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藤堂

第七下 · 단락 7 · 780523 54코마 R부터

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지명 6 3 3 3 3 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

左少將兼和泉守藤原高虎は、初名は與右衞門と申、叙爵して佐渡守に任し、其後和泉守と申せしなり、近江國住人藤堂入道白雲が子、白雲初め源介虎高といひしといふ淺井備前守長政が家人、生年十五歲、姊川の合戰に高名し、十七歲にして、淺井が家を去りて、阿閉淡路守が許に往き、こゝをも又立ち出て、磯野丹波守秀家が許に在る事數月にして、織田七兵衞尉信澄の家に往き、丹波國籾井の城の戰に高名し、其後大和大納言秀長の家人となり、播磨の別所を討れし時に先駈し、江馬の一揆せめ平らけしかば、所領の地加へて、其功を賞せらる、初め秀長三百石をたまひ此たひ三千石の地を給ひしと云、鳥取、冠城、高松、山崎、志津が嶽、大和の國の戰に先懸して、其功これ多ければ、秀吉より所領の地賜ひ、秀長又新恩の地を加へらる、秀吉より千石、秀長より三百石を給ひて、既に四千六百石といふ、其後勢州松が崎1、尾州小牧の功に依りて、秀長また所領の地を加へ賜はる、紀伊伊賀の國にて、五千四百石を加へられて、合せ一万石を領せしといふ、かくて紀伊阿波等の亂を平げ、筑紫の陣に日向の國の先陣して敵を破る、初め秀長大納言、丹羽五郞左衞門尉長秀が二男仙丸を養て子とす、天正十六年に至て、秀吉の仰にて、仙丸を以て高虎が子となされ、藤堂宮内少輔高吉と申す、秀長又高吉に所領の地を與へらる、爰に於て、高虎高吉父子二万石の地を領せし也、天正十九年四月廿二日、秀長薨して、猶子秀俊、家を繼きて、中納言に任す、文祿元年朝鮮の軍起り、秀俊名護屋の陣にあり、高虎軍の事を承り、二千人を引率して、釜山に陣し、唐嶋を攻め、番船百四十餘艘を取て、首を切る事百六十餘、其後釜山南海等の城、攻め落し、同き二年六月、晋州の城を攻破り、高吉生年十六歲、自ら槍取て、多くの敵を討つ、同三年、高虎高吉歸朝す、同四年四月、中納言秀俊薨ぜられしかば、高虎髻きつて高野山に逃る、秀吉召されし事度々に及びて、高虎大坂に參る、やかて伊豫の大洲の地賜る、五万石を加へられて、七万石を領すと云慶長二年八月、高虎高吉、再ひ朝鮮に渡りて、南原の城を攻め、首貳百六十九を切つて獻る、蔚山の後卷せしに至て、高吉また先を懸けて敵を破り、同三年六月父子共に召歸され、所領の地を加へ給て、勳功の賞を行はる、一万石を加へらる此年八月十八日太閤薨し給ひしかば、宗徒の人々、大坂の奉行等と、本朝の軍勢を返さるべきよしを議して、其使を選らばる、德川殿この高虎に若く者あるべからずと仰せられしかば、衆議もまた一決して、高虎御使の事を承る、さても德川殿高虎その任に當れる事を知召されしは、むかし初て御上洛ありし時、關白悅ひ給ひしこと大方ならず、舍弟秀長大納言の家を御旅館と定めらる、高虎其家人たりしかば、御儲の事共を承る、關白殿此後も德川殿をり〱の上洛はありなん、されば御館なくしても叶ふべからず、聚樂の地を點して、御館造り出して參らすべきよし、秀長卿に仰せられしかば、高虎また經營の事を司りしより、日々に親しう伺候せしかば、彼れが心の底も能く知召し、彼れ又德川殿の御情に感じ奉る事も多りき、かくて我が朝の諸軍勢、事ゆゑなく歸朝し、幾程なく、大坂の奉行等、密かに謀て、德川殿失ひ參らせんとす、高虎是を聞て、急ぎ伏見の御舘に參り、此由を告申し、また大坂に歸て御方すべき人々を催す、二心なき御方人なりしかば、此後度々御大事に及ばせ給ふべき事ありしかど何の御恙もわたり給はず、奧の景勝中納言御退治の時、高虎從ひ參らせて下向す、其御跡にて、上方の軍起りしかば、高虎また先陣の人々と打連れて馳せ上る、此時御暇乞申すとて、密かに申けるは、抑も此度御方に參て、先陣承り馳せ向ふ大名等、多くは故太閤の恩蒙つたる輩にて、殊には當時妻や子ども、大坂に留め置て候へば、心の奧はかり難し、相構て高虎が催し奉らざらん內は、御上りあらん事、然るべからずと申して上る、御方の人々、岐阜の城攻落し、河戶の合戰して、大柿の城に向ひ、赤坂の宿に陣取りし後、高虎早馬を參らせて、急ぎ御上りあるべしと告げ申す、關が原の戰には先陣に在つて、松尾の山に向ふ、凡そこの年月、彼れは德川殿に大忠の者なりければ、此年慶長五年十一月、彼の本國にして、餘多の地加へ賜ふ、元は八万石とも七万石とも申なり、德川殿の御恩からふりて廿万石を領す、此後和泉守になさる、何時の頃にや、同き十一年備中國にて地加へらる、城主譜に出づ、二万石の地といふ、十三年八月、伊賀國に伊勢の地そへて賜て移る、凡二十二万九百五十石なり、城主譜に、此内伊豫にて二万石つけて今治の城領する事舊の如しと云々、十四年、淡路の國の人々、伊豫の地に移さる、淡路の國をば高虎が兵して守らせける、此年、四國の大名等が、戰艦悉く破り棄つべしとて、まづ淡路の國に集めて、高虎か手に受、けとる十五年の秋、丹波の國龜山の城築かる、高虎自ら財を以て城の層樓造り出して奉る、世に殿主といふなり、十六年の夏、加藤肥後守清正卒し、息男未だ幼稚なりければ、高虎仰を承り、肥後の國に趣き、彼の國務を沙汰して、明る十七年の春に至て歸れり、十八年の冬、富田信濃守知信2、罪せられて、伊豫の國宇和島の城、收公せらる、同き十月大御所、高虎を關東に召して、富田が領せし所、當年の所務の事、汝が沙汰に任すべきよし仰下さる、十九年の冬、大坂の兵起りし時、高虎一方の大將承り、大和の國の軍勢、引具し、大和路より向て城を攻む、城中より高虎が返り忠の事漏れ聞えしかど、大御所更に疑はせ給はず、常に高虎を御陣に召して、軍の評定に預る、高虎粮米一万斛を獻て、軍用を助け奉る、和睦事成て後、明る元和元年の夏、再ひ兵起りしかば、河內路の先陣して、五月七日同八日、兩日の合戰に、多くの敵を打破つて、首八百六十八を切て獻る、軍既に畢て後、同き廿八日、大坂城中より取り得たる黃金の大法馬を、二條の御所に獻る事あり、是は故太閤、事あらん時に用ゐよとて、凡そ黃金一千枚を以て法馬一つに造らせて、多く積み貯へ給ひし所なり、大御所此法馬二つを高虎に賜ふ、閏六月十九日に、從四位下にのぼせられ、七月廿日伊勢の國鈴鹿の郡を加へ賜ふ、凡廿七万九百五十六石を領す
  1. — 지면 그대로. 「松が島」(伊勢松ヶ島)의 저본 오식으로 보임
  2. — 지면 그대로. 慶長18年 改易된 宇和島 성주는 통설 富田信高(信濃守). 知信(一白)은 그 아버지로 慶長4年 몰
此時高虎自ら功多くして賞少きを憤て、これ必本多佐渡守が爲に申留られし所なりとて、安からぬ事に思ひけり、此日正信參て、高虎を賀しけるは、おことは定て自ら功多くして、賞の少きなるを憤り思ふべけれども、誠は西國の內にして、大國一つ賜ふべき由、兩御所の仰ありしに、正信止め申せしなり、正信申せしは、高虎が年頃の功、忘れ給はで、かれが家の久かるべき事を思ひ給はゞ、賞は輕きに若くは候はじ、君いま彼が悅ひ思はん事のみを謀り給はんには、如何なる大國をも賜るべくや侍らんと申せしかば、兩御所誠に汝が申す所ことわりなりけりとて、賞はかく輕かりき、相構へて、兩御所の深き御惠み忘れ給ふなといひしかば、高虎感涙を催して、有難き事に思ひけるとぞ、誠なるにや、
此人ひとり大御所の御覺よきのみにあらず、將軍家も賴しき者に思召し、大御所に仰せらるべき事など、高虎して仰せらるゝ事共ありしとぞ聞えし、常に御前近く侍ひて、御政務の事をも議り、また諫め申すべき事あれば、憚る所なく言葉をも盡しき、元和三年、山城大和等の國にして、地加へ賜る、五万石
初め大御所薨し賜ひし後、駿河國久能の御社を、下野國日光山に遷さる、彼所は猶程隔りぬ、年々の御廟拜の便りならざるが爲に、紅葉山の地をトして御社造らる、高虎思ひけるは、抑も大御所は、當代の太祖にて、世々の兵亂を攘つて、再び天下の泰平を致し給へば、凡そ天下の士民、誰かは其德を仰ぎまゐらせざらん、然るに此御社も尙都城の中に在て、御家人を初て、天下の士民の參り詣でん事叶ふ可らず、あはれ城外に御社一所を造て、天下の士民と共に齋き祀り奉らばやと思ひ立ちて、此由を望み請ふ、やがて御許を蒙りてければ、忍の岡の別業を毀ち、地拂ひて、御社を造り出す、其後、寛永年中、彼の岡に比叡の山移されて、御願寺御建立ありしかば、長く國家鎭護の靈場とは、なりしとなり、
寛永二年十一月十九日侍從に任じ、同三年八月十九日、左少將に轉し、年七十五歲にして、同七年十月五日に卒しけり、左少將高次、高虎が男、初め幼けなかりし時、伏見の御舘にて、大御所の見參に入り、慶長十一年正月廿八日、關東に參て、將軍家に見參し、元和二年正月十九日、大學助從五位下になされ、父が家繼で寛永十一年七月廿二日從四位下に叙し侍從に任ず、寬文六年十二月廿八日、左少將に轉じ、同九年九月廿九日、致仕し、延寶四年十一月十六日卒す、その子從四位下和泉守高久、家を讓られて、此年寛文九年十二月廿五日侍從に任ず、
藤堂宮内少輔高吉は、丹羽五郞左衞門長秀が三男、幼名は仙丸、天正十年の春、太閤秀吉いまざ羽柴筑前守といひし時、長秀が家に酒宴せられし日、舍弟美濃守秀長に男子なく、御子一人賜るべしとて、仙丸が四歲なるを請て、秀長の子とす、此年六月信長討れ給ひし後、柴田羽柴、不快の事起る、長秀柴田と親しく、領國亦境を同じくしたれば、頓て仙丸を取て、但馬の出石城に置く、これ長秀が柴田に組みすまじき事を謀れるなり、明れば天正十一年秀吉柴田を討ちし事、長秀が與力せしが故なれば、悅ぶ事限りなく、仙丸も亦秀長の寵愛淺からず、仙丸十歲の時に及ひ、秀吉の仰として、藤堂佐渡守高虎の子になされて、藤堂宮内少輔高吉とめさる、高吉養父高虎と共に朝鮮の軍に、度々の高名を顯し、關が原の合戰の時、父と共に關東の御方して、自ら彼處に戰ふ、高虎所領の地を給ひし時、本領たれば、高吉又二万石の地を分ち領す、其後高虎、高次を生む、實子なれば、高次父が跡を繼き、高吉は終に家臣の如くになり果て、其子孫今に藤堂の家にあり、