日向守勝成は、右衞門大夫忠政の孫にて、和泉守忠重の嫡男なり、先祖を遠く尋ぬれば、清和天皇の御裔、鎭守府將軍源滿政の多田滿仲の弟なり後胤とぞ聞えける、滿政の子陸奥守忠重、家の記に重忠と云その子駿河守定宗、其子佐渡の源太重實、又は八嶋の冠者とも聞えしは、鳥羽院の御時、武者所の四天王と呼はれし、其一人とぞ承る、その子信濃守重遠、尾張國浦野といふ所に住しければ、初め浦野四郞と名のる、源義家朝臣の聟なりけり、其子重房、同國小河といふ所にうつり、小河の三郞と名のる、その後小河下野守雅經が時に至りて、尾張國智多郡英比郷小河村の地頭職になさる、文永元年八月に卒すといふ、父は又三郞某といひて、天福年中在鎌倉と云ふ、是より世々此所の地頭にて、雅經の子下野二郞雅繼、其子下野守胤雅、弘安の比、その子下野九郞入道某、元亨の頃の人なり、又次郞某が時、觀應の頃、足利殿に隨ひ奉りしかば、御敎書を給て、其功を賞せらる、又次郞は、九郞入道か子也、又下野守といふそれが子孫、此間五六代の傳しれずと云藏人貞守が時に、同國水野と云所に移り住みしかば、改めて水野と名のる、右衞門大夫忠政は、此貞守が曾孫なり、貞守の子名字共にしれず、戒名寳憧賢勝といふ長子下野守某戒名一初全妙といひしなり、忠政の時に至り、三河國刈屋城を合せ、我身、刈屋城に在て、嫡子下野守信元して、小河の城を守らす、天文十年忠政の娘を岡崎殿へ參らせられ、贈大納言廣忠卿の御事明る十一年十二月廿六日、德川殿を設け玉ひ、十二年七月十二日、忠政卒し玉ひ、嫡子信元其家を繼く、駿河國今川殿に中違うて、尾張の織田備後守信秀に心を通ぜらる、岡崎殿無二の今川の方人にて、信元の振舞ひ安からずとて、忽に北の方を送り返させ玉ひけり、かゝりしかば、兩家心よからず、岡崎殿うせ玉ひ、德川殿御成人の後に至り御外舅なれど、合戰やむ事なし、和泉守忠重は、此時藤十郞信元の舍弟なりといへども、兄弟の中、常に不快にして、鷲塚といふ所に引こもり居玉ひしが、永祿六年の冬、一向專修の門徒等、叛き參らせて、德川殿は、御軍以の外大事に及ぶと聞て、水野太郞作、村越又市郞を引具し馳せ參り、手を碎きて戰ひ玉ふ事、度々におよぶ、此時忠重は石川新十郞をうち、太郞作は大見藤六郞を討、これよりして、常に德川殿に從ひ、軍の先をかけぞといふ事なし、天正三年の冬、信元うたれ玉ひし後、同き八年九月廿三日、累代の地なればとて、刈屋の城を織田殿より忠重に賜りしなり、是れ併しながら德川殿の御外舅たるが故に、かゝる恩例もありしなり、此後或は信長の催促に依て、軍をひきゐ、或は德川殿の大將して合戰す、織田殿うせ玉ひし年、鳥居元忠と共に、甲斐の古國府に陣どつて北條の勢を打破り、信雄秀吉中たがうて、軍起し時、忠重父子、北畠殿の爲に、星崎の城を攻おとし、小牧の陣に從て、長湫に戰ひ、蟹江の城を攻む、今年十月秀吉伊勢國に攻め入ると聞て忠重たゝ一勢寄手の多勢に打向ひ、水を阻てゝ陣を取る、その勢に憚りて、秀吉桑名に入る事をえ給はず、其後關白家に參りしに、桑名にての振舞ひ、又年比の武勇を感し玉ひ、石川出雲守と同しく武者奉行をぞ給りける、忠重の關白家へ屬せし事は、如何なる故にや、石川出雲守といふは、伯耆守が事なり、かれと一時に武者奉行をうけ給はれば、伯耆守と同しく、上方に參りしなるべし天正十五年七月卅日、豐臣の姓賜て、叙爵す、此頃までは、總兵衞と申せしなり、按するに、家忠日記には、德川殿初めて御上洛のとき、忠重供奉し叙爵して、姓賜ふとあり、されども、家譜本文の如し、疑ふべからず、筑紫小田原等の陣に從ひ、慶長五年の秋、石田等が兵起りし初め、池鯉鮒の宿にして加々井彌八郞秀盛が爲めにうたれ死す、年六十歲とぞ聞えし、嫡子なれば日向守勝成家をつく、勝成童名は國松丸、生年十六歲の時、高天神の城せめられしに、みづから鎗とつて高名し、手の者共にも首きらせて獻る、信長此由を傳へ聞き玉ひ、御書給て感ぜらる、成人して藤十郞と名のり、甲斐の古國府の戰に、みづから内藤の何某を討取る、星崎の城を攻めしにも、父と共に軍し、長湫の合戰に、自ら一番に首を取る、郞等三人にも、皆首とらせて、御前に參らせしかば、德川殿御感なゝめならず、此日みづから首を切ること三つ、そののち本治の城をせめ、又蟹江の城の城戶口にて、御方、瀧川左近將監と散々に戰ふ、勝成、兵を下知して、橫さまにきつて懸りしかば、敵たちまちに敗れてけり、此日みづからも手負ふこと二が所、かゝる高名度々に及ひしかど、此人天性腹あしき人にて、父の不興蒙りて、刈屋の城を出て、都に上り、六左衞門と名のる、
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水野
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인물 水野勝成 42水野忠重 19徳川家康 19松平信綱 9水野忠政 6豊臣秀吉 6水野勝俊 6水野信元 5徳川秀忠 5松平広忠 4織田信長 4石川数正 4鍋島勝茂 4水野忠清 4水野貞守 3戸田氏鉄 3細川忠利 3水野忠職 3水野忠元 3源満政 2源忠重(満政男) 2源重実 2源重遠 2小河重房 2
지명 三河刈谷城 7摂津国大坂 7九州 5京都 5尾張国小河 2甲斐国府中 2尾張星崎城 2尾張国長久手 2尾張蟹江城 2伊勢国桑名 2遠江高天神城 2肥後国 2備中国 2伏見の徳川屋敷 2大和国 2摂津天王寺 2肥前原城 2三河吉田城 2尾張国浦野 1相模国鎌倉 1尾張国水野 1尾張小河城 1駿河国 1尾張国 1
世に傳ふるは、勝成時に和泉守殿の納所の役人を召て、我は我家の嫡子にて、家終に讓らるべき身なり、父の持たせ給はん程の寶、悉く我が物なり、おのれらも、終には我に仕ふべき身の上にあらずや、それにおのれらが、やゝもすれば、我が思ふさまに、金銀まゐらせぬこと奇怪なれば、向後においては、如何ほどもいく度も、急度參らすべしとありしかば、如何で仰をばそむき候べき、さりながら大殿の御物を私に奉らん事、我等が罪かうむらんは、物のかずにあらす、君の御咎を受け玉はんをはゞかりて、まゐらせず候、あはれ如何にもして、一度大殿の御ゆるし蒙らせ玉ひなば、その後は、いくたびも仰せに從つてまゐらすべきよしを申しければ、勝成大に怒て、やあ、大殿に申すべきほどならば、おのれらに、かくいふべきやと、いひもあへず、首うち落して捨てぬ、其後、親父のけしき日を追てよろしからず、勝成、いや〱此まゝにては、我また首きらるゝ事もこそあれと思ひ、刈屋を逃け出せしといふなり
天正十五年に、關白殿筑紫にむかひ給ひし時、肥後國に渡りて、都にて鬪諍し、人うち、肥後へゆきしとも云ふ、まことにや、佐々陸奥守成政が家に仕へて、國人等が亂起しに、所々の戰に高名し、成政亡ひし後、小西攝津守行長が家に仕へ、千石を領すと云々かしこを出て、また人を切て迯去ともいふなり、加藤主計頭清正が家にゆきて仕ふ、千石を領すと云又こゝをも去りて、こゝにても、人を斬りしともいふ豐前の國に往き、黑田甲斐守長政に仕ふ、千石を領すと、長政船に乘て、大坂に上るとて、勝成を召し、帆柱にまとひたる繩とけ、といひしかば、勝成おもふやう、如何に心は猛しとも、かゝるわざに慣れざらんものが、これほど走る船の檣に登る事なるべきや、奇怪なる事いふ人かなと、腹だちけれども、辭せんもさすが口をしと思ひ、頓て攀ぢのぼつて、帆繩引ときて下りぬ、かく僻事いはん主に仕へん事、益なしとて、その夜船の着たる所よりたち去る、かゝりしかば、畿内も九州も、皆たゝずむべき所なければ、備中國に隱れ捿む、
此後勝成、乘之助と名をかへて、毛利が家人、備中國の住人三村紀伊守とて、三千石を領せし人の家にゆきて、十八石の祿うけて仕ふ、此國にて、子息美作守をば設けしなり、あら玉の春になりて、三村が家に椀飯の事あり、饗膳をはりて、茶を賜ふ事あり、下ざまの人には及ばず、勝成さすが昔を思ひ出でられ、あはれ如何にもして、呑ばやと思ひければ、茶たつる童坊に近寄て、手をつかねて、おことがなさけにて、我にも御茶たまはれといひしに、此童坊、これはうへざまの人々に給はるにて候、おこと等にまゐらせん事、叶ふべからずといふ、されば候、それゆゑにこそ、かくは望みぬれといひけれども、つれなく聞きもいれず、勝成侍ほどの者に、飮食の物にて、恥は見せぬものといふ、童坊から〱と笑て、おことも侍の數と思ふにこそあれ、あらをかしやと云ひけるに、勝成大に怒て、大の眼に角を立て、はたと睨らんて、につくい今の言葉かな、思ひしらせてくれんずものをと、つぶやき〱、たち出て、彼童坊が茶の事畢りて歸る所を、たゝ一刀に切てすて、こゝをさりて、都をさして登りしといふなり、
都のかたに趣きしに、大坂の奉行人、德川殿の伏見の御館攻むべしとて、洛中洛外以の外に騒動に及びし時に參りあひ、幸なる事、でさんなれと、夜に入て、御館に參る、德川殿悅はせ玉ふこと斜ならず、さりとは申せども、御前には召さず、これは、和泉守どの如何なる事、はべるとも、勝成と音信を通じ給はゝ、長き恨に候べしと、制し玉ひしゆゑなり、德川殿山岡備前入道を御使として、道阿彌と申せし人なり、和泉守殿へ、いろ〱に仰らるゝ旨ありしかば、父の心もとけて、對面を許さる、さてこそ、德川殿にもめされけれ、百人扶持を給ひしとなり、程なく、德川殿の奧の會津に向はせ玉ふに、勝成供奉して下る、其跡にて、和泉守殿の事ありしかば、勝成を小山の御陣にめし、急き馳上つて、刈屋の城守るべしとありしに、勝成仰畏りて承りぬ、さりながら父の不興蒙りし身なり、今更家子郞等、勝成に從ふ事あるまじきにて候と申す、さらばとて、和泉守殿の家人等に、早く勝成の下知に從ふべき由の御書をなし下さる、勝成是れを帶し馳上りて、軍勢を催し、先陣に馳せ加り、美濃國に赴きて、曾根の古城を守りて、嶋津兵庫入道と戰ひ、大柿の城を攻めて、攻くたす、此後刈屋城を領し、三万石なり、一万石を加られしと見ゆ、慶長十五年、從五位上日向守になされ、同十九年の冬、大坂に馳せ向ひ、城をせめ、明る元和元年の夏、大和路の先陣をうけ給はりて、大和國の軍勢をひきゐて向ひ、去冬の軍には、藤堂高虎大和國の軍勢をひきゐしが、諸將ろの下知に從はざりしかば、今度は勝成に仰付られしなり、五月六日の合戰に、敵の先陣打やぶり、首あまた切て、大御所の御陣に參らせしかば、御感の仰を蒙り、明れば七日天王寺の敵をかけ破て、父子二手に別れて、子息は美作守勝俊なり逃くる敵を追うち、勝成が手にて、明石掃部介を討取る、眞先に城中にせめ入、一番に旗を建て、よき首九十七きつて獻る、打捨は數を知らず、然れども、大御所勝成が振舞を悅ばせ給はず、今度都にて勝成めして、一方の大將を賜る上は、相構へて、昔の如く、自らの高名せんと、な思ひそといひしに今日の合戰に、明石掃部介が陣にむかひ、みづから鎗とつて、まつ先懸け、敵四人とわたしあひ、二人をば追はらひ、二人が首を切るなんぞ、かねての仰を背きて、かく輕々しきふるまひをば仕る、甚た奇怪の至りなりと仰られし程に、彼が手の者共、高名せしも、御感にあづかる事を得ず、されど、此年七月廿日、大和の國郡山の城を給はりしは、今度の勸賞とぞ見えにける六万石同き五年に、西海道の鎭守のため、備後國福山の地を給ひ、城新に築て移る、十万石寛永三年の秋、從四位下に叙す、同十四年、肥前の國有馬に賊徒起りしかば、追討の御使として、板倉內膳正重昌馳向ひ、九國の軍勢をひきゐて、かれが立こもる城を攻む、城いまだ落ちざりげれば、重ねて松平伊豆守信綱を、さしむけらる、明る十六年正月元日、重昌うち死す、初め將軍家、信綱に仰下されしは、日向守勝成は、さる古兵なれば、彼等父子が、向はざらん程は、只遠攻にせよ、軍して兵うたすべからずとありしかば、信綱かしこに至りて、軍を留めて、勝成が至るを待つ、勝成わざと日數歷て、二月廿二日にぞ着きたりける、同廿四日、寄手の人々、信綱が陣に集りて軍評定す、戶田左門氏鉄進み出て、我等仰を蒙りて候ひしには、相構へて兵を討たすな、謀をめくらして、城をば攻め陷せとこそ承りたれ、たゞ遠攻にして、城中粮盡くるを待ち給ふべくや候はんとぞいひたりける「信綱勝成にむかひ、日向守殿の御謀承り度候といひしかば、今天下一統の世と成て、此奴原に力あはせんもの、一人もなし、何の恐れか有べき、たゞ面をも出させず、ほし殺してくれ候に若くべからず、大御所むかし高天神の城を、かくこそ攻玉ひけれ、殊に此城と申は、古より名高き城なりとは、勝成がわかき時、鎭西に流浪せし頃より承り及び候き、あつたら士の命、土民百姓等がために失はん事、謀にあらずといふ、氏鉄もつとも候、敵の粮つきん程を待つべく候といひしに、勝成聞きもあへず、しばらく候、戶田殿、けふまで人々の遠攻して、御勢うたせ給はぬがよき謀と申事にて候ぞ、城の奴ばらが、事俄かに起つて、百日に及び、立こもつたれば、今は粮料も矢種も、はや盡きはてんずるものを、此後は何をか、さのみ待つべき、たゞひらせめに攻やぶつて、捨てられ候へと、云ひしにぞ、さらば攻めらるべきに定まる、其時細川越中守忠利、鍋嶋信濃守勝茂、一同に進み出て、忠利勝茂が陣取し所、無下に城近き所なり、二三の城をば、まづ我等が手より攻め破て、見參に入候ひなん、人々御勢一同に時の聲をあはせ、力を添て給るべしと望みける、座中の人々、皆心得ず氣に見えし處に、勝成るたけ高に成て、此城を只二手にて攻おとし給はんと、忠利勝茂の佳名こそ、ゆゝしかるべけれ、なれども、誰か又見物の場に集たる樣に、餘所には見て居候べき、勝成身不肖には候へども、むかし大御所に從ひ奉りて、十六歲にて軍始し、今此年に至るまで、大小の戰ひ、既に五十餘度、つひに人に超えたる事はあらねども、又人に越されし事もあらず、况んや、又時ばかり作たる、鷄軍したるためし、猶さむらはず、かく人々功を爭ひ給はんには、軍勢多く打れぬべう覺ゆ、將軍の仰せにも兵な打たせそとこそ侍れ、凡そ城を攻むる事、味方の心を一つにせでは叶はぬこと勿論なり、けふの軍の評定は、竹釘軍といふものにて頭たる者は無きに似たり、伊豆守殿追討の御使として御下知あれば、勝成が存ずる所、此たびの大將、此人とこそ存ずれ、彼が御下知あらん事、いかでそむき申べき、老人の長居難義なり、子息美作守、父が代官として、これに留む、御評定一决の後、御下知を彼れに仰せ蒙るべし、この美作守と申す男も、若き時、大坂の合戰に召し具せられ、軍のやうをも見たるもの、さのみ無骨をも存ずまじ、御暇申す、かた〱とて、座をたちてぞ歸りける、その日の評定には、廿八日をもつて、諸手一同に、城せめ破るべき日に定めらる、かゝる所に、廿七日の朝、人々また信綱の陣に集る、鍋嶋既に城中に攻入るといふ程こそあれ、諸手一同に先を爭ひ、上を下へと、ひしめく、勝成はおのが陣に在て、少しもさわかず、手勢五千を引ぐし、子息美作守が、信綱が陣より歸るを待て、さきがけさせ、本城に攻入て、一番に旗をぞ立てたりける、明れば十六年致仕入道して、宗休と號し、年八十八歲にて、慶安四年三月十五日に卒す、美作守勝俊、勝成の男、十七歲にして、父と共に大坂にむかひ、再ひ兵起しに、道明寺の合戰に、十八歲にて高名し、明る七日天王寺より押しよせ、敵の多勢をかけ破り、追つめ〱打つ程に、天滿の川に追こみて、首あまた討取ぬ、寛永十五年の春、父と共に、有馬の城を攻やぶり、一番に旗をたつ、同十九年に、從四位下に叙し、明曆元年二月廿一日、五十八歲にて卒す、其子日向守勝貞、初め備前守に任し、祖父と父とに隨て、有馬の城を攻し時、年纔に十五歲、明曆元年十二月廿八日日向守になり、寛文二年十月廿九日、三十八歲にて卒す、其子民部勝慶つく、後に美作守
隼人正源忠清は、和泉守の末子なり、慶長七年春、大納言殿、台德院殿の御事に附けられ、御書院番頭となる、叙爵して、御奏者の事を兼ぬ、大坂初度の軍に、忠清が手の人々、靑山伯耆守忠俊が手の人々と、互に先を爭ふ、明れば元和元年五月七日の合戰に、互に先を超させじと爭ひ進み戰ひし程に、兩人が手に、打死の人々多かりき、されば軍終りても、功を爭ふ事止まずして、大御所の御裁斷をぞあふぎける、同二年四月三日、大御所御違例既に事急なるに、忠清を召され、彼が父祖の事ども仰出されて、累代の舊領、三河國刈屋城をぞ、賜うたりける、二萬石寛永九年七月十一日、同國吉田城に移る、四万石同十一年十月十七日、地加賜ふ、四萬五千石を領す、同十九年九月六日、信濃國松本城に移る、七萬石忠清卒し、卒する年いまだ聞ず、嫡子出羽守忠職、家を繼ぐ、承應元年五月十六日忠職、内藤帶刀忠興、松平丹波守光重と、輪番交替して、大坂の城を守るべしと仰下され、これを假りの御城代といふ、忠職の守る事、まづ此年より同三年に至り、再ひ萬治元年より、二年に至り、三度寬文元年より二年に至り、寛文八年六月廿六日五十六歲にて卒す、其子中務少輔忠直家を繼ぎ、寛文十年春隼人正になる、
監物源忠元は、右衞門大夫忠政の四男、織部正忠守の二男なり、忠元年わかき日より、大相國家に台德院殿の御事近侍し、御納戶頭を經て、此頃は小左衛門御扈從組の番頭に至り、小十人步行衆等の頭を兼ねて、およそ三職を司とりて、大坂兩度の軍に從ひまゐらせ、大相國家西城へ遷らせ給ひし時、常に御側に伺候し、御近習出頭人衆といひしとぞ、御書院番の頭をかね、次第に身を起して、常陸の國山川1の地を領す、所領いか程といふことをしらず、又卒せし年月日いまだきかず、男子二人、嫡子監物忠善、二男越中守忠久とぞ申ける、監物忠善父につぎて、後寛永七年十二月廿六日叙爵し、同き十二年十一月廿二日、駿河國田中の城を賜ひ、四万石と云ふ十九年九月六日、三河國吉田の城に移り、四萬五千石正保二年正月十一日、同國岡崎の城に移り、五萬石六十四歲にして、延寶四年八月廿九日に卒す、其男右衞門大夫忠春、父につく、忠春是よりさき、承應三年十二月に叙爵す、
- 常陸の國山川 — 지면 그대로. 水野忠元가 영지로 받은 山川(山川藩)은 下総国 結城郡 山川이다