로. 「かほど」의 탁점 위치 오식으로 보임
掃部助源正賴は正則が弟、初め豐臣家に仕へて伊勢國長島の城を領す、一万石慶長五年の秋上方の軍起りし時、正賴舍兄と共に德川殿の御方として、海道より馳せ上り己が城に立籠る、無勢なればとて、山岡備前入道道阿彌を加勢となさる、原隱岐守勝胤、太田に陣取て此城を攻む、原もさすがに無勢なれば、押寄せて攻るまでもなく、互に兵を出して戰ふ、かゝる所に關が原の合戰、上方の軍敗れしかば、勝胤何處ともなく落ち失せぬ、正賴正則が弟として、己が城を守り得たれば、此年十一月大和國宇陀の城を賜て移る、三万石慶長十九年正月、大御所關東わたらせ給ふ時、正賴が侍、一封の書を献て告け申す旨あり、此月の末駿河の國府に歸らせ給ひし時、蒲原の宿にして再ひ書を献る、今年八月正賴が郞從等、彼書献りし侍を駿河の國府の町にして搦め捕る、町奉行彥坂九兵衛尉光政怒て、奉行にも告けずして、恣ま城下に人を捕る條、頗る狼籍の至也と云ひければ、正賴聞て正賴が郞等を、正賴が追捕せんに、何條の事か有るべき、斯る不思議なる事を承る者かなと答ふ、大御所此由を聞召し、彼捕へられし侍の繩ときて追却し、追捕せし輩を禁獄せらる、程なく大坂の軍起りしかば、何の御沙汰もなく、明る元和元年五月大坂の事終て後、同六月の末、正賴が許に小堀新助後に遠江守中坊左近を御使として、汝が家人告け訴ふる所、汝が罪免れ難しと雖ども、汝が兄正則が功を思召すが故に、何の御咎もあらず、夫に又濫に法を犯して、剩へ奉行たらん者に無狀の辭を申す、其罪既に重疊せり、然りといへども、猶別の儀を以て其罪を宥めらるゝ所なりとて、所領を收公せられてけりこれより宇陀の城は毀たれぬ又正賴が子息二人あり其後一人は將軍家に召出さるゝと云ふ