中納言豐臣秀秋は、小早川左衞門督大江隆景の世嗣なり隆景をば三原中納言と申せし也公卿補任には隆景中納言に任せし事みえず實は木下肥後守家定が四男、豐臣太閤家北政所の御甥なり、初め北政所みつからの御子なき事を深く歎き給ひしかば、この中納言のいまだ幼き時、童名は辰之助太閤の御幼君となされ御寵愛淺からず、天正十九年の春隆景が望み申すに依て、其嗣にはなされてけり、抑も隆景が此人を養て子とせしこと、其謂れありとぞ聞えたる、隆景が甥毛利右馬頭輝元が世嗣いまだ無かりし時、黑田勘解由孝高生駒右馬1頭親正、二人は毛利が家に親しかりければ、其世嗣の事を謀る、孝高計ひて殿下に申て御養君して、家繼がせたらんには家の爲も國の爲も善かんぬと覺ゆと云ふ、親正も此事尤も然るべしとて、先づ左衞門督隆景の許に行て此由を告ぐ、隆景聞て其事もし成りなんには我等が家の幸にこそあんなれとばかり答て、生駒が歸るを待かねて、急き施藥院の許に行向ひて、隆景殿下の御恩に依つて筑前の國を領するのみにあらず、筑後肥前の中にして二郡つゞの地を下し給ふ、吾が齡既に傾きぬ此恩に報い奉らん日なし、秀秋に國讓り參らせ隆景は山陽の內にして老い養ふべき程の地賜て、籠り居てさふらはんには、何事の幸か是に過くべき、此由を以て內々御氣色を伺ひて給はるべしとぞ云てける、關白此由を聞召し悅ひ給ふこと斜ならず、隆景が請に因て其嗣とこそなされてけれ、其後隆景が計らひにて是れも又故陸奧守元就が孫なりける秀元して輝元が世嗣となす、輝元秀元は從弟也精しきことは毛利が傳と合せ見るべし隆景がかく謀りしは輝元が家は嫡流にて、おのが家は庶子なれば、嫡流の種姓絕えなんことを哀みて、自ら其禍に代りけるこそあはれなれ、文祿の初め朝鮮の事起り、隆景彼國に渡て王城の戰に大明の李如松を打破り又晋州の城を攻落す、其勸賞に從三位の中納言して慶長二年六月十二日年六十三歲にて薨じぬ、秀秋隆景が家を繼て中納言になさる、
- 生駒右馬 — 지면 그대로(다음 열 「頭親正」). 生駒親正의 관명은 통설 雅楽頭. 바로 앞 毛利輝元의 「右馬頭」에 끌린 오기로 보인다