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金吾

第十二上 · 段落 7 · 780526 6コマ Lから

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地名 10 7 7 4 3 3 3 3 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

中納言豐臣秀秋は、小早川左衞門督大江隆景の世嗣なり隆景をば三原中納言と申せし也公卿補任には隆景中納言に任せし事みえず實は木下肥後守家定が四男、豐臣太閤家北政所の御甥なり、初め北政所みつからの御子なき事を深く歎き給ひしかば、この中納言のいまだ幼き時、童名は辰之助太閤の御幼君となされ御寵愛淺からず、天正十九年の春隆景が望み申すに依て、其嗣にはなされてけり、抑も隆景が此人を養て子とせしこと、其謂れありとぞ聞えたる、隆景が甥毛利右馬頭輝元が世嗣いまだ無かりし時、黑田勘解由孝高生駒右馬1頭親正、二人は毛利が家に親しかりければ、其世嗣の事を謀る、孝高計ひて殿下に申て御養君して、家繼がせたらんには家の爲も國の爲も善かんぬと覺ゆと云ふ、親正も此事尤も然るべしとて、先づ左衞門督隆景の許に行て此由を告ぐ、隆景聞て其事もし成りなんには我等が家の幸にこそあんなれとばかり答て、生駒が歸るを待かねて、急き施藥院の許に行向ひて、隆景殿下の御恩に依つて筑前の國を領するのみにあらず、筑後肥前の中にして二郡つゞの地を下し給ふ、吾が齡既に傾きぬ此恩に報い奉らん日なし、秀秋に國讓り參らせ隆景は山陽の內にして老い養ふべき程の地賜て、籠り居てさふらはんには、何事の幸か是に過くべき、此由を以て內々御氣色を伺ひて給はるべしとぞ云てける、關白此由を聞召し悅ひ給ふこと斜ならず、隆景が請に因て其嗣とこそなされてけれ、其後隆景が計らひにて是れも又故陸奧守元就が孫なりける秀元して輝元が世嗣となす、輝元秀元は從弟也精しきことは毛利が傳と合せ見るべし隆景がかく謀りしは輝元が家は嫡流にて、おのが家は庶子なれば、嫡流の種姓絕えなんことを哀みて、自ら其禍に代りけるこそあはれなれ、文祿の初め朝鮮の事起り、隆景彼國に渡て王城の戰に大明の李如松を打破り又晋州の城を攻落す、其勸賞に從三位の中納言して慶長二年六月十二日年六十三歲にて薨じぬ、秀秋隆景が家を繼て中納言になさる、
  1. — 底本のまま(次の列「頭親正」)。生駒親正の官名は通説では雅楽頭。直前の毛利輝元の「右馬頭」に引かれた誤記とみられる
此年二月いまだ隆景が薨ぜざりし內、秀秋廿三歲にして朝鮮を討たん大將軍を承て、宗徒の大名あまた引具し、都合其勢拾六万三千人、五月廿二日大坂を立て同七月二日朝鮮に押渡り釜山の城に入る、明れば慶長三年正月四日蔚山の後卷し眞先に進み、秀秋が手にかけて馬武者十三騎切つて落す、凡そ討取る所の首一万三千二百三十八、太閤に献る、此使者同月廿四日伏見の城に馳せ參る、太閤軍のやうを聞召して御感斜ならず、石田治部少輔三成密かに申しけるは、金吾殿の御振舞ひ誠にゆゝしうも聞えさせ給ふ、去ながら既に御代官として向はせ給ひし御身の、自ら釜山の城を出で給ひ深く敵の中に入て戰はせ給ひし事の體、輕忽にこそ存ずれ、敵もし其隙を伺て釜山城を攻め取て候はんには、本朝の通路自在なるべからず、この後は斯る御振舞なかるべからざる旨を仰せ下さるべうもや候はんと申ければ、太閤實にもと思召す御氣色にて、秀秋が功を賞し給はず、秀秋太閤の仰蒙て城を築くこと九箇所、軍勢を籠め置て同三月十七日釜山の港に船を泛へ四月四日大坂に着き、明れば五日伏見の城に參らる、秀秋に隨ふ所の七人の軍奉行、幷に加藤左馬助嘉明同じく參る、伏見に在合ふ大名悉く參り集ひ、秀秋の凱陣を賀し申さる、太閤やがて御出ありて御對面訖つて後、太田飛驒守一正1秀秋の軍し給ひしやう、一々に陳じて感じ申す、太閤いや〱大將軍の自ら諸軍と功を爭つて輕々しき軍せんこと然るべからず、我れ秀秋を差向けしこと返す〱も後悔に及びきと仰せらる、秀秋聞きもあへず、よの常の御使ならんには幼弱の身など辭し申さではあるべき、追討の御使なればこそ仰をば承れ、然るに今人々の聞き給ふ所にて、御後悔の旨を承るこそ口惜けれ、秀秋が不覺の事あらんには、軍奉行の人々只今御前にて眞直に申し、速に秀秋が首を召されて御憤を散ぜられんやうには計らふべしと、押返し〱申されしかば太閤御座を御立あつて內に入らせ給ふ、治部少輔三成參て秀秋が老杉原下野守山口玄蕃允に向ひ、大殿の御氣色よからず先づ御館に歸し入らせ參らせらるべしといふ秀秋聞て、ゑや首打落さんずる氣色にて打刀とつて立つ、德川殿引き留め給ひ、兎かく制して彼舘に伴ひ給ひしに、太閤の御使として尼孝藏主入り來り仰を傳て、抑も去りし頃蔚山の戰に、輕々しき振舞ひし、又只今の申條甚た奇怪の至なり須らく早く筑前の國を返し奉りて、越前の地に移るべしとありければ、中納言大に怒て、やあ尼前秀秋が身に國奪はれん罪覺なし、命あらん限は只もとの儘にこそあるべけれ、速に首を刎らるべう候と申せ尼前とて追つ返さる、德川殿尼孝藏主に向ひ給ひ、仰せ謹て承りぬと宣ふとこそ申さるべけれとありけれは、尼前承りて此上は內府の御計ひこそ候べけれ、政所の御方へも其由を申すべきにて候と申て罷出づ、德川殿秀秋に向ひ給ひ、たゞ兎にもかくにも仰に隨ひ給はん事こそあらまほしけれ、政所の歎かせ給はんには、太閤もさのみは心强くはおはせじものをと仰ければ、さらば秀秋みづから三成が首切て後、內府の仰にこそ任せ候はめと申さる、德川殿も今は强て仰せらるべきやうもなく、杉原山口を密に召され、まづ家人少々越前の國に下さるべしと仰ければ、外樣の侍少々を差下す、斯て德川殿大納言利家と共に秀秋の事御歎あらんとありしかども、利家辭し申さる、德川殿は日毎に太閤に參り給ひ、仰せ出さるゝ旨もなし、太閤如何にかくは毎日見え給ふやらんと仰ければ、秀秋の國移されんこと痛はしう覺えて、此由申さんとて參り候へども、えこそ申し出され侍らねと答へ給て、其後も日毎に參り給へば、太閣又初の如く仰せければ、德川殿の答へ給ふやうも、初の如くなりしかば、太閤さほどに思ひ給はんには、內府の計ひに任せまゐらすべしと仰ければ、德川殿悅ばせ給ひて秀秋の許に向ひ給ひ、杉原山口召して越前に下りし侍共召返さる、
  1. — 底本のまま。太田飛騨守の実名は通説では太田一吉
程なく六月二日に德川殿秀秋と打連れ參らせ給へば、太閤御對面あつて饗宴の儀事終り、秀秋に物多く賜ひ安宅貞宗の刀吉光の脇差大盤若捨子等の茶壺鷹二連黃金千枚等なり德川殿にも引出物ひかる、光忠の刀黃金三百枚秀秋この日長崎伊豆守を德川殿へ使として、此度の御芳恩いづれの時にか忘れ候べき、報ひ參らすべき時こそ侍るべけれと申されたり、
秀秋越前に徒されんとせし事の終始は、大河内秀元が朝鮮物語に詳かなり、世の人詳なる事を知らざるにや異說多し、信ずるにたらず、又蔚山の戰のこと諸家の說まち〱なり今爰に記す所は大河內が物語の說を採れり
太閤薨し給ひ同き五年の秋、德川殿奧の上杉追討のため御下向ありしかば、秀秋も急き軍勢を催して奧に下らんとて本國を打立つ、大坂の軍また起りて諸國の軍勢を催促す、秀秋德川殿の芳恩を報ぜんこと此時にありと思ひしかば、舍兄木下右衞門大夫延俊が播磨國姫路の城に立籠つて、東國の御勢の攻め登らん程を待たばやと思ひ、先つ山岡備前入道道阿彌に就きて此由を關東に申せしに、舍兄延俊あへて城を貸さず、秀秋大に怒て、延俊と中違ひして大坂に至り、それより都に登て政所の御方に參り、秀秋は內府の御方仕るべく思ひなして候と申さる、政所聞召して大坂の兵伏見の城攻めらるべしと聞ゆ、和君が兄の宰相これ勝俊の事なり後に長嘯子と申しき木下の傳に此人の事詳なり內府の兵と共に彼城にあり、和君も大坂の兵と同じくかの城を攻めんに、わらは彼城に入て兄弟の軍せんこと淺ましとて、とかく中直しせん程には、東國の勢も攻め登りてん、あなしこ和君獨り奉行等と中違ひして、爰にて軍起さんこと然るべからずとて返し給ひしに、勝俊伏見の城を出づ、秀秋この上は伏見の城に入て東國の御勢と共に立籠り內府を待つけ參らすべしとて、伏見の城に使立て此由を云はせらる、鳥居彥右衞門尉元忠其旨に隨はず、實に內府の御方せさせ給はんには、寄手の人々と共に此城に向ひ給ひ、如何にもして人々に疑はれ給はぬやうに拵て、東國の軍勢攻め登らん時に裏切せさせ給ふべし、御使の旨をば關東に申すべきにて候と答て、元忠が郞等一人關東に下しかくと申す、伊與田彌右衞門といふ郞等を下せしとあり秀秋力及はず家人平岡石見守して黑田甲斐守長政に就きて平岡は黑田如水入道が姪婿なり關東に此由を申し、寄手にぞ加はりける、伏見の城落てのち此城かりて東國の勢の攻め上らん程を待つべしと思ひしに城悉く燒かれぬ、斯て上方の軍勢東山東海北陸より攻め下る、秀秋も急き發向あるべしと催促度々に及ふ、或は伏見にて手負し兵を助け、或は本國より馳せ登る勢を待つなど言て日を送り、重て黑田が許に平岡が弟出羽守を質として神木、左兵衞尉齋藤與右衞門二人の使つけて關東に下す、さのみは如何があるべきとて、やう〱大坂を打立つ、道のほど又日數經て德川殿既に尾張國に打入らせ給ふと聞えて、關が原のこなた松尾の山に至て陣を取る、九月十五日東西の軍矢合せすと見てければ、上方の軍勢の後より切つて懸りし程に、かたき前後を防きかねて忽ち敗れ失せにけり、軍終て後、德川殿の御陣に參られしかば、御悅斜ならず秀秋また佐和山の先陣を望まる、同十七日爰をも攻め破つて石田が一族悉くに誅せられぬ、茲年十一月勸賞行はる先づ秀秋に備前備中美作三箇國をぞ賜はりける、七十二万石を領す本領は三十三万六千四十石なりしと云ふ幾程なくて同き七年十月十八日秀秋廿八歲にて世を早うし給ひて、世嗣なければ家絕えぬ