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榊原

第四上 · 단락 6 · 780520 88코마 R부터

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지명 5 5 5 4 3 3 3 3 3 3 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1

式部少輔源康政は、伊勢の仁木が流れなり、右京大夫義長の後胤、一志郡榊原の住人、七郞右衞門淸長、參河國に移て、源藏人殿に親忠君仕へ奉る、延德の比ほひ、當國井田の戰に、子息長政十二歲、父淸長と共に軍して、高名を現はす、以上太田山中が德川記といふ書に見えたり、長政成人の後、七郞右衞門と申て、永祿五年に死す、其男子二人、兄は孫十郞淸政、後にこれも七郞右衞門といふ、弟は小平太康政とぞ申たりける、康政生年十六歲、上野の城の戰に高名をあらはす、永祿六年の事あり、其後德川殿の御身近く仕へまゐらせ、成人の後、御諱字給て、康政とめされ、一方の大將を承る、永祿十一年七月2、堀川の城を攻めらる、三河國にあり、1康政先陣を承り、時に廿一歲なり、康政一番に城を攻め破りしより、遠江の國掛塚、天方永祿十二年の事、等を始め、犬居、天正二年の事、高明、同き三年、高天神、同き八年より九年にいたる、近江國姉川、元龜元年の事等を始として、或ひは城を攻め、或ひは野に戰ふ事、數を知らず、凡そ康政が向ふ所、打破らずといふ事なし、中にも、元龜三年十二月廿二日三方が原の合戰、武田信玄入道が先陣、山家三方の輩をば康政が手にて打破り、御方既に負軍して引かへすに、康政一勢退かず、小高き所に旗打立て、手の軍兵を集めつゝ、城東郡のかた西郡へ靜かに引てぞ歸りける、また天正元年七月長篠の城を攻めらる武田四郞勝賴、後卷せよとて、武田左馬助信豐同刑部入道信綱を先として、信豊をば、後の典厩といひ、信綱をは逍遙軒といふ、宗徒の侍大將餘多差向く、康政此時は御跡に留りしが、大須賀、五郞左衞門康高なり、本多、作左衞門重次なり、と相謀り、同き九月七日信綱入道が陣取たる、森の地に押寄せて、散々に打破る、武田が家の亡ふべきまけ軍の始とは、後にぞ思ひ合はせける、此後長篠の戰より武田終に亡ぶるに至るまで、所々の軍に功あらずといふ事なし、
  1. — 지면 그대로. 堀川城은 遠江国 引佐郡(浜名湖 북안, 현 浜松市 細江町)에 있었다
  2. — 지면 그대로. 徳川軍의 堀川城 공략은 통설 永禄12年(1569) 3月이다. 할주의 康政 「廿一歲」는 永禄11年과 맞는다
同き十年武田亡び、織田殿うせ玉ひ、德川殿甲斐國に入て、北條と戰ひし時、康政大須賀と共に、敵を破る、十二年秀吉信雄の戰ひに德川殿小牧に御陣をすゑられしは、康政が勸め參らせし所なり、長湫の戰に先陣し、上方の多勢を打散らし、蟹江の城を攻め破りき今年十月、德川殿の御軍班されしに、小牧の御陣に留て守る、かくて秀吉所々の軍に負け、信雄卿に中直り、德川殿に好みを結び、終に御妹を濱松へまゐらせらるべき事定り、康政都へ參るべしと、望み給ひしかば、都に登り、かねて富田左近將監が家を、康政が旅舘に點ぜらる、康政都に入し日、關白殿彼家に、成らせ玉ひ、康政が手を取て、今日の對面こそ珍しけれ、むかし小牧の陣にして、康政みかたの輩に牒狀し、大恩忘れて主君の子うしなはんとする、惡逆無道の秀吉に組する事やある、と云ひしには、秀吉怒りに堪へずして、その康政生ながら參らせたらんものには、勳賞は乞ふによるべしと、天下にふる、今かく德川殿と親しくなつたれば、康政等が如き家人、數多さふらふ事、秀吉が悅びとは成たるなり、明日の見參、なほ待遠に思へば、忍びて參りたるは如何にと仰らる、康政殿下へ參りし時、御もてなし、言葉にも述べられず、御嫁娶の式、仰合され、引出物多く給りてかへさる、程なう御妹を下し玉ひしに、まづ康政が家へ御輿を寄せられ、引つくろはせ給ひて參り給ふ、今年十月德川殿の供奉して上洛す、從五位下に叙し、式部少輔に任す、關白殿執し申されし故なり、德川殿の御家人任官の始とぞ聞えける、同き十六年、殿下北條の上洛を催さる、氏政氏直のたもふ旨あつて、北條美濃守氏規を都にのぼせられしに、德川殿よりも、康政を副らる、北條の望にまかせ、眞田安房守昌幸、關白殿の仰奉りて、上野國沼田の城を北條へ下げわたしゝ時も、康政關白の御使に副て、眞田が許に行向ふ、然れども、北條終に上洛なかりしかば、同じき十八年關白殿に攻められて、降人に成て參りしかど、氏政は自害させ、氏直をば助けらる、此御使にも副られたり、此年德川殿東國へ移り玉ひしとき、康政に上野國舘林の城を賜、十万石、關白殿仰らるゝ旨ありしゆゑとぞ聞えし、同き年十月陸奧に逆徒起り、德川殿御退治あるべきにて、康政先陣承り、既に打立せ玉ふに、事平ぎぬと告け申候へば、十九年正月十一日、岩手澤より引返さる、文祿元年二月二日康政、中納言殿に仕へ奉るべきよしを仰下さる、慶長三年の秋太閤薨し給ひ、明れば四年の正月大坂の奉行人等、德川殿を失ひ參らせんと謀り、窃かに軍兵を催し、伏見の御舘を襲はんとす、此由既に披露して、德川殿に馳せ參て、御舘を守護せし大名も少からず、康政このほど東國より登るとて、道にてかくと聞き、夜を日に繼きて馳する程に、近江の國勢多に至り、德川殿御恙なしと聞て、此所に新關を建てゝ、往來の旅人を止む、德川殿の軍勢既に勢多まで馳せ上りて、雲霞の如く陣を取ると、大坂に聞えしかば、たやすう寄せも來らず、康政勢多に留る事三日、同月廿八日の夕暮に、關を開て、此間諸國より來り集つたる旅人、たゞ一時に大津山科や醍醐狼谷を經て、京伏見に走せ上る、是を見る人、あな夥しの東國の勢や、何万騎あらんといふもあり、又秀忠中納言の多勢を引て上り玉ひしなどいふほどに、大坂の人々いよ〱心おくれして終に和ぎけり、此夕康政大童なるはゝにて馳せ參りしかば、德川殿大に悅ばせ玉ひ、みづから打蚫とつて給ひけり、同き五年の秋、奧の景勝御追討のとき、康政中納言殿の先陣を打て下る、かゝる所に上方にも軍起りぬと聞えてければ、まづ此所の軍をば止め、引かへして上方へ向かはせ玉ふべきにて、中納言殿は山道を打て登らせ玉ふに、信濃の眞田が上田の城に立こもつて、御勢を遮らんとす、本多佐渡守正信申す、安房守が勢にて城を出て戰はん事叶ふべからず、たゞ打棄てゝ片時も早く御登りあつて、海道の軍のやうを聞召あはさるべしと有けるに、大番の人々、はしたなく、城の兵と行き逢て軍仕出たし、城旣に落べかりしを、佐渡守制し止めて、小諸の城に御陣移させ參らせ、軍せし輩を罪科に處す、これ御下知を待たずして軍せしゆゑなりけり、こゝより間道を經て、のぼらせ玉ふ、正信が計らひにて、直路は敵に近しとて、避られし故とぞ申ける、康政は眞田が軍せんやう、如何ほどの事かあらん、打出なば蹴散らして、その城を蹈み破て、くれんずものをとて、おのが手勢ばかりにて、城近く押して通るに、昌幸敢て止めんともせず、關が原の軍事終りぬと道にて聞召、中納言殿殊の外、憤らせ玉ひて、御馬を早められし程に、近江國草津の宿にて、德川殿に參りあひ玉ふ、されども大御所内々御氣色宜しからざる事あつて、三日を過るまで、御對面ましまさず、こは如何なる事ぞと、御家人等驚きあへり、まして山道の御供にさふらひし輩、大に恐れをのゝく、康政夜に入て、德川殿の御前に參り申すやう、こたび中納言殿、御不審蒙らせ給ふ事、康政等が罪科、最も輕かるべからず、たゞし風聞の及ふ所、中納言殿、上田の城を攻おとし給はず、又押ても御通りなく、殊に海道の合戰にもあはせ給はぬ事を、御不審ありと承り候ひぬ、若し此條に候はんには、恐れある申事に候へども、殿の御誤りなきにしもあらず、抑、殿は今月九月なり朔日に、江戶を御首途あつて、同十一日尾張國淸洲の城に入らせ玉ひ、僅かに二日を過て、美濃國へ御陣を進められ、十五日に至て、御合戰事畢て候、誠に御父子一所に三成等を御誅伐あらんと思しめされなば、かねて軍の御首途あらん期をも告させ玉ひ、また海道よりも、御使を參らせられ、山道の御勢を催さるべき事ならずや、また今暫く、淸洲の城に御陣を止められ、山道の御勢を待せたまふとも、三成等が謀、如何ほどの事か候べきに、など御軍をば急うせ玉ひ候ひしやらん、然るに、たゞ今に至りて、偏に中納言殿の御怠りにのみならせ玉ふ事、御不運とこそ申べけれと、憚る所なく申ければ、さればこそ、八月晦日の日、使を馳せて、明日首途すと告け、山道の勢も急き馳上りて、軍の手合せせよといひつれと宣ふ、康政さん候、其御使今月七日、小諸の御陣へ來り畢んぬ、夫故にこそ、中納言殿も驚かせ玉ひ、道のほと御急きあつて、候ひつれ、常だにも、日本第一の難所と承る、木曾の細道を、大雨を冐し、大軍をひきゐて、一日がうちに十五六里が程を、御馬を進められしかば、馬も人も皆疲れはてゝ候ひきと申す、德川殿、やあ、其使は如何に、かくは遲く參りけるぞと、御使を召して、御糺問ありしに、霖雨ふりて、此處彼處水かさ增り、人馬の通ひ絕て候ふゆゑに、遲參に及びぬと申す、康政重て申けるは、また上田の城を攻め給はざりしは、古い者共が、强ちに諫め止めまゐらせし故なりき、中納言殿には、攻破つて御通り有べしと御諚ありしかど、年老たる輩を附け參らせられし事は、諫をも進め、謀をも獻れとの御事に候、たとへ御心に叶はせ玉はぬ事なりとも、我等が諫に從はせ給はんが、大殿の御心に任せらるゝにあらずやと申ける上は、御心にも任せ玉はず、されば、彼城を攻めう攻めじの爭ひにも、日をこそ移し候ひつれ、それ父子の御中にてわたらせ給へば、凡の事の御敎訓には、如何ほどの御勘氣も、など無からざらん、御年も壯にならせ玉ふ御子の、行末は天下の事をも知召さるべきを、弓矢取ての道に、父の御心に叶はせ給はざりしと、人の侮り申さんは、御子の恥辱のみにあらず、父の御身にも如何でかその嘲りを免かれさせ玉ふべき、これ程の御遠慮ましまさぬこそうたてけれと、淚を流し諫め奉れば、德川殿御心とけて、明れば九月廿五日、伏見の御城にて御對面在て、海道の軍のやうを、御物語りあり、山道の事をも問せ玉ひしかば、中納言殿みづから御筆を染られ、康政が此度の心ざし、我が家の有らん限りは、子々孫々に至るまで、忘るゝ事あるまじき由の御書を給はりしとぞ聞えたる、かくて、此程の軍の勞をも、なぐさめんと、侍從直政井伊中務少輔忠勝、本多康政と共に夜一夜、酒呑み遊びしに、直政康政に向うて、さても此度わどのが身を忘れて、諫め爭ひしに因て、御父子の御中、平らかにわたらせ玉ふ事、家と國との御爲のみにあらず凡世のため天下のためにて侍れば、如何なる勳にも功にも勝りぬとこそ存ずれといひしかば、康政も心よげに見えしに、忠勝これを聞て、直政の宣ふ所、勿論なり、されど、こゝに忠勝が心得ぬ事一つあり、康政云ひ開き玉ひなんやといふ、康政笑て、何事にもあれ承らんといふ、忠勝わどのが大殿をだに、个程に諫め申しゝ身の、佐渡守正信の後にのみ從ひしこそ心得ね、我等三人が事は、德川殿にさる者ありと、天下の人にも許されぬ、弓矢とつての道には、康政の謀り申さん事、大方いさみし申す人あるまじものを、などわどの先陣して、一日の內に眞田が、城を攻やぶつて、とく御供しては上らぬぞ、若しさもあらんには、たとへ海道の合戰にあはずとも、大殿の御氣色、个程までにはあらじ、さらば又わどのが身を捨て諫め爭ふにも及ふまじと思ふは如何にと云へば、康政答ふるに詞なくて、三人一同に打笑ひ、數盃の興をぞ添にける、康政と忠勝とは、同年にて同地に、ひとゝなりしかば、幼きより互ひに、親しかりしゆゑ、常にはかゝる事をも、いひ爭ひけるとなり、同き十一年四月、康政舘林の城にて病に伏す、將軍家大に驚かせ玉ひ、酒井雅樂頭忠世康政か聟なり、土井大炊頭利勝を召し、汝等速やかに醫師ゐて行け、心の及ばんかぎり、よきに治療を加へよと仰下され、又日々に、御使あつて、訪はせ玉ひしかど、終に五月十四日五十九歲にて卒しぬれば、御歎き淺からず、御吊使として、阿部備中守正次ゆき向ひ、賻給ふ事多し、康政大須賀五郞左衞門康高が娘に相偶して、子四人をまうく、嫡男は外祖の世つぎとなる、大須賀出羽守忠政是なり、二男遠江守康勝、一人の娘は、酒井雅樂頭忠世が妻、其妹は將軍家の御養女、武藏守利隆の室、池田少將光政の母上なり、
遠江守康勝、父が家を繼き、慶長十九年冬、將軍家の先陣打て、大坂に向ふ、明る元和元年夏、井伊掃部頭直孝、先陣を奉し、康勝二陣に定められ、ふる兵なればとて、藤田能登守信吉を康勝に副られたり、藤田の傳別にあり、五月六日直孝木村長門守と若江にて戰ふ、康勝同しく戰はんとす、能登守制して、御方の多勢に向ひ、出むかつて軍する敵の、陣の張やうの薄きこそ、怪しけれ、あの譽田の森に續きたる繁みに、勢引かくし、御方勝に乘て亂れたらん時に、打出て戰んずと覺ゆるぞ、井伊既に勝ぬと見ゆ、伏兵今に起りなん、其敵打破て捨つべきものをと云ひけるに、敵思ふにも似ず、敗れ奔る、康勝が手に、首少々打取りぬ、明れば七日、天王寺の合戰に、康勝きのふ軍せざりしを憤て、二陣に定れども、直孝と押並んて陣し、敵の多勢打破り、首七十八獻る、能登守信吉も、みづから手二か所まで負て、手の者に首きらせたり、兩御所康勝信吉めして、御感の仰かうむる、かゝる所に同廿七日康勝風毒腫わづらひ出し、年三十六歲にて、俄に卒す、兩御所大に驚かせ玉ひ、郞從等召して、康勝が子や無かりしと尋ねられき、そのついでに、若江まて、など合戰には及ばざりしと宣ひしに、郞從等かしこまりて、井伊木村旣に戰を合はすと見て、康勝が手の者共、同しく進み戰んとす、藤田能登守信吉、康勝と共にこれを制す、信吉さる兵と承はる、いみじき謀やあるらんと存じけるに、敵終に敗れしかば、軍にはあはず、康勝いまだ年わかし、强からん謀にこそ從ふべけれと存ぜしに、身の煩しき故にや、信吉と心を合せて、進み得ず、されば天王寺合戰には、隨一の郞從、伊藤忠兵衛眞先に討死し、手の者、盡く命を捨て戰ひし事、先日の恥を雪がんがためなりき、かゝる煩ひある身なればにや、家繼がすべき子とても侍らずと申す、大御所此由を聞召、頓て信吉めして御糺問あり、終に康勝が郞從等と訟へ起りて、自ら御裁斷にぞ及ひける、
康勝加藤淸正が娘に相具してけれど、それには子なくして、妾の腹に男子一人あり、平十郞といふ、然るに、郞從等、子なきよしを申しゝは、彼の郞從等、多くは康政が時に附けさせ玉ひし兵共なりければ康勝が家亡ひなば、將軍家にめし返さるべき由を申し謀りけるゆゑとぞ、聞えける、郞從等既に康勝が子なきよしを申ければ、彼の平十郞をば、片田舍なる所に隱し置きしを、後に肥後守忠廣、傳へ聞き、康勝が子ありし事を大に悅ひ、將軍家へ披露あるべきよし議せられしかど、郞從等が謀事あらはれて、彼等が罪逃れ難きのみにあらず、家の爲にも然るべからずとて、とかくためらふうちに、忠廣流刑に處せられしかば、その事も叶はず、一門の人々よきに計うて、康勝が甥なりと披露しければ召し仕はるべしとて僅かの祿給りて、二三年が程を經しが、悔しき事に思ひ、世を遁れ入道して、高野にこもりゐしを、備前少將光政が緣りにつきて備前の國に、むかへとりぬ、後に榊原香庵といひしは、この平十郞か事なり、
式部大輔忠次は、大須賀出羽守忠政が男なり、忠政即ち故の式部少輔康政の嫡男、外祖の家繼しなり、御家號を賜りて松平と名のりけり、忠次三歲の時、親父出羽守忠政におくれ、幼けなかりしかど家繼て、橫須賀の城賜ひぬ、此時松平五郞左衞門、大坂の兵起りし時、忠次幼少なれば、橫須賀の城にありて、手の者をば參らすべしとあり、忠次同しく罷り向はんとて、既に打立しに、御和睦事成しと聞て、道より引返す、再ひ兵起りし時も、初めの如く仰下されしかど、忠次仰に從はず、伊勢國にて、御陣に馳せつきて、天王寺に至る、此年叔父康勝卒して子なきよし聞えて、忠次して、祖父康政が家繼かせ玉ひ、從五位下式部少輔に任せられしかば、大須賀の家は絕てけり、正保元年七月十一日、忠次奧州白河の城に移り、十四万石、もとは舘林十一万石を領す、慶安二年六月九日、播磨國姫路の城に移る、寛文三年從四位の侍從になされ、同四月將軍家日光御社參の御留守の事を仰蒙る、同き五年三月廿九日年六十一歲にして卒す、其子刑部大輔政房父につぎ、寛文七年五月廿四日廿七歲にて卒し、其子式部大輔政倫三歲にて父につぎ、同き年越後國村上の城に移り、本領のまゝ、1延寶五年の夏に叙爵す、
  1. — 지면 그대로. 앞 열 끝 「移」에 이어지는 「り」가 할주 오른줄 첫머리에 들어가 있음(저본 조판)