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毛利〔後賜松平〕

第八上 · 단락 9 · 780523 59코마 L부터

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인물 50 35 30 24 20 20 12 12 9 8 7 6 6 6 6 5 4 4 4 4 4 4 3 3

지명 10 8 8 6 5 5 5 4 4 4 4 3 3 3 3 3 3 3 2 2 2 2 2 2

家の系圖には、平城天皇の皇子阿保親王の御子、備中守本主の子、音人初めて大江の姓を賜ふとしるせり、新編纂圖も是れに同し、たゞ本主に姓を賜ふと記るせるのみ異なり、本朝皇胤紹運錄には、音人を阿保親王の御子の列に載せたり、然れば大江の姓は阿保親王の御末と見えたり、されども、公卿補任には、大江朝臣音人は備中介正六位上本主が男、先祖本姓は土師なり、延曆天子の外戚を以て、改めて大枝となる、音人に至て、枝を改めて江となす、母は中臣氏、阿保親王の侍女と云々、拾芥抄に大江は右京の人土師の宿禰淨繼、大枝の朝臣の姓を賜ふ、貞觀八年三月廿二日大江とす、此二書に依れば、大江は、もと土師姓なり、新撰姓氏錄に、土師は天穗日命十四世の孫、野見宿禰の後也とあり、されば大江の先は天穗日命より出て、平城天皇の御裔にはあらず、江談抄を見るに、菅家は土師姓なれば子孫多けれども、官位至らずとて、土師姓の事を誹りてしるす事あり、江帥自ら土師の子孫たらんには、おのが先祖の事、かくはなどいひけん、公卿補任には、母は中臣氏、阿保親王の侍女とあれば、もしくは音人實は親王の御子なるを本主が子とせしにや、覺束なき事なり、
廣元初め鎌倉右大將家の政所の別當となり、賴經の時に至て、四代將軍の遺老、當代の有職にて、凡そ將軍家の例式、多くは此人の撰み定めし所なり、廣元の四男毛利左近將監季光、始て安藝介に任し、季光を新編纂圖に季元につくる、又毛利と名のる事、東鑑を按るに、廣元相摸國下毛利の庄を領せしと見ゆ、子息等初めて、かくは名のりしにや、季光が子孫、安藝國高田郡吉田庄の地頭職に補せらる、季光十一代の孫、備中守弘元、當國高宮郡多治比鄕に住し、四人の男子あり、嫡子備中守興元、二男少輔次郞元就、三男少輔三郞元綱、四男上總介就勝、興元早世し、其子幸松丸八歲にて家を繼き、十三歲にて死す、一說幸松丸九才にして早世すといふ元就就勝1、興元が遺領を爭ふ、出雲國の守護尼子伊豫守經久、就勝に方人して、元就を打亡さんとす、元就頓て吉田の城に立籠て、其由を以て義植將軍に訴ふ、將軍より本領安堵の御書を、元就にこそ下し給ひけれ、元就また長門の國に使立て、大內左京大夫義興に屬す、毛利家傳には此頃元就三百貫の地を領すといふ、一說に興元の遺領三千貫の地なりしともいふ、又是より先き元就、母の讓りを受けて、多治比七十五貫の地を領し、三百餘人を召し集めて、猿掛山に要害を構へて住せしともいふなり、
  1. — 지면 그대로. 幸松丸 사후 元就와 가독을 다툰 동생은 통설 相合元綱(三男)이고 就勝이 아님
初め永正十一年十月當國の守護武田太郞左衞門尉元繁、吉川駿河守興經と戰ふ事ありしに、吉川は、當國山縣新庄を領せしとなり、元就生年十八歲、吉川を助けて、武田が勢を打破り、元繁と組んで首を斬る、興經悅ぶこと限りなく、頓て其娘を以て、元就が妻となす、天文九年八月、尼子伊豫守經久、嫡男右衞門督晴久、父子六万騎を從へ、吉田の城に向ふ、元就僅かに八千人を引具し、一日の間戰ふこと三度に及び、手合の戰、旣に勝軍したりけれど、敵もとより多勢なれば、陣堀二箇所に搆へて、遠攻にこそ、したりけれ、大內此由を聞て、陶尾張守晴賢に、一万騎を附けて、元就を助く、明れば天文十年正月七日の戰に、元就先陣して、尼子が多勢を打破りぬ、毛利尼子と戰ふ事、年を經て、其勢既に疲れぬと見てければ、武田刑部少輔淸重1、父が仇、報ぜんとて、五千餘騎を率して、吉田の城に向ふ、淸重は元繁が子なり元就また武田が勢を打破り、首七百三十餘斬て、同き年の三月、淸重が金山の城に押寄せ忽に攻落し、武田は終に亡びてけり、かゝる所に天文廿年九月朔日、大内左京大夫義隆、尾張守晴賢がために、失はれぬ、元就是を聞て速に晴賢を誅して、義隆の舊恩に酬いんとて、又晴賢と戰ふこと年を經て、弘治元年十月晦日の夜、晴賢が六万餘騎、嚴嶋に陣したるに、元就が兵二万人、兵船に取乘て押渡り、夜に紛れて切て懸る、陶が軍勢、一支も支へずして、さん〲に逃げ散るを、首四千七百十八きつて捨つ、晴賢遁れかねて、終に腹きつて死す、かくて晴賢が押領せし國々を從へて、備前の國をも攻めしかば、宇喜多直家降參す、嫡男隆元を、周防の國に留めて、豐後の大友を守らせ、我身は二男元春三男隆景を打連れ、出雲國に向ひ、尼子と戰ふ事、すべて七年、晴久死して其子右衞門督義久繼き、永祿九年に及ひて、終に富田の城を攻落し、右衞門督義久降參す、藝州長田延命寺に住し瑞閑と號す
  1. — 지면 그대로. 天文10年 佐東銀山城(金山城) 함락 때 安芸武田氏 당주는 통설 武田信実. 「淸重」은 미확인
かくて元就が領するところ、安藝周防長門備中備後因幡伯者出雲隱岐石見、合せて十箇國、自ら十州の大守と名のる、年既に老いぬれば、隆景元春を大將として、西國四國に師を出し、また備前の宇喜多が叛きしをも、子息等に攻めさせて、我身は安藝にぞ住しける、この人弓馬の道に暗からざるのみにあらず、敷島の道にも心を寄せ、よめる歌、秀逸の作多く、三條西殿を判者として、詠草一卷えらび、大江朝臣元就詠草とて、世の人いまも傳へけり、されば文武の名譽、四海の內に遍かりき、中にも人皇百七代正親町院の御宇に當りて、弘治三年十一月廿七日、御踐阼の事まし〱けれども、五畿七道、一同に亂れ、三年を過ぐるまで、御即位の禮、行はるべきやうもなかりしに、元就これを聞きて彼の科を調進し、大禮既に成りしかば、其勳賞として大膳大夫になされ、菊桐の御紋、下し賜ひ、又陸奥守になさる、是れは先祖廣元の先蹤を追はれけるとぞ聞えける、足利殿も義輝御事の此事を御感あつて、錦の御鎧直垂を下し賜ひて、鎭西の守護職に補せられしは、あり難かりし事共なり、元就多くの男子あり、嫡男隆元、大膳大夫二男元春、吉川駿河守三男隆景、小早川左衞門佐四男元秋、少輔十郎尼子の家をつぐと云五男元清、穂井田備中守、これ宰相秀元の父也六男元政、少輔六郎系圖には七男の由なり七男元康、紀伊守といふ八男元綱、後に久留米藤四郞秀包といふとぞ申ける、嫡男大膳大夫隆元は、父に先立て卒す、其子中納言輝元なり、元龜二年六月元就七十五歲にて、吉田の城に卒し、嫡孫右馬頭輝元年十九歲にて家を繼ぐ、叔父元春隆景、家人等と相議て、軍國の事を裁斷す、天正元年、義昭將軍、織田信長のために、京都を逐れ給ひて、毛利を賴ませ給ひしかば、備後の國鞆の浦に迎へ奉り、よきにかしづき奉る、信長安からぬ事に思ひ、同き五年の比ほひ、毛利と織田との軍起り、羽柴筑前守秀吉、大將を賜り、まづ播磨の國を打從へ、備前の國を初めて因幡伯者の國人等を降し、同き十年の春、備中の國に攻入り、冠河屋等の城を落し、高松の城を攻む、輝元元春隆景八万餘騎を率ゐて、後まきせんとて打出づ、信長の軍勢、また雲霞の如く攻め下ると聞えしかば、毛利の人々相謀り、備中備後伯耆三箇國を、信長にさけ渡し、中直りすべしとて、秀吉に使たてゝ、長く兩家のよしみを、結ぶべきよしを云ひ送ること、度々に及ぶ、かゝる所に同き六月二日、信長、明智が爲に失はれ給ふ由、秀吉の陣に聞ゆ、秀吉ちつとも包まず、毛利が使に向ひ、織田殿既に逆臣のために、討れ給ひぬ、かくても猶輝元が秀吉と好み結ばん事、初めより聞く所の如くにやあらん、今は又違ふ事やあるべき、汝とく歸りて此由を語り、汝が主の思はんやうを急度承りて來れ、其上にてこそ返答には及ふべけれとて歸へさる、輝元宗徒の人々を召集めて、此事を僉議す、當家信長にこそ中直らんと云ひけれ、秀吉が爲にあらず、信長忽ち討れし事、偏へに當家の幸なり、一まづ本國に引返へし、世の成り行かん樣を御覽ずべうもや侍らんと、皆一同に申しけり、小早川左衞門督1、これを聞て、隆景存ずる處、人々の議に同じからず、抑も本朝の兵革、頻りに動きて、こゝに百餘年、天下の亂、既に極りぬ、世また泰平に屬すべき期、やゝ近きにあり、此時に當つて、自ら天下の權を握り、海內の亂を攘ふべき人、などか無かるべき、此年頃かの秀吉の振舞ひを傳へ聞くに、其事もし此人にやありぬべき、去れば此度信長が死せし事、秀吉の身に取つては、深き禍には似たれども、これ然しながら、天下この人に歸しぬべき時、既に至りぬと覺ゆるなり、廣く此人の振舞ひを論ずるまでも侍らず、いま兩家よしみ既にならんず時に、臨みて、たゝ尋常の心ならんには、如何にもして、信長が死を深く隱し、堅く盟を結ひてこそ、其事をも披露あるべけれ、それにかく眞直に申送る條、甚た以て不敵なり、然るに今初めの言葉に引替へて、秀吉と中違ひしたらんには、永く兩家の仇を結び、我が家、遂に彼れが爲に亡びん事、遠き日にあるべからず、只この儘に中直りして、前途後榮を、此人と共に期し給ふに若くべからずと、餘義もなく申されしかば、福原越前守廣俊、秀吉の陣に行き向ひ、信長の死を弔ひ、和睦の事、變ずべからざる旨、輝元を始めとし、吉川小早川の人々、皆起請文を送られたり、秀吉大に悅で、此よしみ長く易ふ事、あらじとて、これも起請文かきて給ひけり、此上は逆徒速かに誅伐あるべしとて、明れば六月六日、秀吉備中を立て都に趣く、輝元やがて秀吉に加勢して、叔父藤四郞元綱に、桂民部大夫附けて、人質にぞ出されける、此時秀吉の請に依て鉄砲五百挺弓百挺旗三十流を以て援けしなり程なく明智亡び、天下遂に秀吉に歸せし事、隆景の思に違はず、かゝりし後、秀吉毛利がこと愚そかに思ひ給はず、自ら關白に任じ給ひし時、輝元に從四位下させ、次第に官位昇進して、天正十六年四月十日、參議に任じ、慶長二年三月十日、從三位權中納言に至り、一門多く納言侍從に歷昇る、此時輝元、安藝周防長門備後隱岐出雲石見等を領し、百二十万五千石といふ、筑紫の陣を始めとして、朝鮮七年の軍に至て、或は自ら打向ひ、或は軍勢を差向け、城守らせ、軍させ、度々の戰功少からず、慶長三年の秋、太閤薨じ給ひし時、御跡の事、賴み給ふよし、輝元に仰せ置れき、同き四年の春、大坂の奉行等、利家秀家輝元等を初め、宗徒の大名勸めて、德川殿失はんとせしかども、事ならずして、石田三成、職を去つて、己が所領に引き籠る、明れば五年の二月、輝元おのが館に、德川殿を請じ參らせ、兩家兄弟の好みをなすべきよし、起請文を書て獻る、毛利の家に傳りたる千鳥荒波といふ二つの刀あり、千鳥をば太閤へ參らせて、荒波ばかりぞ殘つたる、此日かの荒波を德川殿に奉り、頓て本國に下向す、此年の夏、德川殿、奧の上杉、退治のため、御發向ありしかば、輝元、吉川安國寺等を大將として、軍勢をさし下す、かゝる所に、安國寺の惠瓊、石田三成にかたらはれ、輝元を、とかく勸めて上方の大將軍となし立てゝ、大坂の城に迎へ入れ、德川殿失ふべしとぞ議したりける、輝元が養子秀元を大將とし、吉川安國寺に多勢附けて、海道を攻め下り、伊勢の國に打入る、東國の先陣、馳せ上つて、美濃の國岐阜の城を攻落し、大柿の城に打向ひ、赤坂の宿に陣を取る、毛利が軍勢、此由を聞て、これも同しく美濃國に向ひ、南宮の山に陣取たり、德川殿程なく上り給ひ、軍旣に明日に極る、吉川駿河守廣家、忽に心がはりし、密かに德川殿の御陣に、人質を參らせ、毛利が家、亡されざらんには、廣家御方にまゐるべきよしを申す、德川殿この由を聞召し、まづ人質をば返へされたり、かくて關が原の合戰、上方の軍勢、悉くに敗れ、安國寺が勢、一支へもなく逃け散り、吉川また德川殿の御陣に參る、秀元今は戰ふに及ばず、大坂に引返す、東國の軍勢、續て攻め上ると聞えしかば、輝元大に驚き、大坂の城を去り、木津の別業に遁れ、入道して、降人になつてぞまゐりける、德川殿累代の家、一時に亡ひん事、不便の事なりとて、周防長門を賜て、其餘の國々悉く沒收せらる、此後輝元入道宗瑞、家の事をば秀元に讓り、我が身は長門の國萩の城に住し、秀元は同き國府にぞ住しける、初め輝元、男子なかりし時、叔父穗井田備中守元淸が嫡子秀元を子として、後二人の男子をまうく、兄は秀就、弟は就隆と名づく、秀就童名は松壽丸、其後藤七郞と改め、慶長四年に叙爵して、長門守に任ず、同き五年十月十一日に侍從になされ、十三年六月、大御所の御孫女三河守殿の御娘、秀就の家に入り給ふ、大坂の軍、起りし時、秀元秀就共に關東に馳せ向ひ、東西和睦あつて後、二人同じく本國に歸る、再び軍起りしに、秀元速に馳上りて軍す、秀就は海路心に任ぜずして、軍散して後に參る、寛永二年四月廿七日、輝元入道宗瑞、年七十三歲にて卒す、同き三年八月十九日、秀就少將に任ず、八年十月五日參議秀元、秀就に家を讓る、秀就國務を行ふ事、凡そ廿一年、年五十七歲にして、慶安四年正月五日に卒す、秀就に御家號を賜ひし事、いつれの時といふ事を知らず、子息大膳大夫綱廣、承應二年十二月十一日、元服し御諱字を賜り、從四位下に叙し侍從に任ず、御刀を賜ふといふ、
  1. — 지면 그대로. 같은 단락 할주는 「小早川/左衞門佐」로 적고, 隆景의 관명도 통설 左衛門佐
參議兼甲斐守大江秀元は、元就の五男、穗井田備中守元淸の男、元淸は備中國中山の城にあり、秀元は淸元第二の男と云なり初め元就卒し、嫡孫輝元家を繼ぐ、天正十二年、元春、隆景、備中の國に至り、秀元いまだ宮松丸と申て、年僅か五歲なるを見て、武家補任の秀元が卒年を以て、逆に推すに、此時は六歲なるべきにや、されど是はかの傳記の說あり隆景この幼き人の、父元就に似たまひし事の怪しさよ、如何さま只人にてはおはすべからず、輝元いまだ世嗣なし、毛利の家つぐべき人、此人にや侍らんと云ければ、舍兄元春、我もさこそは存ずれとて、兄弟共に相謀り安藝國へ伴ひ、輝元の見參に入る、輝元大に悅て、頓て養て子とす、秀吉世を知召して後、輝元の人質として、大坂に參る、關白殿、この幼き者、よのつねの人にあらずとて、事に觸れて譽めさせ給ふ事多かりき、文祿元年の秋、大廳の御違例、名護屋の御陣に聞ゆ、太閤大に驚かせ給ひ、急ぎ御船に召され、大坂に趣き給ひしに、豐前の國大浦の沖にして、御船巖に馳せ懸り、忽に碎く、宮松丸も安藝國廣嶋にて御待まうけすべしとて、これも名護屋を立て同じく上る程に、此由を見奉りて、おのが船を馳て追つき、難なく太閤を助け奉る、殿下深く感じ思召し、大坂に伴ひ給ひ、頓て都にのぼせて、正四位下に叙し、侍從に任じ、家號なのらせ、諱字賜りて、秀元と召さる、明れば二年三月、秀元を名護屋に召して、急ぎ朝鮮に渡つて、晋州の城を攻め破るべき由を仰せ下さる、秀元一方の大將を承り、彼の國に向ひ、六月廿九日晋州の城を攻落し、打取る首一万餘、名護屋の御陣へ獻り、又釜山浦の戰に、勳功を顯はす、此勳賞に參議從三位になさる、是は毛利家傳記の說なり、此後太閤より賜ひし御敎書にも、宰相と見えたり、公卿補任を見るに、秀元參議從四位下たる事は、慶長九年に見ゑたれば、德川殿天下を知召して後の事か、覺束なし、歸朝の後、太閤の聟君には、なされてけり、慶長二年、再び朝鮮に至り、王城近く攻め入り、引返して、西生浦に陣取り、蔚山の後卷して、本朝に歸る、太閤薨じ給ひて、朝鮮に在りし軍勢、迎へんがため、秀元筑紫に下向せし所、軍全くして歸りければ、渡海に及ばず、幾程なく輝元、石田三成に、かたらはれて大坂に上り、德川殿を失ひ參らせんとす、秀元大に驚き、輝元を諫めて、秀賴いまだ幼なくまします、如何で內府を善しとも惡しとも思ひ分ち給ふべき、殊に君は近頃內府と親しうならんとて、誓ひを結び給ひしとこそ承るれ、それに幾程もなく、其誓を背きて、奉行等が方人し給はん事、ゆめ〱然るべからずと云ひしかど、輝元これに從はず、秀元力及ばずして、さらば君は秀賴の御供して、東國に攻め下り給ふべし、秀元先陣仕らん、秀賴自ら向ひ給ふと聞えなば、內府に從ひて奧に下りし人々、みな御陣へぞ參らんずらん、さらんに於ては、などか御方、勝軍せでは候ふべきと、言葉を盡し勸めしに、これも猶用ゐられず、三成が下知として、秀元勢田に陣を取り、伊勢の國に打向ひ、又引返して、美濃の國に趣き、南宮の山に陣取つたり、去程に關が原の戰、東西既に矢合すと聞えしに、毛利が先陣吉川、心變りして、秀元が下知に背き、諸卒を制して戰はず、上方の軍、悉くに敗れ、南宮の味方、一支もなく逃げ散り、吉川また德川殿に參りしかば、秀元戰ふに堪へず、東國の多勢を押分け〱大坂に歸る、輝元大に驚き、秀元にも謀らず、大坂の城を去て、おのが別業に遁れ、入道して降人に成て參る、かくて輝元餘多の國々、沒収せられ、周防長門兩國を賜り、長門の國をば秀元に讓り與ふべしと仰せ下さる、秀元此由を承り、輝元が嫡子の、はべれば、兩國を事2をば彼にこそ賜ふべけれと申して、我身は僅か豐東豐西豐田三郡を領し、長門の國府に住して、長門守秀就が成人の程、彼家の事を執り行ひ、常に關東に伺候す、頓て兩國の公役、免除せらる、これ當時城普請等の事なり、秀元の妻、失せし後、大御所の御養君、かの家に入らせ給ひけり松平因幡守康元の女也大坂の軍起りし時、秀元秀就、關東に侍ひしを、御跡に留めらる、秀元、水野監物忠元に就きて、大御所に訴ふるは、秀元忝けなくも、御養女を下されて、妻とし、秀就また御孫女を迎へ奉る、如何でかく御心をば隔て給ふらん、あはれ御許を蒙り、秀就を引具し馳せ向て、一方の先陣を賜らばやと望む、大御所、伏見の御陣にて、此由を聞召し、頓て二人を召されたり、東西御和睦ありし後、秀元秀就、本國に歸る、元和元年の五月、軍再び起ると聞て、秀元秀就に牒狀し、夜を日に繼て上る程に、西海南海の諸軍勢、いまだ一人も參らざりしに、大坂に馳せ着き、軍して、首三百餘切て獻る、此內證據正しき首撰て、百五つを奉りしなり、秀就は、軍散じて後、馳せ參る、秀元御感に預る上は、秀就別の御咎もなし、寬永の初、秀元關東に伺候しける時、輝元入道宗瑞、秀元の許へ使下して、井原加賀淸水信濃といひしものなり、我家むかし領する所の地、十箇國に及べり、今入道が身に及び、わづか兩國の賦稅を以て、彼の累代の家人に充て行ふに、上も下も悉くに貧しく苦しみて、軍國の賦役に堪ふる事を得難し、既に公役に奉ずる事を得ずんば、國賜らん事、其詮なきに似たり、たゞ須らく兩國の地を以て、將軍家に返へし奉るべし、如何にもして宰相の計らひにて、我家滅びざらん樣を賴み思ふ所なりとぞ云はせける、秀元大に驚き、士井大炊頭1利勝に就きて、此由を歎き申す、大相國家、聞しめされ、秀元いかにも計らふべしと仰せ下さる、秀元まづ周防長門の地を丈量す、初め兩國の租入、合せて三十万斛と聞えしを、今代の法を以て量るに、凡そ七十八万斛を得たり、入道此由を聞て、悅ふこと限りなく、安堵の思ひをなしてけり、同き二年宗瑞入道卒しぬ、八年十月五日に秀元、秀就に家を讓る、自ら五万石を領し長府の城にあり、かくて左大臣家の御時に至て、秀元むかし年纔に十四五にて、朝鮮を伐たれし大將を承りし事を聞召し、此人たゞ人にあらざりけり、去れば文武の名譽、世の人にも、許されたり、門葉といひ、官位といひ、家光が友とすべき人、此朝臣に若くはなしと仰せありて、常に御前に召され、昔今の物語ども聞召す、これを世には御はなしの衆といふ、十七年の秋、興多からん地を擇ばれ、海に向ひ山に倚り、品川の邊に假の御所を構て、秀元御儲けすべしと仰せ下され、九月十六日、かの御所にならせ給ふ、總て御儲の次第、心も詞も及ばれず、終日の御遊、事終り、いざよひの月出て、あるじ歌よみて、奉りしかば、御感殊に斜ならず、引出物多く賜て、還御なる、また正保元年の秋、昔の遊興、忘じ難し、此度は西城にて御饗應仕るべしとて、十月九日、山里の御所を貸し給て、御まうけす、物を賜ふ事又多し、かくて秀元年積りて七十二歲にて、慶安三年閏十月三日に卒し、嫡子從四位下和泉守光廣、家を繼き、承應二年七月二日、三十八歲にして卒す、武家補任を按るに、寬永十二年從四位下和泉守になさると云々、寛永三年九月、行幸の記に、毛利侍從光廣と記せり、初め從五位の侍從になされ、十二年に四位に昇れるにや覺束なし、また元服の時、御諱字賜りしといふ、何れの年にや知らず、其子甲斐守綱元、父が家を繼ぐ、寛文四年十二月廿五日從四位下の守に任し、御諱字を賜はる、此流毛利と稱す、
  1. — 지면 그대로. 「土井」의 저본 오식으로 보임
  2. — 지면 그대로. 「兩國の事」의 저본 오식으로 보임