文祿の初より、
朝鮮の事起る、
直茂加藤主計頭清正と共に、先陣を承り、
王城に攻め入て、
咸鏡道を打從へ、和親の事、破れし後、再び軍起りしには、
直茂太閤に召され、
蜂須賀阿波守家政、
安國寺惠瓊と三人、同じく
朝鮮の
軍奉行を承る、
太閤薨じ給ひ、
朝鮮の事終り、
大坂の
奉行人、
德川殿失ひ參らせんとて、
大坂伏見の間、物さわがしく、既に軍起らんとす、
直茂最初に
伏見に來て、
德川殿の
御舘を守護す、
德川殿悅び給ふこと、淺からず、
直茂申けるは、このたびの事は、さておきぬ、
直茂が死したらん後に至るまで、永く子孫に庭訓を遺し、
直茂が家を以て、殿の御家と同じく亡ぶべきにて候、恐れある申事には候へども、殿にも此由を以て、御子孫に仰せ傳へられ給はらんには、
直茂が幸、何事かこれに過ぎ候べきと望みければ
德川殿大に感じ給ひ、
中納言にも、其旨を申傳ふべき所なりとぞ仰せける、明れば
慶長五年の秋、
奧の
景勝、御退治のため、御下向ありと聞えければ、
直茂が子息
信濃守勝茂、軍勢を催し、御跡を慕うて馳せ下る、かゝる所に
石田三成、
近江の國愛智川の邊に新關をすゑて、
東國下向の軍勢を押止む、
大坂の
奉行等、
秀賴の仰として書を
勝茂に送て、抑も
內府自らの家建ん事を謀りて、やゝもすれば
太閤の遺命に背き、檀に兵を起し、終に天下を亂る、早く其罪を正されんが爲に、天下の軍勢を召さる、
勝茂かの凶惡に組する事なく、速かに
大坂に馳せ參るべき由を載す、
安國寺惠瓊、また來て、
秀賴の仰を傳ふる事、これに同じ、
勝茂此由を聞て、
勝茂內府に從つて軍せんと思ふも、
秀賴の命を重んずるが故なり、如何で違命の人の方人せんとて、こゝより引返へし、
大坂の先陣して、
伏見の城を攻落し、
海道より攻め下りて、
伊勢の國安濃津の城をも落して、
同國松坂の城を攻む、親父
直茂、本國に在つて、この由を聞き、大に驚き、
下村左馬助を以て
勝茂が許に使として、つら〱事の情を按ずるに、此度
大坂の軍起りし事、幼弱の君の如何で此御結構やあるべき、これ偏に彼の
奉行等が、私の仇を報せんがため、
内府失ひ參らせんとする所なり、我かねて
內府と誓ひ申す旨あり、相構へて、ひが事して、
東國の御勢に向ひ、弓を引き矢をはぐべからず、兼ては又故
太閤の仰せ置れし如く、
秀賴君に背き奉らず、
内府の命を重んずべき所なりと制しければ、
勝茂又大に驚き、我年いまだ若くして、事の情を察せず、かつは老母の
大坂の城に渡らせ給ふが故に、彼の
奉行等が謀に落ちて、誤つて父の心に背きし事、返す〱も無念なり、いま先非を悔ゆるとも及ぶべからず、此上は
內府の御使こうて、速かに腹を切り、父の罪、かうふらせ給はぬ樣をこそ謀るべけれといふ、宗徒の家人等、これを聞きて、御自害の事、猶遲きにあらず、一まづ此旨を以て陳し給はんに、
德川殿御許しなからんに至ては、とにもかくにも御心に任せらるべうもや候ふ、君はいまだ御年廿一歲にならせ給へば、
德川殿、
直茂の御契を思召し出されなば、如何で寬宥の御沙汰もなかるべきとて、
甲斐彌左衞門尉を、
德川殿の御陣に參らせて、此由を陳す、爰にまた
勝茂が親しう召使ひし
久納市右衞門尉といふ郞等、密かに
黑田甲斐守長政の陣に行き向ひ、主人
勝茂が、所存の樣、一々に陳べて、
長政の計ひにて、罪なだめられん事を望む、
年頃長政の父如水入道、勝茂か父直茂と親しかりければなり、長政久納が志の程を感じ、
井伊兵部少輔直政と相議りて、此由をかくと申す、
德川殿聞召し、
家康彼が父
直茂と約せし事あり、如何で其約に違はんやとて、立所に罪ゆるされ、
勝茂を御陣に召し、急ぎ本國に馳せ歸り、
柳川の城、攻め破るべきよし仰せ下さる、
立花左近將監宗茂が居城なり、勝茂大に悅び、本國に馳せ歸り、父
直茂と共に
佐賀の城を打立ち、まづ
久留米の城を降して、
侍從秀包が居城なり、柳川に向ひ、
立花と戰ふ、
黑田加藤、
柳川に馳せ來り、兩陣に使たてゝ軍を制し、
立花を勸めて降參させ、
加藤が兵して、彼の城を守らせ、
清正如水、
鍋島立花の軍勢を押合せ、
薩摩の國に發向す、
嶋津また降を乞ひぬれば、戰ふに及ばず引返へす、
鍋嶋父子、
柳川にて打取る所の首六百餘、
德川殿に參らせければ、御書を賜て、其功を賞せられし上は、本領の安堵はいふに及はず、
大坂の軍起りしには、
勝茂馳上て城を攻む、再ひ軍起りし時、
西國の軍勢は、
嶋津が船出さざらん程は參るべからずと仰せ下されしに依つて參らず、
加賀守直茂、八十一歲にて、
元和四年六月三日に卒す、
信濃守勝茂家を繼き、
寛永三年八月、
四位の侍從に任す、
同き十四年の冬、
同國高來郡嶋原の逆徒、
原の城に立籠る、當時
勝茂は、
關東に伺候す、長男
紀伊守元茂、三男
甲斐守直澄、父の軍勢一萬餘人を率して馳せ向ふ、
十二月の初、追討の御使
板倉內膳正重昌、下向し、
鎭西の軍勢を催して、城を攻む、明れば
十五年春正月元日、
内膳正重昌討死し、寄手討れ、手負ふもの、數を知らず、
鍋嶋兄弟が軍兵、討死三百八十騎、手負ひしもの、四百餘騎、雜兵の手負死人二千五百人とぞ記しける、
同き四日、
松平伊豆守信綱戶田左門氏銕下向す、此後は只遠攻にす、
同き十六日、
信濃守勝茂、御暇を給て、本國に歸る
二月廿一日の夜、城中より打て出で、
鍋嶋が陣を襲ひ攻む、
鍋嶋が勢、防ぎ戰て、打取る所の首百餘、味方にも
秀嶋四郞右衞門尉討死し、侍の手負ふ者二十餘人、雜兵八十餘人に及べり、
勝茂夜を日について馳せ下る、
伊豆守信綱、
同月廿八日を以て、寄手一同に城攻むべき由を下知す、かゝる所に
同き廿七日の朝、
勝茂が先陣、既に城を攻め破つて、打入る程に、諸手の軍勢、我れ劣らじと攻め入て、二三の城を攻破る、
明る廿八日、城は難なく落してけり、
勝茂が兵、討るゝ者百六十人、手負ふ者六百八十三人、
勝茂父子が功、莫大なりと申せども、既に軍法を背きし上は、罪蒙て暫くが程は、籠居せり、
勝茂七十八歲にて、
明曆三年三月廿四日に卒す、嫡子
肥前守忠直元和八年十二月廿六日叙爵其時御諱字賜ひしと云父に先立て卒しければ、嫡孫
光茂家を繼ぐ、
光茂初め、
慶安元年十二月廿二日元服し、御家號御諱字を賜り、從四位下に叙し、
丹後守に任ず、
御刀を賜ふ祖父の家を繼いで後、
三十五万七千石餘明曆四年二月、
侍從になさる、其子
信濃守綱茂、
寛文七年十二月廿五日、元服して御諱字を賜ひ、從四位下に叙す、
御刀を賜ふ事例の如し