因幡守源康元は、初は勝元久松佐渡守俊勝が男、德川殿には異父同母の御弟なり、むかし尾張の守護斯波家の被官、久松彈正左衞門菅原道定、初て當國智多郡阿古居の莊を領す、世に傳ふる所、聖廟の御末、字は久松丸と申せし人、此國に流され、野間の大進院といふ所に住む、所の者共恭ひて、久松殿と仰きしより、子孫その字をもつて家に名づくといふ、道定より六代、左京進定氏一人の女子をもち、家つがすべき男子なし、一色兵部少輔源滿貞が一色宮內卿阿闍梨公源の、九代の孫なり二男次郞左衞門詮定に娘あはせて、世嗣とす、佐渡守はこの詮定が五代の末孫なり、俊勝初め彌九郞長家といふ、男子一人まうけて妻を失ふ、德川殿の御母公、岡崎より出されて、御兄水野殿下野守信元、の許に歸り住み玉ひしを迎へて、男子三人、女子四人をまうく、三郞太郞康元即ち因幡守當腹には長子なり、其弟源三郞康俊、三郞四郞定勝後に隱岐守と云、と申、永祿三年三月、德川殿、今川の爲に兵をひきゐて、尾張國に向ひ給ふとて、阿古居の館に立よらせ給ひ、御母上に御見參のついで、かの子息等を御覽して、元康外に弟とても、さむらはず、此三人の若者を、誠の弟とこそ存ずべけれとて、松平とは名のらせらる、此年三河國山中醫王山の要害を攻らる、俊勝さき駈けし、忽ちに攻やぶる、同き五年、同國西郡の城をせめらるゝ、俊勝等馳せ向て攻む、城終に落てければ、俊勝に賜ふ、俊勝阿古居をば長子彌九郞にゆづり、西郡の城をば、嫡子三郞太郞勝元に康元初名守らせ、我身は岡崎に參り、德川殿軍出させ給ふ度毎に、必す御後を守る、天正三年十二月水野下野守殿、信元武田の四郞に心を合せられたりとて、誅せらるべきよし、信長の仰せられしに因て、德川殿力なく、俊勝して岡崎に呼び迎へて、信元を誅せらる、俊勝大に驚き、かゝる事とも知らずして、信元迎へ來て打たせたりし事の無慙さよ、世の人のかへり聞かん事も恥しとて、德川殿を深く怨み、中違こそしたりけれ、俊勝卒去の事、いつれの年月日といふこと未しらず、三郞太郞勝元、御諱字を賜て、松平因幡守康元とは申ししなり、康元、初め駿河沼津の城を賜ひしと云ふ說あり詳なることをしらず、天正十八年關東に移り玉ひし時、下總國關宿の城を賜ひ、二萬石十九年所領の地加へられ、關宿のほとりにて、二萬石を加られて、四萬石を領すといふ慶長五年の秋、奧へ下らせ給ふにも、上方へ攻めのぼり玉ふにも、御跡に留りて、江戶の城を守る、同八年八月十四日五十二歲にて卒せらる、嫡子甲斐守忠良家をつぎ、大坂の合戰に首三十四を切て獻る、元和二年美濃の國大垣の城に移る、五萬石寛永元年、忠良卒して、其男因幡守延良つぐ、信濃國小諸の城に移り、慶安元年に卒し、世嗣なくて家絕えたりしが、明る二年正月廿八日、舍弟數馬良尙、別に伊勢の國長嶋の城を賜ひ、一萬石采女忠節、信州の禰津の地を賜ふ、五千石良尙成人して、佐渡守に任す、其嫡子信濃守良昌早世し、二男長門守元尙といふ、男女の子猶多し、此家絕て繼し、いはれありといふ、くはしき事をば知らず、
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松平(久松)
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인물 松平定政 20徳川家康 14久松俊勝 12松平定行 12松平定勝 11松平康元 9松平定綱 9於大の方 7水野信元 6松平定直 6荒川二郎九郎 6徳川秀忠 5松平定時 5井伊直孝 5松平定房 4徳川家光 4松平定吉 3松平定頼 3本多正純 3久松道定 2久松丸(久松氏祖) 2久松詮定 2松平康俊 2松平忠良 2
지명 遠江掛川城 5山城伏見城 5伊勢桑名城 5関東 4摂津国大坂 4三河国岡崎 3伊勢長島城 3京都 3尾張国 2尾張国阿古居 2三河西郡城 2江戸城 2美濃大垣城 2駿河国 2下野国日光山 2下野宇都宮城 2三河刈谷城 2伊勢国長島 2伊予国松山 2尾張国野間 1尾張阿古居城 1三河医王山砦 1駿河沼津城 1下総関宿城 1
左少將兼隱岐守源定勝は、俊勝の三男なり、初め三郞四郞と申、松平と稱する事は、上にみえたり、天正十二年の冬、豐臣家德川殿の御子を養君とし奉るべきよし、望み申されしかば、此人を御子とし遣さるべしと仰せられしに、大方殿御母上傳通院殿と申せし御事なり深く歎き玉ひ、かれが兄源三郞、今川殿へ質とし、駿河國にありしを、武田がために奪はれ、かろうじて彼國を逃れ出て、深雪の中を蹈わけて、手足の指みな落ちて、世に交るべき身にもあらず、今まだ此子都にまゐらすべしとも思はずと泣きくどかせ玉へば、於義丸殿をぞ登せらる德川殿、これは三郞四郞が母上に、うつたへ申しゝ故なりとて、御氣色宜からざりけれど、誠は其心にあらざれば、やがて御心とけ玉ひき、關東へ移らせ玉ひし時、下總國小南の地を領し、三千石關が原の戰には、遠江國掛川の城を守り、明る慶長六年の二月此城を賜ひ、三萬石此年從五位下隱岐守になる、同き十二年閏四月廿九日仰を蒙りて、伏見の城を守る、西城にあり、山城近江の國々にて、便宜の地下し賜ひ、四萬石、一說に五萬石、○按ずるに家忠日記追加には、來年の如くしるせり、掛川の城をば、息男に讓るべきよし仰下さる、創業記に出づ、たゞし息男の名をのせず、城主譜を按するに、松平河內守定行どのとす、されども、創業記をみるに、慶長十四年より、駿河遠江は、遠江宰相殿領したまふと云云、思ふに定勝朝臣、伏見を守りしのちは、彼嫡子遠江守定吉、掛川をゆづられしにや、定吉卒して、遠江宰相殿へまゐらせられしなるべし、河內守定行にはあらじ、定吉の卒せし年をしらざれば、いかにもわかち難し、十九年の冬大坂の兵亂には、伏見の城にあり、明れば元和元年の夏、再ひ兵起しには、二條の城を守り、子息河內守定行、伏見城を守る、同き三年あまた地つけて、伊勢の國桑名の城を賜ひ、十萬石又十一萬石とも又四位の少將に歷のぼつて、寛永三年十月四日、年六十五歲にて卒し、子息河內守定行家をつく、年九才の時より、大御所に奉仕し、大坂の兵起りし時、馳向て城を攻め、再ひ兵起し時は、十八歲にして、まづ伏見城を守る、道明寺の戰に、みづから高名し、明る日、將軍家の御手にて、一番に首とつて參りければ、兩御所の御感に預りぬ、元和六年伊勢國長嶋の城を賜ひ、二萬石父の朝臣卒してのち跡を繼く、桑名城に移る、十萬石此年從四位下に叙し隱岐守に任す寬永十一年侍從に任し、十月十七日、伊豫國松山城に移る、十五萬石明曆四年二月廿八日致仕入道し、松山と號し、寛文八年十月十九日八十二歲にて卒す、隱岐守定賴、定行の男、初め從四位下河內守、家讓られてのち、隱岐守となり、寛文二年正月廿三日、五十六歲にて卒す、嫡子主計頭定治、病に依て、籠居しければ、二男石見守定長、家をつき、從四位下隱岐守になり、三十五歲にて、延寳二年二月十二日に卒し、嗣なければ、一族美作守定時が嫡男鍋之助を養うて世嗣とす、萬之助とあらたむ此年從五位下淡路守に任し、延寶五年閏十二月從四位下に叙し、隱岐守守1に任す、
- 隱岐守守 — 지면에도 「守」가 두 번 찍혀 있음(저본 衍字로 보임). 본문은 지면 그대로
越中守源定綱は、隱岐守定勝の三男なり、慶長元年三郞四郞と申して、いまだ幼なかりし時、荒川二郞九郞が養子となる、同き四年十二月七日、荒川伏見の御館にて死す、荒川が家臣等荒川が一族して其家を繼すべきよしを、頻りに訴へ申ければ、大方殿聞召し、荒川が三郞四郞を子として、既に四年を經たりしに、今に至て、家臣等が、かく申こそ心得ねと仰ければ、德川殿、三郞四郞何ぞ荒川が世嗣たる事を願はんや、彼が成人の後は、彼の所帶よりは、猶あまたの地領すべきものなりと仰らるゝにぞ、大方殿の御心もとけにける、同き七年十一月三郞四郞十二歲にして、十一歲か掛川の城を出で、關東に下り、本多佐渡守正信を賴み、大御所に見參すべきよしを望み申ければ、頓て御前に召し、正信を以て、將軍家に召し使はるべきよしを仰せらる、九年始て下總國山川の地下し賜ひ、五千石十年に叙爵し、越中守に任し、十五年七月、所領の地倍し賜る、一万石大坂前後の軍に、御書院番頭として、手の人々に軍させ、みづから能き武者二騎切ておとし、郞等らも首十七きらせて獻る、此とき廿四歲元和五年遠江國掛川城を賜ひ、三万石また三万五千石とも寛永二年正月十一日、山城國淀城築きて、定綱に賜り、四万石、又は三万五千石同き十年、美濃國大柿城に移る、六万石といふ明る十一年十一月伊勢國桑名の城に移りて、慶安四年十二月廿五日、六十歲にて卒す、
美作守源定房は、隱岐守定勝の五男なり、初め寛永二年伊勢國長嶋城を賜ひ、此時兄隱岐守定行、桑名城を領す、弟なるゆゑに、定房も同國にて城たまひしか、同き十二年十一月廿二日、伊豫國今張の城に移る、三万石一說に四万石といふ、非か、寛永五年十二月廿七日、從四位下に叙し、關東の地を以て、所領を加賜ふ、此人江戶城留守の事をうけたまはりき、此時の事にや、此度の加恩にて四万石を領せしなり、同き九年侍從たり、延寶二年六月廿六日致仕入道して、安心軒と號し、今治と稱す、都のほとり黑谷に籠り居て、同四年六月廿八日、七十三歲にして卒す、嫡子肥前守定經早世し、二男玄蕃頭定時に家を讓る、此年定時美作守に任し、同き四年、父入道の病甚しと聞て、暇申とて、都に馳せ登り、路次にて卒す、四十二歲とぞ聞えける、定時が嫡子定直は、時に鍋之助と云、後に隱岐守隱岐守定長が家を繼ぎしかば、二男岩松丸、父定時の家をつぎ、四万石同き八年駿河守に任す、三男千勝丸所領をわかつ、後に修理亮定道と申、開發の田五千石をわかつ、
七月九日、定政己が家に、增山彈正忠、中根大隅守、宮城越前守、牧野織部正、石谷十藏、林道春六人を請じ、饗應事終りて後、定政、牧野中根石谷三人に向ひ、人々賴み參らすべき事あり、又殘る人には、定政が申事をば、能く聞かせ玉ひて、後日の證人に賴み參らすべき事あり、定政故將軍家の御恩、高く厚く蒙りたる身なり、一たびは命を捨て、報ひ奉らんと存ぜしに、世を早うせさせ玉へば、年比の所存、空しくなり畢んぬ、縱令當代に仕へて、我忠を致さん事を思ふとも、今の執政の人々が、輔け奉るやうならんには、君未だ御幼稚なり、天下亂れん事、遠きに有るべからず、井伊殿阿部殿へ此事申さんが爲に候とて、直孝忠秋のもとべ、一封の書取出て、三人にぞわたしける、人々興さめて、大に驚き思ひしが、さて止むべき事ならねば、掃部頭のもとに行向て、此由を語りて、彼書をつたふ、直孝一人して見るべきにあらずとて、執政の人々打寄て、開き見るに、始には、定政が廿四歲の時より、四十二歲に及ふまで、夢に見たりし歌どもをしるし、その次に、自詠の歌書て、奧には、定政世にありしむかし、いかでかゝることをも申べき、今は憚る所なき身となりぬ、思ふ所を殘すべからず、尋ね玉ふべき事あらんには、召しに從ひて參るべきにて候とぞ、書きとゝめける、此文のやうにては、定政いかになりぬらんと尋ねけるに、人々にこの文わたしてのち、忽ち上野の山に入りて、髮そりて捨て、嫡子をも入道させ、のこる二人の男は、兄の隱岐守が許へつかはし、妻をも、舅の永井信濃守がもとに返しぬ、人々こは如何にと、いよ〱驚く、又掃部頭の許へ消息す、まづみづからが名を天德院大居士としるす、此書には、諷諫の言葉など、少々書のせて、さてわが所領の地より、兵器雜具にいたるまで、盡くに將軍家にたてまつるよしを載せたり、父子井郞等四人ともに、入道して、墨染の衣の下に、打刀橫たへて、銅鉢さゝげ、松平能登の入道に、ものたべ〱、南無阿彌陀佛〱と申て、東西の町々をめぐりありきぬ、同き十五日將軍家、殿中伺候の大小名に、定政が兩通の書を見せられ、同十八日兄隱岐守定行召して、定政が所行、狂氣の致す所なれば、その罪を宥められ、定行にめし預けらるゝ所なりと仰下さる、同き廿九日定政が兄越中守定綱、早馬を參らせて申す、舍弟能登守が事、風聞の及ふ所、頗る狂氣に似たりといへども、且は又、如何なる謀事ならんも計り難し、さるに依て、速かに我が桑名の城をたつて、かれが刈屋の城に馳せ向つて、是を守り畢んぬ、又郞等を分て定政もし馳せ登る事あらんには、搦め取て來るべきよしを下知し、路をさへぎるの所に、兄隱岐守に預け下さるゝの旨を稱して、定政をゐて西をさしてのぼるの間、押し留めおきぬと注進す、此よし聞召されて、越中守が振舞、神妙なりとぞ感したまひけると申なり、