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嶋津〔後賜松平〕

第八上 · 단락 5 · 780523 67코마 R부터

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修理大夫源義久入道龍伯は、嶋津豐後前司忠久が後胤なり、忠久初め後鳥羽院の御宇、建久四年、鎌倉の右大將家の仰を蒙り、薩摩の國の守護職を賜る、其身は大番役に從つて、都に在ること凡そ三年、まづ郞等本田次郞を、薩摩の國に下し、國務の沙汰せしむ、同き七年、本田上洛して、忠久を迎へ國に下る、忠久まづ當國出水の山に着て、莊內に移る、右大將家の御敎書に任せて、薩摩の國は云ふに及はず、大隅日向の國人等、守護の下知に隨はざる輩、悉く退治して、其後薩摩の國鹿兒嶋に住す、是迄鹿兒島には矢神といふ者あり、忠久これを滅して、こゝに移り住むといふ、巳上島津家譜に出づ、
嶋津系圖并新編纂圖を合せ考るに、右大將賴朝の子七男あり、其中比企判官能貞が妹、丹後の局が腹に二人あり、兄は嶋津宗兵衞尉忠久、弟は若狹兵衞尉忠季、これは承久三年宇治川の合戰に討死す、系圖に曰く、忠久治承三年に生れて十八歲の時、建久七年七月一日、薩摩の國に下向して、薩摩大隅日向等の守護となり、嘉祿二年三月廿一日、六十歲にて卒す、忠久、畠山重忠の娘に添て、男子三人を設くといふ、按るに治承三年に生れて六十歲にして、嘉祿二年に卒すといふは、傳寫の誤れるなるべし、斯の如くならば、四十八歲にて卒せるなり、六十歲にはあらじ、又東鑑には安貞元年六月十八日辰の刻、嶋津豐後守從五位下惟宗朝臣忠久卒とあり、嘉祿は二年にて安貞と改む、されば忠久が卒せし年、系圖とは一年の違ひありて、月と日とは共に異なり、又東鑑の記す所を見るに、嶋津もと惟宗姓なり、源氏にはあらず、其家の系圖にも新編纂圖にも、宗兵衞尉と載せたれば、惟宗姓たる事分明なり、何れの程より源氏とは名のれるにや、又其系圖の傳ふる如く賴朝の御子ならば、源氏たること勿論なり、如何なる故にか惟宗姓とは名のりしや、覺束なき事どもなり、又東鑑建仁三年の記に、九月二日比企判官能貞が討れし時、同四日嶋津左衞門尉忠久、大隅薩摩日向の守護職を收公せらる、能貞が緣坐故也と云々、然れば此時に、彼國々の守護職をば停められぬ、又安貞元年の記に、豐後守と記したれば、後には豐後の守護となれると見えき、系圖を按ずるに、忠久が嫡男三郞兵衞尉忠義大隅守となれり、此時より再ひ大隅の守護とは成れるなるべし、〇世に傳ふる傳記に曰く、比企藤判官能貞が妹、丹後の局、懷妊の事あり、二位殿安からず思ひ給ひ、人に仰て由比の濱にて海に沈めんとせらる、此仰せ承りし人、痛はしく思ひ、とかく計らうて落す、攝津の國渡邊の邊に至て、住吉に詣でゝ、四社の明神に胎内の御子、安全の事を祈り申さる、かゝる所に產の氣、頻りに催しければ、力なく瑞垣の傍なる石に腰うち掛て、平かに男子を產めり、はか〱しく付き隨ふ人もなきに、餘多の狐來り集りて擁護す、この腰掛けし石、今も嶋津石と名づけて、住吉の邊にあり、其後丹後の局、鎌倉に召返へされ、八王寺民部大輔に賜り、若君をば畠山庄司重忠に預けらる、重忠子として十三歲の時に鳥帽子きせ、忠久と名のらせ、聟となす、大隅薩摩兩國を賜り、嶋津又三郞忠久といふと云々、此說は覺束なき事共あり、まづ系圖に依れば忠久は治承三年に生る、此時右大將家は、いまた伊豆の國の配所にましませし頃なれば二位殿丹後の局を、由比の濱に沈めんとせられしといふ事誤れるなり、丹後の局召返へされて、八王寺が妻とせらしと1いふも、如何あるべき、此後又この局の腹に賴朝の御子若狭守忠季をまうけたり、畠山が烏帽子きせて聟とせし事は勿論なり、子とせしといふも覺束なし、子としたらんには、など畠山とは名のらざらん、又薩摩大隅を賜て、嶋津と名のるといふも浮きたる說なり、兩國賜りたればとて、謂れなくして、如何で嶋津とは名のるべき、世の傳ふる所、誠とし難きに似たり、○又忠久は近衞攝政基通公の御子たりといふ說あり、系圖家譜にも見えず、如何なる據り處にや覺束なし、昔の事は知らず、近頃嶋津が、かの御門下に親しく祗候せる事は謂れありと見えき、世の傳ふる所を以て、公卿補任等を合せ按するに、近衞の關白前久公、永祿十一年忽ち武命に違はせ給ふ事ありて、御出奔、此年十二月十六日、關白を停められ給ひ、忍びて丹州に御座ある事、凡そ七八年、天正三年六月廿八日御歸洛、同年九月廿日、又薩州へ御下向あり、世には流されさせ給ひしとも申すなり、嶋津が許に御座ありし事三年、天正五年二月廿六日御歸洛、同き七月廿日初て御出仕あり、この年月の御好みに因て、慶長五年の秋、關が原の戰に、嶋津打負けて本國に返りし時、彼が從類を御所の內に深く匿し置かせ給ひしなり、嶋津また此事を忝き事に思ひ、此後御家禮の好み、代々深しといふ、
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忠久より九代陸奥守忠國に至る其長男右馬頭友久は、兄なれども家を繼かず、二男陸奥守立久家をつく、立久が子陸奧守忠昌、忠昌に男子三人あり、嫡男忠治、二男忠隆三男勝久といふ、三人の兄弟家を傳へて、皆守護の職を掌る、勝久が代に當つて、右馬頭友久が曾孫修理大夫貴久、童名虎壽丸と云ひし時、勝久と不快の事起り、勝久遂に貴久が爲に國を出され、豐後の國に落行く、貴久やがて當國の守護となる、其嫡男修理大夫義久、二男兵庫頭義弘、三男左衞門尉歲久、四男中務大輔家久とぞ申ける、嫡男義久、家を繼き、大隅日向を始として、筑前筑後肥前肥後豐前の國に至るまで、悉く打從へ、大友左衞門督義鎭入道宗麟を滅して、豐後の國をも併せんとす、豐臣關白天下を知召しゝ初、前の日向國の守護伊東三位入道の舍弟民部大輔祐兵、殿下に給仕して、本國安堵の事を望み申ければ、關白かねて九州征伐の事を思召し寄り給ひし處に、天正十四年正月、大友又上洛して、嶋津御退治あらんには、先陣を賜はるべき由を望む、義久また鎌田刑部左衞門尉を使として、年比打從ふる所の八箇國の守護職、相違なからんには、急き上洛して、殿下に伺候すべき由を申す、關白殿聞し召して、大隅薩摩は本領なれば、相違あるべらず1、又日向肥後筑後、各半國を賜はるべし、日向の地半國は、伊東が本領なれば、彼に賜ふ、豐前の國に筑後肥後の半をば、大友に返へし、肥前の國をば毛利が家に附て、筑前國をば御領のために、獻るべき所なりと仰せ下さる義久大に怒て、此國々は悉く義久が年比多くの軍して、打從へし所なり、凡そ地を爭ひ兵を戰はしむること、珍しからず、如何で秀吉の下知として、故なく彼等にさけ渡すべきとて、既に軍勢を催して、豐後の國に攻め入らんとす、此年の冬、關白の御使として、仙石權兵衞尉秀久、長曾我部土佐守元親、鎭西に下向し、義久が押領せし國々を受取らんとす、又黑田勘解由孝高、山陽道に下向して、毛利吉川小早川等が軍勢を催促す、これは嶋津もし殿下の御使に對捍せば、まづ鎭西に押渡つて、彼が押領せし國々攻め取らるべき爲とぞ聞えける、仙石、豐後の國に着きて、まづ嶋津が許に使たつて、早く御下知に任せ、押領せし國々をさけ渡すべきよし催促す、義久いよ〱怒つて、其使を搦め取つて、禁獄し、舍弟中務大輔家久を、大將として、其勢二萬を引わけて、豐後國に攻め入る、十二月十三日、仙石長曾我部、大友が勢を引具し家久と戰ひ、手合の合戰に打負けて長曾我部が嫡子彌三郞信親討死し、大友、府內の地を去て高崎の城に落行く、家久續きて府內の地に亂れ入る、大友高崎にも怺へかね、龍王の城へ落ち去りぬ、兵庫頭義弘、肥後の國を經て發向し、大友が城々、悉くに攻落す、毛利右馬頭輝元、此由を聞て、山陰山陽の軍勢を從へ、豐前の國に押渡つて、嶋津が勢と戰ふ、關白、仙石長曾我部が負軍しつと聞召し、自ら畿内畿外南海北陸の軍勢を帥ゐ給ひ、明れば十五年の春、都を立つて、先陣既に長門國赤間が關に着くと聞えしかば、義久が軍勢、豐後の國を去て、日向の國にて防き戰はんとす、又關白の御使として、興山上人、一色の何某と共に府內の城に來て、義久に對面し、速かに戰を止めて、殿下に伺候すべき由を陳ぶ、義久更に從はず、程なく關白の御勢、鎭西の地に押渡つて、二十五万餘騎を二手に分けて、大和大納言秀長、山陰山陽等の勢を引率し、伊東祐兵を案内とし、豐前豐後を經て、日向の國に向ひ、關白、畿內畿外南海北陸等の勢を帥る、筑前筑後を經て、薩摩の國に攻め入り給ひし程に、鎭西の國人等、冑を脫ぎ、弓を伏せ、降人になつて參る者、引きも切らず、嶋津兄弟、戰ひ疲れたる少勢にて、多勢のかたきと、此處彼處に戰ひ、散〱に打なされて、本國に引返す、同き五月、關白の御勢、薩摩の國に亂れ入て、先陣既に鹿兒嶋に押寄せたり、嶋津も、今は防ぎ戰ふ事叶はず、義久自ら剃髮染衣の姿となつて、小童一人召し具し、太平寺の御陣に參る、殿下やがて御對面ありて、御氣色殊に宜しく、大隅薩摩兩國安堵の事、仰せ下さる、義久が舍弟義弘、歲久家久を始として、宗徒の家人郞等、みな見參に入る別の仰ありて、大隅七郡日向二郡の地を分ちて、兵庫頭義弘父子、幷家人伊集院新納等に下し賜はる、九州二嶋悉く平均に屬しければ、關白薩摩の國を立つて都に趣き給ひけり、同き六月十五日、義久鹿兒嶋を立つて、博多の御陣に參り、關白の御供して、大坂にぞ參りける、十六年の冬、肥後の國人等、當國の守護佐々陸奧守成政に叛く、兵庫頭義弘、關白の仰を承て、軍勢を引具し馳向ふ、明れば十七年二月、國人等御下知に從つて軍を止む、頓て本國に引返へす、程なく福嶋左衞門大夫正則、淺野彈正少弼長政、加藤主計頭清正、肥後の國に下りて、國人等悉く誅せらる、宇土修理亮顯孝が舍弟顯輝、また宇土の城に立籠る、小西攝津守行長、押寄せて攻めければ、顯輝こらへかね、城を落ちて、薩摩の國出水といふ所に忍び居たり、義久入道龍伯、殿下の仰を蒙て、軍勢を差向く、顯輝が家子郞等、さん〱に戰て、寄手の兵多く討れしかど、終に顯輝をば討つてけり、其後、義久入道、三位法印になされ、義弘四位の侍從になさる、義弘、また入道して、惟新と號し、子息忠恒、又侍從兼陸奧守になさる、秀吉後に攝州能勢郡五千石、同國茅野村千八百石、播州竪崎の庄三千貳百石そへて、一万石を賜ひしといふ、文祿元年、朝鮮の軍起る、義弘一萬人を率して、彼の國に押渡り、前後の軍、凡そ七年、中にも慶長三年十月朔日、泗川の城の戰に、大明の多勢を打破り、異國本朝に名を顯はす、異朝の書に義弘を石曼子としるせるは、此兵庫入道が事なり、されば此時太閤薨し給ひ、我朝の軍勢、難なく引て歸ること、如何にも叶ふべからずと、皆人危み思ひしに、義弘一戰の功に依て、軍全うして、事終りぬ、德川殿豐臣家の奉行と議せられ、其勳功の賞として、慶長四年正月九日義弘所領の地を加へ賜ひ、薩摩の內豐臣家御領の地、四万石を賜ふといふ、忠恒四位の少將になさる、こゝに嶋津が家人伊集院右衞門大夫入道幸侃といひしは、天正十九年、主3の嶋津が、既に亡ぶべかりしに、この幸侃關白の御陣に參て、歎き申せしに因て、義久兄弟が罪ゆるされ、本領を安堵す、されば關白にも彼が忠を感じ給ひ、大隅の内一郡の地を分ち賜ふ、かゝる奉公の者なれど、如何なる故にやありけん、慶長四年三月九日、陸奥守忠恒、伏見の館にして、これを誅す、幸侃が郞等、既に軍せんと、ひしめく、德川殿、忠恒が許に、御使あつて、御加勢賜はるべきよしを仰せ下さる、家人とは申せども、太閤の所領賜つたる者を、恣に討つて、都のさわぎ仕出しければ、忠恒其咎を憚りて、高雄の麓に蟄居す、德川殿豐臣家の奉行等に仰せらるゝ旨あつて、忠恒その咎を免かる、德川殿頓て數十騎の兵して、忠恒を伏見の家に迎へ入れ給ひ、忠恒本國に還る事を得たり、幸侃が子源二郞、父が討れしを聞て、日向國庄内の城に立籠り、要害あまた構て、主の嶋津と戰ふ、同七月、德川殿山口勘兵衞尉直友を御使にて、鏃二千暑衣百領、忠恒に賜りて軍のやうを問はせ給ひ、九月また寺澤志摩寺廣高2して、嶋津に加勢させ、又山口を差し下され、主從が間を和げさせ給へば、源二郞降參しぬ、明れば、五年の秋、兵庫頭義弘、石田に組みし、美濃の國關が原に出向ひ東國の人々と軍し、義弘さん〱に戰なつて、既に討死せんとしけるに、猶子中務大輔豐久、入道を諫め、我身は取て返へし、時移るまで戰て討死す、一說に舍弟といふ、不審、嶋津家譜に中務家久は、天正十五年薩摩陣の時に軍終て後頓死せしと見えたり、豐久は家久が子なり、入道希有にして死を出て、德川殿の御陣に、郞等河上四郞兵衞忠允を參らせ、此度義弘思はずも、御敵と成て候こと年來の御芳志を忘れまゐらするに似たり、最これ入道が本意にあらず、只今御陣頭を罷り過き候に依て、使者を參らせて案內を通じ候ひぬ、精しき事は、歸國の後、陳謝し申べき所なりといひ捨てゝ、道遮らんとせし野伏ばらを蹴散して、攝津國住吉に至て、大坂に在りし父子の妻子、悉く取て、船五十餘艘に取乘り、日向の國に着きにけり、去程に、加藤肥後守清正、關東の御方として、同國宇土の城を攻む、小西攝津守行長が城なり、嶋津が軍勢、また小西を助けて、肥後の國に向ひ、清正が佐敷の城を攻む、清正宇土を攻め落し、八千人を率ゐて、先陣し、黑田如水入道、三千人にて後陣を打つ、肥後薩摩の境なる津名木水俣に陣取つて、義久と戰はんとす、かゝる所に、關が原の軍、破れぬと聞て、嶋津か軍勢、佐敷の城より引き返へす、龍伯敢て加藤黑田に向つて軍せず、福嶋左衞門大夫正則に就て訴へけるは、義久初より德川殿に、二心を存せず、舍弟兵庫入道が所行、甚以て奇怪の至なり、義弘本國に逃れ歸るといへども、既に對面を許さず、櫻嶋に押込め訖んぬ、御下知を待て、速に嚴科に處すべき所なりと申す、さらばとて、まづ加藤黑田が軍勢をば、召返へさる、其後龍伯入道、大坂に馳せ上りて、罪なきよし申披かんとせし處に、忽に病に伏しぬとて、家人鎌田出雲を以て愁訴を陳ぶ、同き七年四月十一日、本領安堵の御敎書を、龍伯入道に賜ふ、入道大に悅ひ、病なほ平かならざれども、猶子忠恒打連れて、薩摩の國を出でんとす、伊集院また謀反せしかば、彼れ退治のために來ることを果さず、此年十二月廿八日、忠恒伏見に來て、大御所に見參す、十一年九月朔日、忠恒再ひ伏見に來て、大御所に見參す、此日御家號御諱字賜て、家久と名のる、家忠日記追加に出づ、○太閤の家號許されて、今までは羽柴を名のりしなり、同十四年の春、家久望み請て琉球を擊つ、此年二月廿八日南洋に泛みて、大嶋德嶋等の地に戰ひ、四月朔日那覇津に至り、琉球の兵を打破る、同き三日、中山王を生捕りて、本國に歸り、此由を注進す、七月七日大御所、御致書をなされて、彼國を家久に賜ひ、將軍家、又義久義弘家久に御致書を賜て、其功を賞せらる、明れば十五年八月八日、家久、中山王を具して、駿河に來り、大御所に見參し、夫より關東に趣き、同月廿八日將軍家に參る同十六年十二月十九日、義久入道龍伯卒す、七十九歲、家忠日記追加に出つ、創業記考異には十六年正月二十二日卒すと云々、大坂兩度の軍には海上風穩かならずとて家久遂に參らず、此後家久妻子携へて關東に移る、これ鎭西の大名、妻子を關東に徙せし始めにて、將軍家の御感、斜めならず、これに依つて、諸役御免あるべきよしを仰せ下さる、是れ嶋津が第一の奉公たるよし、かの家にて云ふ所なり、
  1. — 지면 그대로. 「あるべからず」에서 「か」가 빠진 저본 오식으로 보임
  2. — 지면 그대로. 「志摩守」의 저본 오식으로 보임
  3. — 지면 그대로. 島津氏가 秀吉에게 항복하고 본령을 안도받은 것은 통설 天正15(1587)
元和三年七月、家久參議になさる、同き五年七月廿一日、兵庫入道惟新卒す、八十五歲、慶長五年の後は籠り居たりしとなり、家久寛永三年八月、從三位權中納言に至り、同き十五年二月廿三日、六十歲にて卒す、一說六十三歲と云ふ、左中將兼大隅守光久、家久の嫡男、寛永八年四月元服し、御諱字を賜り、從四位下侍從兼薩摩守になされ、同き十五年家を繼く、六十万五千八百石餘かねて將軍家の仰を蒙て、正保四年十一月十三日、武藏の國王子村にして、家從等に、犬追物射させて、御覽に備ふ、物を賜ふ事多く家從等に及ふ、獻る者も亦少からず、慶安四年十二月廿五日左少將になされ、廿六日子息綱久元服し、御諱字を賜ひ、從四位下侍從兼薩摩守になされ、父光久大隅守になる、寛文十三年二月十九日、薩摩守綱久、年四十二歲にて、父に先立ちて卒す、光久嫡孫修理大夫綱貴を世嗣とす綱貴初め寬文七年十二月、元服し、御諱字を賜ふ、四位の下侍從になされ、修理大夫を兼ぬ、延寶元年十二月廿八日、光久中將になされ、同二年正月七日從四位上に昇る
右馬頭源忠興は、嶋津と稱す相摸守忠良が二男、陸奥守貴久が弟、右馬頭忠將が孫なり、初め忠將大隅の國廻の戰に討死し、其子右馬頭以久、父に繼く、以久が嫡子右衞門尉彰久は、朝鮮海路の戰に討死す、二男重時は、入來院が家を繼き三男右馬頭忠興、將軍家に召仕はれ、日向國佐土原の地を分ち領す、其子右馬頭久雄、五歲にして父に繼き、承應三年十月、改て但馬守となる、寬文三年十二月二日卒す、三十六歲、其子息飛驒守久英つく、延寳四年八月十一日廿六歲にして卒す、其子萬吉丸、僅に一歲、從弟又吉郞久壽を以て、家を繼かしむ、後に式部少輔に任す