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蜂須賀〔後賜松平〕

第八上 · 단락 9 · 780523 79코마 R부터

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지명 6 5 3 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

阿波守源家政は、修理大夫正勝が男なり、初め足利修理大夫高經が末孫、尾張の國海東郡に住し、蜂須賀とは名のりけり、家政が祖父藏人正利が代に及びて、わづか蜂須賀百貫の地を知行す、正勝初の名は小六、後に彥右衞門尉と申す、織田十郞左衞門尉信清に屬して、信清は當國犬山の城主也、其後織田七兵衞尉に從ひ、岩倉の城を領す、又美濃の國齋藤山城入道道三に仕ふ、
永祿の初、織田上總介殿に仕へて、桶迫の合戰に先懸し、一騎を切て又一人を生捕る、元龜元年の夏、信長越前の國に攻め入る、淺井心變りすと聞て、軍を返へされし時、木下藤吉郞秀吉、後陣に在り、正勝同じく後陣に從つて引返へす、是よりして後、正勝を秀吉の手に附られたり、此時木村常陸介、生駒雅樂頭、前野但馬守、加藤遠江守等も同しく秀吉に附られしと云ふなり、按ずにる1巳上の說、太閤記にしるせし所に同じからず、記に見えし所は、永祿九年の秋、織田殿、宗徒の侍大將を召し集めて、美濃の國を擊たれん事を議せられ、木曾川の彼方に要害を構へ、軍兵を込めんに、誰れかあつて某がために、彼處を守らんと思ふと宣ひしに、大河を隔て、他の國に入て、多くの敵に當らん事、以ての外の難義なれば、我れ大將を賜らんと望む者一人もなし、太閤いまだ木下藤吉郞秀吉と申せしが、織田殿密に召して、此事を計り給ふ、秀吉承て、かの要害守られん事、御勢を籠めらるゝまでも候まじ、かの邊の篠木柏井科野秦川小幡守山根上等の野武士共を召し出し、御家人となされて籠られんには若くべからず、秀吉身不肖には候へども、大將を許されんには、彼輩を引具し、守るべうもや候と申さる、信長大に御感あつて、秀吉始て一方の大將となさる、去程にかの野武士等召集め、一千二百餘人が內をすぐつて蜂須賀小六正勝を先手とし、然るべき兵十人、織田殿に勸めて侍大將になされけり、正勝後に彥右衞門尉と申し、常に秀吉に從ひしよし見えたり、
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天正元年、織田殿、秀吉に近江國長濱の地賜ひし時、正勝又伊勢の國長嶋の地賜はる、此時一倍の地加へ賜て領すといふ、同き三年秀吉又攝津の國大坂の戰を賞して、所領の地加へらる、同き四年秀吉、播磨の別所と戰ひしに、正勝わづかの勢を引具し、敵百餘騎を擊つ、其功比類なかりしかば、秀吉やがて多くの地を加へて其功を賞す、五千石を加られしと云常に一方の大將を承る、同き七年伯耆國南條、勘兵衞尉元次なり吉川が三万餘騎に城攻められ、羽衣石の城城中の粮、既に盡き、秀吉後卷しけれども、敵多勢なれば、戰ふべからず、家政此年廿二歲、伯耆國の住人神子田荒木等に案內させ、御方の馬共に粮負はせて、城中に運び入れ、難なく出て歸りしかば、其名當時に顯はれぬ、同十年勝龍寺の戰に、家政先懸して高名す、一番槍也同十一年正勝、播磨國龍野の城を賜ひ、修理大夫從五位下になされたり、四月志津が岳の戰に、家政また高名し、此年岸和田の城に加勢して、紀州雜賀の敵を破り、秀吉、家政に勳賞の地を充て行はる、播州佐用郡三千石の地同十三年四國の地を討れし時、正勝父子一万餘人を率ゐて、秀長に從ひ、後に大和大納言といふ、讃岐の國に押渡て、かたきの城々攻め破つて、伊豫の國に打入り、長曾我部元親、降人になつて參りければ、正勝父子、阿波の國を賜はる、
阿波國の內一万石は赤松に賜ふといふ、此說は土佐軍記に出づ、秀吉家譜に阿波を小六家政に賜ふと見ゆ、これは太閤記に依て誤れるなるべし、土佐軍記にも正勝父子の功を載せてあり、況んや此時正勝いまだ世にあり、彼れに賜ふこと疑ふべからず、
明れば十四年五月廿二日、正勝六十一歲にして卒す、家政父に繼て彥右衞門尉と名のり、其後叙爵して阿波守に任す、鎭西關東の軍に從ひ、朝鮮に押渡り戰ふ事凡そ七年、中にも大明の和親、破れて再び朝鮮に攻め入りし時、鍋嶋安國寺と三人、同じく軍の奉行を承る、太閤薨じ給ひ、慶長五年の秋、德川殿、奧の景勝御退治のため、御下向ありしには、家政が嫡子長門守至鎭御跡を慕ひて馳せ下る、上方また軍起りぬ、此時家政阿波に在り、家人高木法齋、大坂に在つて、大谷刑部少輔が催促に從ひ、軍勢を率して北陸道に攻め下り、やがて兵糧盡きぬとて歸る、斯て長門守至鎭、海道の先陣して、美濃國に向ひ、小西と軍す、軍旣に終つて後、阿波守家政、家人高木が、私に大坂の催促に從ひ、北陸道に下りしを怒つて、忽に所帶を沒収して追却す、されども世の人、家政內々は父子東西に分れて、何れの方にも、我家たてんと謀りけるなど、云ひ沙汰しければ、やがて子息に國を讓り、入道して蓬庵と號し籠居す、至鎭家讓られて、從四位下阿波守になさる、十八万六千石大坂の軍起りし時、蓬庵入道、東海を押渡つて、關東に參り、將軍家の御後を守り、阿波守至鎭は、攝津の地に渡て、此處彼處の要害を攻破り〱城を攻め、おのが陣に、夜討うち入りしに、手の者に下知して能く戰ふ、大御所、蓬庵に御致書を賜りて、子息が功を賞し給ふ、程なく東西和睦の後、今年十二月廿四日、大御所、阿波守を召て、此度の功を賞し給ひ、彼の家從等の高名せし輩に、御致書をなされ、物を賜ふこと差あり、明れば元和元年正月十一日將軍家又至鎭に御致書をなされ、御家號を許さる、軍再び起りしには、海路穩かならず、城落ちたりし日、大坂に着き、戰にはあはず、閏六月四日、將軍家、至鎭に淡路の國を加へ賜ふ、阿波淡路合て廿五万七千石なり、政事錄に閏六月四日に賜ふと見ゆ、家忠日記追加に、七月廿日としるす不審元和六年二月廿六日至鎭三十五歲にして、父に先立ちて卒す、其子千松丸、家を繼く、
慶長十九年十一月廿九日、大御所、至鎭を大坂の御陣に召されて、汝の嫡子、衣の紐おとさんころまで、家康、親になるべしと仰ありて、召されし御帶を賜ひ、又千松丸が許に御使を下されて、小袖二領黃金三百枚を賜ふといふ、
元和九年五月十日、一說に十四日將軍家に召して、元服の儀、行はる、御諱字賜り從四位下阿波守になされ、忠英と申す、御刀を賜ふ寛永三年八月、侍從に任ず、同き十五年十二月晦日、蓬庵入道卒す八十一歲、承應元年四月四日、忠英四十二歲にして卒す、嫡子阿波守光隆、慶安元年十二月廿二日元服し、御諱字を賜ひ、從四位下因幡守に任す、御刀を賜ふ家繼きし後、承應二年十二月、侍從兼阿波守になされ、寛文六年五月廿七日、三十七歲にて卒す、其子千松丸、家を繼く、寬文十年十二月十八日元服し、御諱字賜り、從四位下兼阿波守になされて、綱通と申す、御刀を賜ふ綱通廿三歲にして延寶六年七月晦日卒す、子無くして從弟熊太郞を以て世嗣とす、故阿波守光隆が舍弟式部某が男なり此年十二月廿一日、從四位下淡路守に任し、御諱字を賜りて、綱矩と名のる、
飛驒守源至照、蜂須賀と稱す忠英が三男なり、右大臣家御誕生ありし時、阿波守忠英、至照がいまだ童にて、萬助と申せしを、若君に參らせて、給仕せしむ、將軍家御感斜ならず、慶安四年元服叙爵し、御詰衆になされ、俸祿を下し賜はる、米三百俵父卒して後、所領分ち與ふ、米五万俵、後淡路守網矩1家をつぐに及ひて、一万石の地を分つ、
  1. — 지면 그대로. 「綱矩」의 저본 오식으로 보임