同き十年武田亡び、
織田殿うせ玉ひ、
德川殿甲斐國に入て、
北條と戰ひし時、
康政大須賀と共に、敵を破る、
十二年秀吉信雄の戰ひに
德川殿小牧に御陣をすゑられしは、
康政が勸め參らせし所なり、
長湫の戰に先陣し、
上方の多勢を打散らし、
蟹江の城を攻め破りき
今年十月、
德川殿の御軍班されしに、
小牧の御陣に留て守る、かくて
秀吉所々の軍に負け、
信雄卿に中直り、
德川殿に好みを結び、終に
御妹を
濱松へまゐらせらるべき事定り、
康政都へ參るべしと、望み給ひしかば、
都に登り、かねて
富田左近將監が家を、
康政が旅舘に點ぜらる、
康政都に入し日、
關白殿彼家に、成らせ玉ひ、
康政が手を取て、今日の對面こそ珍しけれ、むかし
小牧の陣にして、
康政みかたの輩に牒狀し、大恩忘れて
主君の子うしなはんとする、惡逆無道の
秀吉に組する事やある、と云ひしには、
秀吉怒りに堪へずして、その
康政生ながら參らせたらんものには、勳賞は乞ふによるべしと、天下にふる、今かく
德川殿と親しくなつたれば、
康政等が如き家人、數多さふらふ事、
秀吉が悅びとは成たるなり、明日の見參、なほ待遠に思へば、忍びて參りたるは如何にと仰らる、
康政殿下へ參りし時、御もてなし、言葉にも述べられず、御嫁娶の式、仰合され、引出物多く給りてかへさる、程なう
御妹を下し玉ひしに、まづ
康政が家へ御輿を寄せられ、引つくろはせ給ひて參り給ふ、
今年十月德川殿の供奉して上洛す、從五位下に叙し、
式部少輔に任す、
關白殿執し申されし故なり、
德川殿の御家人任官の始とぞ聞えける、
同き十六年、
殿下北條の上洛を催さる、
氏政氏直のたもふ旨あつて、
北條美濃守氏規を
都にのぼせられしに、
德川殿よりも、
康政を副らる、
北條の望にまかせ、
眞田安房守昌幸、
關白殿の仰奉りて、
上野國沼田の城を
北條へ下げわたしゝ時も、
康政關白の御使に副て、
眞田が許に行向ふ、然れども、
北條終に上洛なかりしかば、
同じき十八年關白殿に攻められて、降人に成て參りしかど、
氏政は自害させ、
氏直をば助けらる、此御使にも副られたり、
此年德川殿東國へ移り玉ひしとき、
康政に
上野國舘林の城を賜、
十万石、關白殿仰らるゝ旨ありしゆゑとぞ聞えし、
同き年十月陸奧に逆徒起り、
德川殿御退治あるべきにて、
康政先陣承り、既に打立せ玉ふに、事平ぎぬと告け申候へば、
十九年正月十一日、
岩手澤より引返さる、
文祿元年二月二日康政、
中納言殿に仕へ奉るべきよしを仰下さる、
慶長三年の秋太閤薨し給ひ、
明れば四年の正月大坂の
奉行人等、
德川殿を失ひ參らせんと謀り、窃かに軍兵を催し、
伏見の御舘を襲はんとす、此由既に披露して、
德川殿に馳せ參て、
御舘を守護せし大名も少からず、
康政このほど
東國より登るとて、道にてかくと聞き、夜を日に繼きて馳する程に、
近江の國勢多に至り、
德川殿御恙なしと聞て、此所に新關を建てゝ、往來の旅人を止む、
德川殿の軍勢既に
勢多まで馳せ上りて、雲霞の如く陣を取ると、
大坂に聞えしかば、たやすう寄せも來らず、
康政勢多に留る事三日、
同月廿八日の夕暮に、關を開て、此間諸國より來り集つたる旅人、たゞ一時に
大津山科や
醍醐狼谷を經て、
京伏見に走せ上る、是を見る人、あな夥しの
東國の勢や、何万騎あらんといふもあり、又
秀忠中納言の多勢を引て上り玉ひしなどいふほどに、
大坂の人々いよ〱心おくれして終に和ぎけり、
此夕康政大童なるはゝにて馳せ參りしかば、
德川殿大に悅ばせ玉ひ、みづから打蚫とつて給ひけり、
同き五年の秋、
奧の
景勝御追討のとき、
康政中納言殿の先陣を打て下る、かゝる所に
上方にも軍起りぬと聞えてければ、まづ此所の軍をば止め、引かへして
上方へ向かはせ玉ふべきにて、
中納言殿は
山道を打て登らせ玉ふに、
信濃の
眞田が
上田の城に立こもつて、御勢を遮らんとす、
本多佐渡守正信申す、
安房守が勢にて城を出て戰はん事叶ふべからず、たゞ打棄てゝ片時も早く御登りあつて、
海道の軍のやうを聞召あはさるべしと有けるに、
大番の人々、はしたなく、城の兵と行き逢て軍仕出たし、城旣に落べかりしを、
佐渡守制し止めて、
小諸の城に御陣移させ參らせ、軍せし輩を罪科に處す、これ御下知を待たずして軍せしゆゑなりけり、こゝより間道を經て、のぼらせ玉ふ、
正信が計らひにて、直路は敵に近しとて、避られし故とぞ申ける、
康政は
眞田が軍せんやう、如何ほどの事かあらん、打出なば蹴散らして、その城を蹈み破て、くれんずものをとて、おのが手勢ばかりにて、城近く押して通るに、
昌幸敢て止めんともせず、
關が原の軍事終りぬと道にて聞召、
中納言殿殊の外、憤らせ玉ひて、御馬を早められし程に、
近江國草津の宿にて、
德川殿に參りあひ玉ふ、されども
大御所内々御氣色宜しからざる事あつて、三日を過るまで、御對面ましまさず、こは如何なる事ぞと、御家人等驚きあへり、まして山道の御供にさふらひし輩、大に恐れをのゝく、
康政夜に入て、
德川殿の御前に參り申すやう、こたび
中納言殿、御不審蒙らせ給ふ事、
康政等が罪科、最も輕かるべからず、たゞし風聞の及ふ所、
中納言殿、
上田の城を攻おとし給はず、又押ても御通りなく、殊に
海道の合戰にもあはせ給はぬ事を、御不審ありと承り候ひぬ、若し此條に候はんには、恐れある申事に候へども、
殿の御誤りなきにしもあらず、抑、
殿は
今月九月なり朔日に、
江戶を御首途あつて、
同十一日尾張國淸洲の城に入らせ玉ひ、僅かに二日を過て、
美濃國へ御陣を進められ、
十五日に至て、御合戰事畢て候、誠に
御父子一所に
三成等を御誅伐あらんと思しめされなば、かねて軍の御首途あらん期をも告させ玉ひ、また
海道よりも、御使を參らせられ、
山道の御勢を催さるべき事ならずや、また今暫く、
淸洲の城に御陣を止められ、
山道の御勢を待せたまふとも、
三成等が謀、如何ほどの事か候べきに、など御軍をば急うせ玉ひ候ひしやらん、然るに、たゞ今に至りて、偏に
中納言殿の御怠りにのみならせ玉ふ事、御不運とこそ申べけれと、憚る所なく申ければ、さればこそ、
八月晦日の日、使を馳せて、明日首途すと告け、
山道の勢も急き馳上りて、軍の手合せせよといひつれと宣ふ、
康政さん候、其御使
今月七日、
小諸の御陣へ來り畢んぬ、夫故にこそ、
中納言殿も驚かせ玉ひ、道のほと御急きあつて、候ひつれ、常だにも、日本第一の難所と承る、
木曾の細道を、大雨を冐し、大軍をひきゐて、一日がうちに十五六里が程を、御馬を進められしかば、馬も人も皆疲れはてゝ候ひきと申す、
德川殿、やあ、其使は如何に、かくは遲く參りけるぞと、御使を召して、御糺問ありしに、霖雨ふりて、此處彼處水かさ增り、人馬の通ひ絕て候ふゆゑに、遲參に及びぬと申す、
康政重て申けるは、また
上田の城を攻め給はざりしは、古い者共が、强ちに諫め止めまゐらせし故なりき、
中納言殿には、攻破つて御通り有べしと御諚ありしかど、年老たる輩を附け參らせられし事は、諫をも進め、謀をも獻れとの御事に候、たとへ御心に叶はせ玉はぬ事なりとも、我等が諫に從はせ給はんが、
大殿の御心に任せらるゝにあらずやと申ける上は、御心にも任せ玉はず、されば、彼城を攻めう攻めじの爭ひにも、日をこそ移し候ひつれ、それ父子の御中にてわたらせ給へば、凡の事の御敎訓には、如何ほどの御勘氣も、など無からざらん、御年も壯にならせ玉ふ
御子の、行末は天下の事をも知召さるべきを、弓矢取ての道に、父の御心に叶はせ給はざりしと、人の侮り申さんは、
御子の恥辱のみにあらず、父の御身にも如何でかその嘲りを免かれさせ玉ふべき、これ程の御遠慮ましまさぬこそうたてけれと、淚を流し諫め奉れば、
德川殿御心とけて、
明れば九月廿五日、
伏見の御城にて御對面在て、
海道の軍のやうを、御物語りあり、
山道の事をも問せ玉ひしかば、
中納言殿みづから御筆を染られ、
康政が此度の心ざし、我が家の有らん限りは、子々孫々に至るまで、忘るゝ事あるまじき由の御書を給はりしとぞ聞えたる、かくて、此程の軍の勞をも、なぐさめんと、
侍從直政井伊中務少輔忠勝、
本多康政と共に夜一夜、酒呑み遊びしに、
直政康政に向うて、さても此度わどのが身を忘れて、諫め爭ひしに因て、
御父子の御中、平らかにわたらせ玉ふ事、家と國との御爲のみにあらず凡世のため天下のためにて侍れば、如何なる勳にも功にも勝りぬとこそ存ずれといひしかば、
康政も心よげに見えしに、
忠勝これを聞て、
直政の宣ふ所、勿論なり、されど、こゝに
忠勝が心得ぬ事一つあり、
康政云ひ開き玉ひなんやといふ、
康政笑て、何事にもあれ承らんといふ、
忠勝わどのが
大殿をだに、个程に諫め申しゝ身の、
佐渡守正信の後にのみ從ひしこそ心得ね、我等三人が事は、
德川殿にさる者ありと、天下の人にも許されぬ、弓矢とつての道には、
康政の謀り申さん事、大方いさみし申す人あるまじものを、などわどの先陣して、一日の內に
眞田が、城を攻やぶつて、とく御供しては上らぬぞ、若しさもあらんには、たとへ海道の合戰にあはずとも、
大殿の御氣色、个程までにはあらじ、さらば又わどのが身を捨て諫め爭ふにも及ふまじと思ふは如何にと云へば、
康政答ふるに詞なくて、三人一同に打笑ひ、數盃の興をぞ添にける、
康政と
忠勝とは、同年にて同地に、ひとゝなりしかば、幼きより互ひに、親しかりしゆゑ、常にはかゝる事をも、いひ爭ひけるとなり、
同き十一年四月、
康政舘林の城にて病に伏す、
將軍家大に驚かせ玉ひ、
酒井雅樂頭忠世康政か聟なり、土井大炊頭利勝を召し、汝等速やかに醫師ゐて行け、心の及ばんかぎり、よきに治療を加へよと仰下され、又日々に、御使あつて、訪はせ玉ひしかど、終に
五月十四日五十九歲にて卒しぬれば、御歎き淺からず、御吊使として、
阿部備中守正次ゆき向ひ、賻給ふ事多し、
康政大須賀五郞左衞門康高が娘に相偶して、子四人をまうく、嫡男は外祖の世つぎとなる、
大須賀出羽守忠政是なり、二男
遠江守康勝、一人の娘は、
酒井雅樂頭忠世が妻、其妹は
將軍家の御養女、
武藏守利隆の室、
池田少將光政の
母上なり、