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蒲生

第十二上 · 段落 6 · 780526 3コマ Lから

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地名 6 5 4 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

蒲生記には平家の時と云ふ、系圖には賴朝卿の時の事と見えたり○按ずるに系圖と蒲生記との記す所異なる事共多し
其子俊賢鎌倉の右大將家に仕ふ系圖には右馬允秀俊が子俊賢初は雅賢と云ふと云々俊賢が六代の孫大夫左衞門尉秀朝、建武年中足利殿に屬して戰忠を致す、秀朝に七代系圖には六代と見ゆ刑部大輔貞秀入道智閑が時に至て、嫡男刑部大輔秀行は惣領なればとて將軍家に出仕させ、次男左衞門大夫高鄕は佐々木が家に屬せしめ、三男音羽右馬允秀順は細川が家に仕へしむ、刑部大輔秀行卒して其子刑部大輔秀紀つぐ、叔父左衞門大夫高鄕、甥の秀紀を滅して其所領を合はす、高鄕が男下野守定秀父に繼ぐ、其子左兵衞大夫賢秀、これ參議氏鄕の父なりけり、初め賢秀家を繼きて後、主人近江國の守護佐々木左京大夫義賢入道承禎父子、織田殿の爲に滅されぬ、賢秀おのが城日野に立籠り寄手を待つて討死せんとす、こゝに伊勢の國の住人神戶藏人大夫は、賢秀が妹に添ふたりければ、累代の家忽に滅びん事を哀み、織田殿に申て日野の城に行き向ひ樣々に敎訓し、賢秀具して信長の御陣に參る、此時氏鄕歲僅に十三にて、鶴千代丸と申せしが、父と共に參りしを織田殿御覽ありて、子息よのつねの人にあらず、信長が娘に配はせ侍らんとて、岐阜の城に留め忠三郞と召さる織田殿時に彈正忠たり依て忠の字を取て名つけ給ひしと云明れば永祿十二年八月信長、伊勢國大河內の城に發向あり、忠三郞茲年十四歲たゞ一人拔駈して多勢の中に戰ひ、善き首とつて歸り參る、信長大に驚き給ひ同き冬姬君賜て日野の城にぞ歸されける、天正十年六月二日織田殿父子都にて失せ給ひし時、左兵衞大夫賢秀、安土の城の留守として忠三郞氏鄕は日野の城にあり、氏鄕信長の御事を聞て手勢五百餘騎引具し、輿五十挺鞍置きたる馬百疋駄馬二百疋を從へて、其夜腰越まで馳せ參り、先づ案內を通ず、父の賢秀大に悅び織田殿の御臺所公達姫君を始とし、女房達に至るまで、悉くに引具して日野の城に入れ參らせ、急き軍勢を催して逆徒誅戮の謀を運らす、かゝる所に三七殿の御勢、攝津國より攻め上て光秀忽ち討たれにけり、氏鄕北畠殿の御供して都に上りしに、羽柴筑前守秀吉、氏鄕が此度の振舞を深く感じ、明智に組せし當國の國人等が闕所の地、蒲生にぞ附られける五千石の地といふ羽柴柴田が軍起りし時、父子秀吉に與みす、秀吉大に悅ひて賢秀が娘迎へて妻とす、これ後に三條殿と申せし御事なり、氏鄕の妹なり柴田亡び三七殿討たれ給ひ、秀吉氏鄕に伊勢國龜山の城を賜ふ氏鄕が請に依つて關右兵衞佐に賜ひぬ彼城は關が相傳の城なればなり氏鄕やがて叙爵して飛驒守に任す、秀吉北畠殿と不快の時、氏鄕また秀吉に與みし、美濃國加賀井の城を攻め落す、此勸賞に伊勢國松が嶋の城賜ひ日野の領六万石に倍して十二万石を給ふ田丸中務少輔關右兵衞佐澤源六秋山右近片野宮內○澤より下の三人は大和國宇陀郡の住人なり等を氏鄕の手に附けらる、同國木造小山戶の軍を始めて、紀伊越中筑紫の陣に至るまで、悉く戰功を顯し天正十六年四月十八日左近衞權少將正四位下になされ、羽柴の號を許さる、此年松坂の城を築て移る同き十八年春夏の間、關白殿に隨ひ相摸國に發向し、まづ伊豆國韮山の城を攻て小田原の城を圍み攻む、北條亡びて後、先陣承て陸奥國に向ふ、八月十七日關白殿、白河の城に氏鄕を召され、會津六郡の地に越後小河の庄山道の地合て十二郡を賜ひて、陸奥出羽の守護職を給はる、四十万石の地を領せしなり又木村伊勢守同彌一右衞門尉父子に、葛西大崎の地賜て二十万石氏鄕に副られたり、同九月の初關白御上洛の後、葛西大崎の地に賊徒起て木村父子を攻む、氏鄕此由を聞て伊達二郞政宗に牒狀し、軍勢を率る馳せ向つて是處彼處の賊徒悉くに打平く、明れば十九年の夏、南部が家の子九戶、主に叛く、中納言秀次追討の爲に下向あり、氏鄕先陣に進みて九戶が城を攻め破る、去年今年の勳功の賞として、奧羽七郡の地を加へらる奧州田村四本松伊達信夫刈田、出羽の長井郡等也本領合て十九郡百二十万石餘の地なり此年十二月廿八日參議從三位になさる、氏鄕參議に任せし事公卿補任には見えず明れば文祿元年の夏朝鮮の事起て、氏鄕肥前國名護屋に陣し明る二年の春俄に違例して血を下たすこと夥し、諸醫術を盡しけれども、驗なくて本國に歸る、三年正月病を扶けて上洛す、今年十一月太閤氏鄕の家に入らせ給ひ饗宴の事あり、氏鄕の病日々月々に重くなりて、四十歲と申せし文祿四年二月七日、都のうちにて薨じけり、かきりあれは吹かねと花はちるものを心みしかき春の山風といふ歌を假初の筆ずさみのやうにぞ書おきける、是れは去る天正十九年九戶が戰ひの後、石田治部少輔三成都に歸て此度氏鄕が軍せし樣を見るに、たゞ人には侍らず、彼が軍勢の道を打つたること、七日がほど引きも切らず、それに一人も軍法を犯すもの候はず、此人殿下の御爲に二心を存せざらんには、かゝる御固め世にも又あるべからず、能く心得させ給ひて見給ふべき人なりと申せしかば、密かに毒を與へられしに依て、忽に病に犯されて終に空しうなりけるを、かくは思ひつゞけしとぞ聞えける、同七日太閤淺野彈正少弼長政を御使として、子息鶴千代丸に父の所領相違あるべからざる由を仰せ下さる、長政御敎書を帶し奧に下りて國務を沙汰す、今年鶴千代丸元服して藤三郞秀隆と名のり、後には秀行と改む太閤媒せさせ給ひて德川殿の御娘を參らせらる、其年關白秀次の御事ありて大坂の城築かれし時、秀行飛驒守になされ慶長元年從四位下侍從となる、同き三年の春家の老蒲生四郞兵衞、故宰相の双なき昵近の侍亙理八右衞門といふ者を討ちぬ、宗徒の家人等此事を訴へしかば、四郞兵衞は肥後國に流されて加藤主計頭清正に預けらる、石田に親しかりしに因て死刑を免かれしなり此秀行の母上は故右大臣信長公の姫君にて、類なき美人の聞えまし〱ければ、近曾殿下に參らせ給ふべきよし、忍び〱に御消息度重りし程に、うき事に思ひこめ給ひて、みづから飾おろして尼になり給ひしを、太閤安からぬ事に思召す、かゝる所に蒲生亘理が獄起りければ、抑も會津の地は陸奧、出羽の鎭守として、大事の所にてあんなるに、秀行が年いまだ若くして、家の事たに猶治め得ぬに兩國を守護せんこと叶ふ可らず、成人の程までは他の境に徒し置くべき者也とて、所領奪ひ取て下野國宇都宮の城に移さる、十二万石
同き五年東西の軍起りし時、宇都宮の城を守て奧の先陣にぞ候ひける、明れば六年の八月上杉中納言景勝、米澤の城に徒され九月廿日會津の城をば秀行朝臣に賜ふ、六十万石同き十七年五月十四日三十歲にして世を早うし給ひたり、嫡子龜千代丸十歲にして家を繼ぎ、元服して下野守になされ忠鄕と申す、次男鶴松丸中務大輔になつて忠知と申す、兄弟共に大御所の御外孫にてわたり給ひしかば、將軍家より御諱字賜て御家號を許さる、忠鄕朝臣侍從從四位下より參議正四位上になされて、寛永四年正月四日廿五歲にて卒し給ひ、世嗣ましまさねば家たえぬ、
侍從兼中務大輔藤原忠知、秀行朝臣の次男寛永三年四位の侍從になされ、此年出羽の國上山の城を賜ふいか程にや定かならず明る四年の春兄忠鄕朝臣世を早うし給ひし後、同二月十日伊豫國松山の城に、累代相傳の所なればとて近江國日野の地添へて下し賜ふ、合せて廿万石同き十一年八月十八日三十歲にして卒し、是も世嗣ましまさねば家絕えぬ、